河口和己③

 メロディアを名乗る少女の服装は、如何せんアバンギャルドに過ぎる。白いリボンで何を表現したいのか、何を意識したのかもよくわからないし、その美貌と足し合わせた時のリアリティーの無さと言ったら、美術館に展示してある流線型のオブジェもかくやという勢いだ。とにかく超現実的な印象だけが強く残り、褒めるべきか貶すべきか考える次元にすら達しない。着替えた方が良い、と浅葱が言うのは尤もだし、和己もそう思うが、ことはそう簡単でなかった。

「僕の服、小さ過ぎるから絶対着れないよ?」

「馬鹿ね。和己の服着せるなんて誰も言ってないでしょ。お、あ、えーと……、私の服なら絶対入るから、一旦ウチに連れて行くのよ」

 ずっと続いている、浅葱の笑顔。

 どんな感情を隠そうとしているのか、和己にはわからない。昔から、和己のよく知る浅葱のすぐ傍に、どこか得体の知れない別の浅葱が遠い目をして居座っているように感じることがあった。これが何を意味するのかは、どうしてもわからない。勘の鋭くない和己には一生理解出来ない複雑な雰囲気を、浅葱は常に身に纏っていた。昔から。出会ったばかりの、本当に、幼少の頃から。

 だが、ここまで露骨に奇妙だと思ったのはさすがに初めてだった。張り付いた笑み。乾いてもいない、上手に浮かべられた表情。激情が潜んでいることだけは間違いない。浅葱は今、それに衝き動かされているのだ。

「何で、わざわざ浅葱のとこに連れてくのさ。一階の和室にお母さんの服がいくつか残ってるから、それ着せればいいじゃん」

 浅葱がやろうとしていることを、止めた方がいい。そんな気がしていた。和己にはわからない何かが、悪い方向に向かって転がり出そうとしている。

「いいの。おばさんの服なんて、着たくないでしょ、メロディアちゃんも」

 浅葱のその言葉に、メロディアが気圧されている。それはそうだ。この扱い方は何だ。浅葱は、メロディアが自分の名前を名乗った折のふざけたセリフで、完全に自分を上位に置いている。おそらくあのセリフだけで確信したのだ。彼女が、体よくあしらえる類の愚か者でしかないということを。

 ああ、そうか。

 簡単な話だ。これはきっと、嫌がらせを兼ねた人間鑑定なのだ。浅葱は、とにかくメロディアをこの格好のままで外に連れ出したいのだ。天然ボケを体現しているような電波少女を、現実社会の冷たい視線の中に晒して、そのリアクションで本質を見極めようとしているのだ。もしも電波を放ち続けるようならば相手にする必要はなく、思い切って病院に連れていけば良いし、本性を現して素の自分を垣間見せるようなら、詳しい事情を聞いた上で警察に突き出してしまえば良い。

 それが浅葱の狙いなのだろう。だからこそ笑っていたのだ。本当に楽しそうに。

 だが和己はそこまで思い至っても不安を拭えない。浅葱は明らかに失念している。この、メロディアというふざけた名を名乗るふざけた格好のふざけた人間が、それでもしかし和己の部屋に不法侵入しているという紛れも無い事実があり、その侵入理由までも同様にふざけているとは限らないのだということを。基本的には犯罪者という立場なのだ、この娘は。和己にしても、この少女が精霊であるなどと全く信じていないのに、何故か、警察を呼ぶより先に詳しい事情を訊き出したいというような気持ちを喚起されており、それはどう考えても、この少女のとんでもない格好とわけのわからない態度の為せる業でしかない。もしもこの少女が悪意からそれをしているのだとしたら、和己達はまんまと罠に嵌っているだけだ。少女から事情を聞こうとしたり、外界に晒してその反応を窺ってみたり、とりあえずメロディアの正体を自らの手で確実に暴こうとしている時点で、相手の術中に嵌っているのかもしれないのだ。

 危惧。冷静に考えれば、ここは何よりも先に警察に一報を入れなければならない場面だ。

 精霊云々であるとか、そういった部分を微塵も信じていないのならば尚更。メロディアが凶悪な犯罪者でないという保証が無い以上、下手に刺激するのは危険だ。

「うーん、わたくし、可愛い服なら何でも好きですよ」

「ほら、決まりだ。おばさんの服は渋すぎるから駄目だ。ウチに行こう」

 和己の思いと裏腹に、さくさくと話が進んで行く。焦りは禁物。だが、和己は焦る。思考が上滑りする。空回りの始まり。

「え、えーと、まあ、あまり納得出来ないけど、ここで色々言ってても時間の無駄だし、僕も着替えたいし、メロディアさんには、浅葱の家に行って着替えてもらうということにしてみようかな」

 二人分の視線を浴びて、思わずそんなことを口走ってしまう。大きな失態。だが、和己にはそもそも反論の芽が思いつかないのだ。警察に連絡した方が良い、と正論を吐くことすら、もうこの状況では許されない。本当の意味でメロディアを警戒するのならば、警察という言葉を出すことすら刺激を加えることに他ならないからだ。まして、正論抜きで浅葱を説得できるほどの話術があるなら、とっくにメロディアの方に自首を勧めている。

「あー、浅葱の家は隣だから、すぐだよ、すぐ。ほとんど外歩かないから、他の人に会ったりなんて絶対しないね。それに、浅葱の両親はここ一週間、社員旅行だか何だかに出かけてて留守だから、そっちの心配もいらないし」

「ええ、大丈夫です」

 メロディアが、にこりと笑いかけてくる。きゅう、と胸が締め付けられる。その表情すらも悪意に裏打ちされているのだと半ば強引に思い込んで頬の上気を抑える。浅葱が不審そうな目でこちらを見てきた。今の一言で、わざと遠回りなどしてメロディアを無闇に連れ回したりしないよう、釘を刺したのだ。邪魔するな、とでも言いたいのだろう。

「ま、一刻も早く帰って来てね。詳しい話、早く聞きたいから」

「和己」

 鋭い浅葱の声に、和己は思わず身を竦ませた。浅葱は、じっとこちらを見詰めている。

「……何?」

「警察には絶対に連絡しないでね」

 視界が、ぐにゃりと歪んだ。そんな気がしただけだった。一体どうしたというのだろう。どうして浅葱は、こんなにもメロディアの肩を持つのだろう。自らの手で好き勝手にこの件を裁きたいのか、自分のことを精霊と言う奇天烈な人間に純粋に興味が沸いたのか、あるいは和己がそうである以上に強烈にメロディアに惹かれているのか。いずれにしても、視野の狭窄を起こしているのは間違いない。これでは、浅葱に危害が及ぶ危険性がある。メロディアの本質が掴めていない以上、極めて危ない。二人きりにしてしまっては、何が起こるかわからない!

「警察に連絡すると、何か、話が大きくなりそうでしょ? メロディアちゃんのためだけじゃなく、和己のためにも、あんまり得策じゃないと思うのよ。おばさんに心配かけることになるしさ」

 浅葱が畳み掛ける。本人には畳み掛ける意志はなくとも、和己にはそうとしか思えない。

 どうして、反論の余地がいつも無くなってしまうのだろうか。和己が何を言うよりも先に、浅葱が結論を出してしまっていて、何故かいつもそっちの方が正しいのだ。だからこそ、考えても考えても考えてもあるいは考えなくても、和己には結局何も出来ない。

 今回も、同じなのか。

 全く同じならば、それでよい。きっと、浅葱の方が正しいのだろう。口を挟む余地すらなくて、必要すらなくて、上手に話が収まるのだから。

 だが、何かが、おかしい気がする。どこかに引っ掛かりを感じる。今回だけは、このままではいけない気がする。

 異常事態なのだ。明らかに異常事態なのだ。「いつも」のように行くはずが無い。

 これは、和己の問題だ。逃げてはいけない。考えろ、考えろ、考えろ。どうにかして、事態を変えろ。きっと、好転する。そう、世界はいつだって――

「ま、そんなわけで、ちょっと行って来るから。和己は着替えて待ってて。行こう、メロディアちゃん」

「はい、ご主人様、行って来ます」

 和己の苦悩を他所に、驚くほどあっさりと二人は部屋を後にした。待って、というその一言さえかけることが出来ず、和己の思考は全て無駄に終わった。水泡に帰す。小さく談笑する声があって、階段を下りる音が聞こえてきて、玄関の扉の開く音がしてようやく、和己は立ち上がった。窓辺に駆け寄って家の前の道路を覗くと、門扉を抜けた浅葱とメロディアは仲良く並んで歩いていた。手でも繋ぎそうな勢いである。制服姿の浅葱と、全裸に紐を巻いただけのメロディアが一緒に外を歩いている様は滑稽以外の何物でもなかったが、それを奇異の目で見る観衆はありがたいことにどうやら全くいないらしかった。浅葱がメロディアの不様を世間に晒してどうこう、というのも全然見当違いだったのかもしれない。気になったのはメロディアが靴も履いていないことくらいのものだが、本人が気にしていないようなのでどうでも良いことと言えた。そして二人はすぐに、和己の部屋の窓から見て死角、井倉家の家屋自体の陰にと消えた。そのまま歩いて家に入って、そしてメロディアが浅葱の服に着替えて戻って来るのか。ぶかぶかだろうけど。

 和己は頭を掻いて、溜息を吐いた。パジャマ代わりのTシャツを脱ぎ捨てる。ごちゃごちゃ考えていたが、全て杞憂だったのかもしれない。やはり今回も、浅葱の方が正しいのかもしれない。それでも全然構わない。不甲斐ない自分は嫌だが、物事が丸く収まるに越したことは無い。メロディアは、まあ、あの外見相応の電波娘で、話してみると意外と良いところがあって、簡単に意気投合してみたりして、三人すっかり仲良しの友達になれるのかも知れないし、そっちの方が犯罪者説よりもマシに決まっている。そもそも、先ほど和己は彼女に「頭大丈夫?」みたいなことを言ってしまっており、これは十二分に刺激を加えているし、それでも気を悪くした素振りを見せていないのだから、凶悪な人間でないことなど自明ではないか。良い人なのだ、基本的に彼女はおそらく。そうだ。そうなのだ。そうに違いない。きっと特別で真っ当な理由があるのだ、この家に侵入したことについても。もしかしたら、実は三年前からこの家の屋根裏で潜んで暮らしていた、みたいな仰天話から始まって、生き別れになった両親を探して全国を旅して回る、波乱万丈な人生の物語を訥々と語ってくれるかもしれない。そんなの聞いたら、和己は思わず泣いてしまうだろう。

 何だ。杞憂だったのかもしれない。全てが考え過ぎで、考えていたわりに的外れだったのかもしれない。悪いことはやっぱり何にも起こらないのかもしれない。今日は、この後、学校に行くのだろうか。行くとしても遅刻になる。いっそ、お気に入りの服に着替えて、戻って来たメロディアと浅葱と三人で買い物にでも行くか。生まれて初めて学校をサボる。ふむ、なかなかに魅力的な選択肢だ。一生の内一日くらいこんな日があっても罰は当たるまい。精霊を名乗る女の子が現れた日だけは、学校をサボることが許されるのだ。そんな決まりごとを作ったって良い。昨日と違う今日が来た。目に見える形でそれが起こった。世界は何て面白いんだろう。

 そんなことを考えながら動いていたのに、和己はいつものように制服に袖を通してしまっていた。今なら何をしても許される気がしたが、その思いは全くの諦めにも似ていた。逸脱することより、軌道に乗り続けることの方が余程難しい。自分は自暴自棄になっていて、全てを投げ出すつもりなのかもしれない。そうやって一度道を踏み外してしまえば、元の軌道に上手く戻って来られる保証などない。そんな危惧が、和己に高校生らしい健全な登校を強く勧める。例え今からではどうやっても遅刻になるのだとしても。

 なのに、ボタンを全て止めた辺りで、胸が苦しくなる。今度は『普通』に嫌悪を覚える。嫌だ。純粋に、そう思えた。昨日と違う今日に憧れる。どうしてかはわからない。だが、このまま学校に行ってしまうと、敷かれたレールの上をひた走るという使い古されたフレーズに飲み込まれそうだった。ずっと後になってから後悔しそうな予感がした。つまらない大人になったのは、あの時学校をサボれなかったからだ、と……。

 不思議な迷いの中で頭を掻いたら、ぼさぼさの頭に思い至った。顔を洗ってこよう。髪形を整えてこよう。脳内のどこかが麻痺している。頭を冷やしてこよう。

 和己はもやもやした不安を抱えたままドアを開け、自室を出た。

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