井倉浅葱①

 誰にだって秘密の一つや二つはある。

 井倉浅葱にしてもそれは全くの例外ではないが、その秘密というのが、『井倉』も『浅葱』も仮の名前に過ぎず、元気で勝気な高校一年生という人格も偽りの姿に過ぎず、その正体が闇の組織の特殊工作員なのだと言えば、大抵の人間は目を丸くして驚くか、あるいは発言者の正気を疑うに違いない。

 これが冗談で済むのならまだ良いが、真実なのだから恐ろしい。

 井倉家で浅葱の両親という続柄にあることになっている二人の中年の男女と浅葱には血の繋がりなどないし、この二人にしても夫婦ではなく同じ組織に所属する同胞に過ぎない。井倉家の夕食時は傍から見れば暖かい家族の団欒風景以外の何物でもないが、食事に箸をつける順番と目線の動きで意思疎通を図る特殊な会話法による報告会議の役割をも担っている。今日は何か変わったことはなかったか、と父が味噌汁を啜れば、特に異常はありませんでした、と母が漬物に手を伸ばし、こちらも同様です、と浅葱が麻婆豆腐を口に入れる。ちなみに井倉家の食卓にカレーライスが並んだ時は、何か緊急の議題がある印である。一晩寝かせたカレーが次の日も出てきたら、やっぱり同じ議題である。

 浅葱の所属する組織には、日本国内だけで五千人を超える工作員が所属しており、皆、虚実に程度の差はあれど、偽造した戸籍を有し、社会の中に巧みに溶け込んで活動を続けている。特に、国会議員と官僚の中に潜入している者が多いが、日本支部を統轄する部局長は都内の公園でダンボール暮らしをしている初老の男性である。つまり、仮にメディアで報道されることがあったならば『住所不定無職』という冠が付けられる人種だ。

 浅葱はまだ幼い頃、たった一人、公園で大きな声をあげて泣いている所を部局長に拾われた。実のところ『拾われた』と言うよりも『攫われた』という表現が余程近いが、浅葱には本物の家族に対して何の愛着も無かった。火傷の痕が、今でも少し背中に残っている。寒い日に熱いシャワーを浴びると、鈍く疼く。本物の家族が浅葱に残してくれたのは、そんな消したい過去くらいだった。捜索願すら出なかった。

 部局長は優しかった。紳士的に浅葱を扱い、直々に指導もしてくれた。

 幼稚園に入るくらいの年齢になった時、浅葱は今の両親役エージェントに初めて会った。部局長の手が回らなくなったとかで、生活面においてはその二人に一任されることになったのだ。二人とも、ドライではあったが、放棄することなく浅葱の世話をし続けてくれた。ご近所付き合いは完璧だったので、外からは幸福そうな家族にしか見えなかったことだろう。昼間は井倉家のエージェントの元に身を寄せ、夜は代々木にある組織本部に通う。それが浅葱の毎日の日課だった。この世界の裏事情に関する知識を叩き込まれ、人体の構造から銃器の使い方までをレクチャーされた。浅葱は物覚えがよく、小学校低学年にして、全二五五種類の『エターナル・ギミック』の名前と特徴、形態、効果、所持者の明らかになっているものに関してはその所在地まで、全て暗記した。部局長の秘蔵っ子である浅葱には、組織の幹部達からも過度の期待が寄せられていた。昼間は幸せな家庭に育つ平凡な子供を演じ、夜は組織で天才だと持て囃されて育った。幼い浅葱はあまり笑わない子供だったが、その分、にっこりと微笑むと、それだけで皆が可愛い可愛いと褒めてくれた。笑顔を計算で見せるだけのしたたかさを、当時の浅葱は既に備えていたのだ。

 自他共に認める天才。

 それが単なる傲慢であったのだと気付かされたのは、最初の実践任務を与えられた時だ。浅葱はその時わずか一〇歳。大抜擢であると言えた。勿論それは、幼さをカモフラージュに使う作戦上の都合もあっての起用ではあるが、非常に重要な任を任されたという事実に変わりはない。実に名誉なことだ。浅葱は胸を期待に膨らませ、夏休みを利用して中東に飛んだ。現地のエージェントと合流し、いくつかの説明を受けた後、二挺のライフル銃と赤外線スコープを手に、下水道を通って地下から国営の研究所に潜入した。

 そして任務は大失敗に終わった。浅葱の組織は、歴史的大敗を喫した。世界の裏側で暗躍している数多の非合法組織の中で、浅葱の組織は最も強大なものであったはずだった。何者による妨害をも撥ね退けて、目的のために一直線、脇目も振らずに邁進出来るだけの経済力、軍事力、政治力を有し、構成するエージェントの誰一人をとってみても、皆、超一流のスペシャリストであるはずだった。少なくとも浅葱はそう教えられていた。敗北など、あり得なかった。あってはならなかったのだ。

 邪魔をして来たのは、綺羅星の如く現れた法治組織、『世界秩序機構』だった。世界の秩序と安寧のために、『全エターナル・ギミックの管理』を標榜するその集団は、浅葱の組織に正面から堂々と宣戦布告し、浅葱達が継承して利用する予定だったエターナル・ギミックを、横から掠め取って奪い去り、勝手に封印してしまった。他の現地のエージェントは皆、命からがら逃走したが、浅葱はまんまと罠にかけられて現地の警察組織に捕縛された。そして本国へ強制送還。日本の子供が中東の紛争地域で人質事件に巻き込まれた、という歪められたニュースが全国を駆け回り、秘密工作員であるはずの浅葱の顔と名前は、一斉にメディアに流れた。夏休み明け、大丈夫だったの、犯人はどんな風だった、などと尋ねてくる級友達の鬱陶しいことといったらなかった。

 それ以来、浅葱に回される任務は、難易度が低い割にやたら体力を使う短期のものばかりとなり、自宅待機の時間が増えた。代々木の組織本部での直接指導は、複合的要因のために打ち切りになり、世界秩序機構に関して独自に調査したデータは、両親役のエージェントの手でアクセス禁止にされた。懲罰の名目で殴打される回数も増えた。

 それがこの組織のやり方だった。誰も浅葱を天才と呼ばなくなっていた。

 組織から足を洗いたいと思ったが、それが許されないことなど分かりきっていた。表社会に知らん顔で戻るには、浅葱は世界の裏の顔を知り過ぎていたのだ。どこにも逃げられない。ここにいるしかない。誰にも打ち明けられない悩みを抱えたまま、浅葱は中学生になり、そして高校生になった。

 発狂しそうなほどの心の痛みを癒してくれる存在は、しかしずっと傍にいた。

 幼馴染の河口和己である。

 和己は、浅葱の正体など知りはしなかったし、何の相談に乗ってくれるわけでもなかったが、その和己の、邪気の無い笑顔が浅葱にとってかけがえのない宝物だった。その笑顔を見ていられるだけで、無性に幸せになれた。闇の世界で天才と呼ばれた浅葱にとって、凡人と蔑んできた類の一般人に心を許すのは屈辱的であるはずだった。だが、和己に対する思いだけは違った。それは、非常に心地の良い依存だった。和己だけが、他の誰とも別の場所にいたのだ。

 あの初任務の時。中東から戻って来た浅葱に対して、和己は事件のことに何も触れなかった。マスコミが見張っていた表口を避けて、裏口から遊びに来るなり、一言、クーラーが効いているからこの部屋は涼しいね、とだけ言った。そんな当たり前のことを当たり前に言ってくれる人が浅葱の周りにはいなかった。浅葱は泣いた。わんわん声をあげて泣いた。和己はその横で、浅葱の頭を撫でながら笑っていた。笑いながら少しだけ泣いていた。

 井倉浅葱は、河口和己という存在によってかろうじて現世に繋ぎ止められている。和己は蜘蛛の糸のようなものだった。罪深い自分にもたらされた、天からの最後の慈悲。細く弱々しい、救いの御手。それは鋏を入れれば、容易く切れてしまう。そして自分は奈落へと落ちて行く。そんなことは十分わかっていた。浅葱は天才なのだから、そんな当たり前のことに、考えが回らないはずは無いのだった。

 自分がどれだけ危ない場所に立っているか、考えない日はなかった。自分を見失わずにいられたのは、隣に和己がいたからなのだ。



 その朝。二階でその怪異と対面した瞬間、浅葱の目の前は真っ暗になった。白く大きな手が、鋭い刃で蜘蛛の糸に切り掛かっている映像が頭を掠めた。浅葱は自分を呪った。組織を呪った。自分に関わる全ての黒い世界を呪った。自らの中の暗黒を呪った。逃げ散っていく意識の飛沫の煽りを受け、何かが手の中から滑り落ちて行った。比喩でも何でもなく、物理的にそれは起こった。握力も平衡感覚も、自分に纏わる全てが嘘になったような瞬間があった。その何かが床にぶつかって粉々に砕け散ってくれるのを望んだ。耳をつんざくような音を立てて弾けて欲しかった。そうすれば、浅葱の衝撃は世界に垂直に投影される。浅葱の中の均衡は崩れ果てたのだと、暴力的に悟らせてもらえる。三流ドラマのように、悲劇的なシーンが安っぽく完成する。だが、それは為らない。掌から零れたプラスチック製品は床にぶつかっても硬い音を鈍く響かせるだけ。残酷なまでに冷静。ひび割れる余地すらない、それが現実だった。

 光の世界への掛け橋を、今完全に失いつつある。

「初めまして、ご主人様」

 浅葱は確信した。間違いない。……こいつは、『女神』だ。

 後悔した。きっと、罰が当たったのだ。

 和己が第一志望の学校に落ちたのは、浅葱の仕業だった。浅葱は組織のネットワークを使って、入試の採点に細工を加えた。和己の志望高校に、浅葱はどう転んでも入れなかったので、和己に落ちてもらうしかなかったのだ。同じ高校に通って、少しでも長く一緒にいるためには、そうするしか。

 そうだ。きっと、そのせいだ。私利私欲のために和己の幸せを奪い取ったから、神様が自分に罰をお与えになるのだ。なるほど、それで『女神』が自ら出向いて来るとは、なかなか洒落ているではないか。

「和己……、あんたそんな趣味があったんだ」

 とってつけたような、どうしようもないセリフが口を付いて出てきた。何の皮肉にもなっていなかった。何も誤魔化せてはいなかった。こいつは、何と言っても『女神』なのだから。間違いない。浅葱の真意は悟られただろう。

 慌てて部屋を出て、階下へと向かう。制服のポケットからハンカチを取り出し、目元を拭う。和己のことを思う。嗚呼、もう、今日までの二人には戻れない。絶対に。 浅葱はそれを確信して、世界が絶望の色に変わる、やけに澄んだ音を聞いた。

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