河口和己②
和己にとって全く無為なだけの時が流れていた。何をしていいのかわからない時に何もしないことが才能の一つであるならば、今度からそれを特技の欄に書き込める。そんな益体もないことを考えたのは、ずっと後になってからである。和己は本当に何もしていなかったので、考える、などもってのほかだった。
「あの、あんた、一体何者なの?」
その声が聞こえた時和己は、雲の中を飛んでいるようなあやふやな感覚に酔っているところだった。例えるなら殆ど泥酔である。
真っ白になった頭の中はまるでわた飴みたいだった。しばらくそんなことを考えていると、懐かしい甘さが口の中に広がり、祭囃子が遠くから聞こえてきたので、ようやく自分の頭が本当におかしくなりつつあることを悟った。お面屋の幻覚が見えたら、きっと和己はそこに居座ってしまっていただろう。
このままでは駄目だ。
意識してゆっくりと現実に戻って来ると、半裸の美少女に組み敷かれているという、世間の男達なら大半は羨ましがりそうな状況にあるのだったが、こちらの方は自分の頭がおかしくなったせいではないらしく、本当に本当だった。当然ながら、実際にその憂き目にあっている和己は、そんなことで喜ぶわけがない。
「答えなさいよ」
不自然な作り声で恫喝しようとしているその声の主は、和己にはすぐにわかった。あまりにも馴染みがあったからだ。
どうやら、部屋を出て行った浅葱が戻って来てくれたらしい。完全にこちらを誤解したようなセリフを吐いていたので、怒って一人で学校に行ってしまったのかと思っていた。家のドアを開ける音さえも聞こえた気がしたのだが、気のせいか、あるいは幻聴だったのだろう。頭がおかしくなっていてよかった。
声の鋭い調子から察するに、浅葱は怒っているようだった。その口調に、和己は反射的に自分が叱られているような気分になって萎縮してしまう。母親代わりになるという例の約束以来、浅葱はこんな口調のまま、何かにつけて本気で自分を叱ることがあった。恐る恐る目線をずらして確認すると、浅葱が睨みつけているのは和己の上に乗っかっている少女の方だったので、胸を撫で下ろす。当然と言えば当然で、浅葱が今更和己に対して一体何者なのかと詰問する道理は無いのであった。
少女は、可愛らしい仕草で小首を傾げてから、ぎゅっと和己の首筋にしがみついた。少女の暖かい吐息が首に当たってくすぐったい。が、そんなことに照れている場合ではない。浅葱の背中で、闇の炎が吹き上がる。そんな幻覚が確かに見えた気がした。少女の細い足が和己の足に絡みついてきた。闇の炎は龍の形をとって、浅葱の背から飛び出して来そうだ。その躍動感に、和己は恐れ戦く。たった今笑い出したら間違いなく精神科に連れて行かれるだろうという完璧な予測が立ったためにかろうじて笑うのを堪えたような、そんな不自然な筋肉の動かし方をして頬を痙攣させながら、曖昧な顔で浅葱を見た。
「た、たすけて」
今度は最後まで言えた。今更言わなくても、浅葱はこの少女に対して敵愾心を剥き出しにしているようなので、大丈夫だとは思ったが。
案の定浅葱は、眉を吊り上げたままでこちらに近付いてきて、
「あんた、和己から離れなさいよ! 和己が困ってるでしょうが!」
と、母親代わりモードの口調で少女を怒鳴りつけてくれた。和己は優秀で勇敢な幼馴染に心底感謝し、感涙に咽んだ。実際はさすがに泣いていなかったが、間違いなく気分的にはそれほどの感動だった。持つべきものは毎朝自分を起こしに来てくれる家族同然の異性の幼馴染である。
新体操のリボンみたいな紐を身体に巻きつけた少女は、浅葱の剣幕に恐れを成したのか、それとももう十分に気が済んだのか、ゆっくりと顔を上げて、和己の上から身体を退かした。和己は、仰向けのまま上半身だけ起こして、もがく様に少女からさらに距離をとる。ぺたんと床にお尻をつけて座る少女は、その背まで流れる紫の髪と、肝心な所が見えそうで見えないぐるぐる巻きのリボンも手伝って、この世のものとは思えない可憐さを振り撒いていた。艶っぽい唇に指を当てて、物欲しそうな目でこちらを見つめてくる。
浅葱が和己の前に立ちはだかり、その視線を自分の身体で遮った。和己は、制服姿の浅葱を、斜め下から見上げるような角度になる。気恥ずかしくなって、その頼もしい背中から目を逸らす。戻って来る間に、エプロンは外したらしい。
「訊きたいことは山ほどあるんだから、とっとと答えて。まず、あんた、名前は?」
少女は、音も立てずに立ち上がった。リボンの片端をだらりと床に垂らし、引きずっている。その割に、それ以上解けて来る様子は無い。右手を胸に当てて顎を引き、上目遣いで浅葱の方を向いた。悩殺のポージングだった。和己ですら魅了されそうになった。浅葱があからさまにたじろいで半歩引く。
「初めまして。わたくし、ご主人様に幸せを届けに参りました、愛と音楽と舞踏の精霊、セリスティア・メロディアと申します」
「は?」
一瞬の間が開いた。
電波だ。和己は確信した。
ここで言う電波とは勿論、電気通信に主に用いられる赤外線以上の波長を持つ電磁波の方ではなく、そう言った謎の影響力を持った目に見えない何らかの波動を自分の中の電波塔で独自に受信してしまったがために一般の人からは頭のおかしいとしか見えないような奇特な行動を取っている人間の方である。
ぞわっと細い腕に鳥肌が立つ。
非現実的でありながら、どこかで耳にしたことのあるような、少女の不可解なセリフ。漠然と、ありがちだと思わせてしまうその不気味さ。恐怖。どこがありがちだというのか。そんな経験のある知人が未だかつて和己の周囲にいたとでも? そんな話がごろごろ転がっていたとでも? どこかで聞いた話。だが、それは現実? 現実にあるのか? 現実?
漫画でしかあり得ないだろう、こんな話は。
和己を襲ったのは、紛れも無く怖気であった。怖気の走るほどの寒さであった。
「寒! 何言ってんの、君? 頭大丈夫?」
直後、頭頂部を上からグーで殴られた。驚くべきことに、加害者の名は井倉浅葱だった。和己の幼馴染と同姓同名であり、同一人物でもあるそいつは、不思議なことに和己をきつく睨みつけた。
「あんたねえ、いくら頭の悪そうな人が頭の悪そうなこと言って来たからって、言って良いことと悪いことがあるでしょうが。何てったって相手は頭の悪そうな人なのよ!」
和己よりも余程ひどいことを大声でまくしたててから、今度は一転してメロディアと名乗った少女に笑顔を向ける。それを受けたメロディアの微笑も心なしか引き攣っているようだ。
「暴力反対」
ぼそりとつぶやいた和己の言葉はさらりと無視された。ばつが悪くなった和己は頭を掻いて立ち上がり、ベッドまで移動する。丁度、浅葱とメロディアの両者から同じくらいの距離のところを選んだ。メロディアは、身体の向きを少しだけこちらに向けて修正した。一瞬遅れて、巻きついているリボンが僅かに揺れる。それはまるで生きている蛇のようで、和己は薄気味悪さを感じた。
「あ、そうか、詳しい話をする前に――」
一人、仁王立ちの様相を呈している浅葱が腕を組みながら続けた。何かを思いついたような笑みが顔面に張り付いている。和己には何がなんだかよくわからない。
「いつまでもそんな格好ってのもあれだから、ちょっと着替えた方がいいわね」
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