河口和己①
高校一年生の河口和己は、拭い難い劣等感にいつも苦しめられていた。
何しろ、背が低い。いや、『背が低い』という表現では物足りない。『体が全体的に小さい』と言うべきだろう。何かの機会に友人の口を突いて出た、「和己って、後ろ姿なら小学生ですって言っても通るんじゃない?」という軽口は見事に核心を突いており、和己の胸の奥底にまで到達して深々と突き刺ったまま、かえしの付いた針の如く容易には抜けなくなった。その友人は知らなかったろうが、和己の身長は小学六年の女子の平均身長と比べて五ミリも足りていなかったし、和己はそれをずっと気にしていたのだ。
背の低さが劣等感の大元なのだから、女の子から「小さくて可愛い」なんて言われても当然何のフォローにもならない。何より和己はそもそも、女の子から可愛いと言われて喜ぶような柄でもなかった。
クラスでは苛められないよう他人に気を配るだけで精一杯。交友関係が広いとはお世辞にも言えず、元々の大人しい性格も手伝って、学校では全く目立たない生徒の内の一人だ。
生活態度に問題はないのだから、勉強の一つでも出来れば優等生としてちやほやされる資質はあるのだが、残念ながら成績の方はあまり芳しくない。中学時代までは校内でそれなりの順位を維持しており、全国模試で成績上位者ランキングに名を連ねるというかなりの好成績を収めた経験すら持つが、肝心の高校受験で第一志望だった私立高校に玉砕したのを期に、完全に憑き物が落ちた。自宅から徒歩で通える距離にある滑り止めの高校に進学し、本来なら自分の学力で役不足のはずの学校で、まさかの役者不足を露呈した。早々に授業について行くことが出来なくなり、最初の試験の順位はクラスで後ろから六番目。数学と化学以外の科目は平均を大きく下回って赤点すれすれで、優しいのか甘いのかわからない寛大な教師陣のおかげでかろうじて追試を免れたという体たらくだった。
また、その体格から推し量れるようにスポーツも全くの苦手分野で、短距離でも長距離でもとにかく徹底的に『走る』ことに関しての適性を欠いており、ウォーミングアップの段階で体育教師に二、三度「真面目に走れ」と厳しく注意されたほどだ。勿論、球技やマット運動、水泳など、どれ一つとってもしっくりこなせるものなど無い。昔からプロ野球を見るのは大好きで、わざわざ球場まで足を運ぶことさえあったが、自分で野球をやったことは殆ど無かった。チームメイトの足を引っ張ってしまうのが火を見るより明らかだったので、団体競技には極力参加しないようにしていた。失敗して他人から責められるのが怖かったし、何一つ言い返す言葉を持たない自分がひどく惨めだった。
少年漫画に触発されて始めた囲碁でも、全く芽が出なかった。中学の囲碁部の顧問には才能が無いとまで言われた。部活の引退の時期を待たずにやめた。高校に入ってからは何をする気も起きず、非常に自然な流れで帰宅部に落ち着いた。放課後は一人でずっとゲームに没頭し、あるいはテレビとインターネットで時間を潰し、学校で出された課題があればそれをこなすだけの生活だ。興味本位から手を出してみたギターも、一時期熱中した小説執筆も、全て早々に投げ出してしまった。趣味も特技も無い。両方とも、和己には必要のないものだった。
実のところ、本当は生活の全てを投げ出してしまいたいくらいだった。
和己は自分のことを完全に見限っていた。何をしても成功しないのなら、はじめから何もしなくても同じことだ。いつの頃からか、積極的に何かをする気は完全に失せていた。
ただ、虚無感を理由に自ら命を絶つという風なことを考えるには、和己は幸せ過ぎた。お気楽過ぎた。自分自身に対しては不満だらけだったが、和己はこの世界が基本的に好きだった。嫌なことは大概、自分が不甲斐ないために引き起こされるだけで、世界そのものは中立か、あわよくば和己贔屓の立場で存在しているのだと、それくらいのことを考えていた。普段の単調な生活は一見味気なくとも間違いなく刹那的な享楽を与えてくれるし、和己は少なくとも自分のことを不幸だとは思わなかった。退屈の中で退屈を感じないだけの生活に満足していた。時折、「こんな日々を過ごしていていいのだろうか」という漠とした不安が頭を不意に掠めても、何の根拠も無く「明日は今日より素晴らしい何かが起こるに違いない」と信じるくらいにはポジティブだった。たとえその「何か」が、夢というのも憚られるような幻想に塗れた虚構であったとしても、和己本人は一向に気にしなかった。
だから、いつも何となく笑っていられた。
その朝、和己を眠りの底から引きずり上げたのは、いつも通り、隣に住んでいる幼馴染の井倉浅葱の大声だった。
「こら和己、起きろー。これ以上ないくらい清々しい朝ですよー」
科白と合わせて毛布越しに身体を揺さぶられ、和己は清々しさとは正反対の不快に襲われた。ただでさえ寝起きが悪いというのに、文字通り叩き起こされては堪ったものではない。和己はイライラした様子を隠しもせず、毛布を強く身体に巻きつけてそっぽを向いた。口の中でもごもごと呟くように、寝言と文句の中間産物を吐き出した。
「浅葱、勝手に人の家に上がりこむのやめてくれない。犯罪だよ」
薄目を開けて確認すると、高校の制服の上にエプロンを付けている浅葱は、そんな和己に輪をかけて苛立っていた。二人にとってはお馴染みの、毎朝の光景である。
「ったく、何で今更そんなこと言ってんの? 正論でも吐いてるつもり? それで私を論破出来るとでも? おばさんから、和己のことよろしくって言われて鍵まで預かってるんだから、どう考えても合法でしょ。そもそも、おばさんの頼みで『仕方なく』来てあげてるわけだから、感謝の言葉こそあれ文句を言われる筋合いはないはずじゃない?」
「じゃあ、来なくていいよ」
「だったら朝食は誰が作るの、誰が」
和己は、二階建ての庭付き一戸建て住宅に一人暮らしをしているという現実ではなかなかお目にかかれない極めて珍しい境遇の高校生だった。和己の父親は名のある探検家であり植物学の権威でもあったが、和己が五歳の時に調査先のジャングルで行方不明になってしまった。河口家はそれ以降、母一人子一人の生活をずっと続けていた。それなりの苦労はあったが基本的には楽しい二人暮らしで、和己は父の不在を恨んだことなど人生で一度も無かった。だが昨年の暮れ、父の調査隊が行方不明になったことから打ち切られていた植物研究の追調査が決まると、状況は一変した。過去に父の研究室で助手を勤めていた和己の母は、調査隊入りを志願し、和己の反対を押し切って地球の裏側に飛んで行ってしまったのだ。「私はあんたの母親である前に、あの人の妻なのよ!」と、昼ドラか何かに影響されたであろう薄ら寒い言説を高らかに宣言された和己の衝撃は、筆舌に尽くし難い。結局、高校受験直前という最悪のタイミングで和己の一人暮らしは始まってしまい、家族ぐるみで付き合いのあった井倉家が色々と便宜を計ってくれたが、結果は前述のように少々不本意なものに終わっている。それについて恨みがましく母に国際電話で報告したところ、返って来た言葉は、
「ま、でも、そのおかげで良いこともあったじゃない。例えば、井倉さんとこの誰かさんと同じ高校に行ける、とか――」
即刻切ってやった。
……確かにそうなのだ。何の因果か、幼稚園小学校中学校と続いた和己と浅葱との腐れ縁は、和己の受験失敗のせいで高校まで存続することになった。こうして毎朝和己を起こしに来る浅葱の習慣も、朝食の準備という豪勢なおまけまで付いてしっかり維持された。浅葱は、自分の分は自分の家で食べて来るので、河口家では和己の分しか作らない。和己がそれを平らげていく様を、テーブルの向かいに座ってにこにこと眺めるばかりだ。「美味しい?」とも何とも訊かないので和己はあえて何も言わないが、正直なところこれが実に美味しい。気紛れなサービスで時折作られる小さなお弁当も絶品だし、浅葱の料理技術をどうにかして盗みたい、と和己は常々思っている。
「朝食なんて食べなくても大丈夫。ダイエットにもなるし」
和己が夢心地で呟く。反撃は痛烈だ。
「和己はダイエットなんて考えないでもいいでしょうが。むしろいっぱい食べて大きくなりなさい」
「じゃあ、寝る子は育つって言うし、あと五分だけ寝かせて」
「五分で育つならいくらでも寝かせたげるけどね」
ガンガンと、和己の耳元でフライパンにおたまを打ち付ける。和己は唸り声を上げながら毛布の奥に潜り込んだ。
「ったくもう、毎日毎日、あんたを起こすこっちの身にもなってよ」
「だから、嫌なら来なけりゃいいんだってば。浅葱に起こされるこっちの身にもなってよ。それ、耳鳴りするくらい五月蝿いんだから」
「減らず口を叩くな! ほら、とっとと起きる」
浅葱はフライパンとおたまを床に置くと、和己の包まった毛布に手をかけ、思い切り引き剥がした。勿論和己も必死の抵抗を企てていたが、ウェイトの関係であっさりと敗北を喫し、無様にベッドの上に転がってその小柄な身体を晒した。
和己は、ぶすっとした顔で寝ぼけ眼を浅葱の方へと向けた。すると不思議なことに、浅葱は毛布を剥ぎ取った姿勢のままで硬直していた。少し頬が赤い。たっぷりと間があいてから、ようやく浅葱の口がぱくぱくと動いた。
「お、あ、あんた、何て格好してんの」
「へ?」
そういえば足元がやけに涼しい。ゆっくりと視線を下ろすと、上はTシャツ一枚だけ、そして下は下着だけ、というひどくシンプルな服装をしている自分に気付いた。パジャマ代わりに履いているはずの薄手のズボンはすぐ横手に転がっていた。和己は二、三度頷く。
「ほら、昨夜は、夏が舞い戻って来たのかと思うような寝苦しさだったじゃん。だから、寝てる間に脱いじゃったんだね、下だけ」
「そんなありえない動きするわけが……。寝苦しかったって割りに、毛布はしっかりかかってたじゃない……」
浅葱の否定の言葉は口の中で小さく消えて行った。頬を染めながら毛布を弄り、和己の下半身から目を逸らしてあさっての方を向いている。
「そんなの、現にそれ以外の何事でもないんだから、信じてもらうしかないよ。そもそも他にどんな説明すれば満足なわけ? それに、今更パンツ見たからどうだってのさ。昔一緒にお風呂入ってた仲じゃん」
こんなことで簡単に頬を赤らめているようでは、駄目だ。和己は思わず溜息を吐いた。
浅葱はもっと割り切らなければいけない。あの時の約束通り、和己の母親代理を演じるつもりならば、なおさら。いくら形から入ったところで、細かいところでぼろが出るようでは、如何ともしがたい。
殆ど一方的に世話になっている立場でありながら、和己はそんな不遜なことを考えた。
「そ、それとこれとは話が別でしょ。お、あ、私、先に外出てるから、早く起きて着替えちゃいなさいよ」
大きな欠伸をしている和己を後目に、浅葱は慌てたように部屋を後にする。汚らわしいものでも扱うように、引っぺがした毛布は床に打ち捨てた。毛布と一緒にフライパンとおたままで忘れて行ったことから、浅葱の狼狽は本物のようだ。
残された和己は、ベッドの上で何度も寝返りを打つ。役目を奪われて久しいデジタルの目覚し時計が、枕元で寂しく時刻を表示している。七時三八分。本気になればあと七分間眠っていられるのだが、今日はそこまでするほど眠くもなかった。大きく一度息を吐き、思い切って身体を起こす。ぼさぼさになった髪を気にしながら、制服のかかっているクローゼットに向かった。浅葱に捨てられた毛布は、拾い上げてベッドの上に戻しておく。フライパンとおたまは面倒なので、しばし置き去りにしておいた。
ふと気付く。クローゼットのドアの合わせ目から、何かがはみ出している。白く細い紐のようなものが、にょろりと床まで伸びている。近付いて持ち上げてみた。まるで新体操のリボンのよう。薄布が一枚、細長く切られた代物のようだ。すべすべと、指で触った感触は心地良い。
だが、妙だ。和己が昨日眠りについた時点で、こんなものがクローゼットからはみ出していた覚えはない。何より、こんなリボン部分を持つ衣服を和己は持っていないのだ。
自分の知らないものが、いつの間にか部屋に増えている。
……誰かが、自分の寝ている間にこの部屋に侵入した?
和己は、ぼさぼさ頭を何度か掻き回した後、思わず周囲を見渡した。三六〇度に渡って和己を取り囲んでいるのは、慣れ親しんだ六畳の洋間であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。家具が動かされた形跡もなければ、小型金庫が奪われた形跡もなく、そもそも小型金庫など存在しない。確認出来る限りでは、勉強机とオーディオ機器の辺りに何ら変化はない。平積みにされたCDケースは今にも倒れそうだし、一揃いになった参考書にはここ最近触れた様子が見られないし、学校指定の鞄に付けてある在阪球団のマスコットキーホルダーは、やっぱり右耳が欠けてしまっている。プラスチック製のゴミ箱は日に焼けて少し色褪せしており、つい今しがた立ち去ったばかりのベッドではシーツに付いた皺とくしゃくしゃになった毛布が生活感を醸し出す。壁にかけてあるポスターの中では相変わらず、アイドルが弾けるような笑顔で今では古くなった新曲のPRをしているし、使っていないノートパソコンは部屋の隅で埃を被っているし、小さな本棚には一時期ブームを巻き起こしたスポーツ漫画が全巻並んでいる。二四巻で泣いたことを思い出しながら、再度クローゼットに目を向けると、白い紐は依然にょろりと垂れ下がって、それだけが和己に異変を伝えていた。
……クローゼットの中に、何かが詰め込まれたということだろうか。他の何にも手を付けることなく?
胸の辺りに、凝り固まるような違和感があった。
和己は決して勘が鋭い方ではない。むしろ鈍い方に属すると自分では思っている。だが、だからこそ言える。この状況は、確実に妙だ。
……浅葱がここに何かを入れて、自分をびっくりさせようとしているのだろうか。
誕生日が近いというのならサプライズ企画として考えられないことでもない。だが、和己の誕生日は夏休み前に終わっているし、浅葱はああ見えて結構几帳面だ。本当に和己を驚かせるつもりなら、しっかりリボンの端まで隠し切るに決まっている。
すると、犯人は浅葱ではない。
とは言え、仮に他の誰の仕業であっても、こんなに長く紐がはみ出しているのは不自然だ。これではまるで、和己にクローゼットの変化をわざと気付かせたいみたいではないか。そんなことをするメリットは、どこにある?
……逆に、この部屋に誰かが不法侵入したと思い込ませようとしているだけなのか?
すると、犯人は浅葱だ。そうやって和己を怖がらせようとしているのならば一応筋は通っている。だが、こうして可能性の一つに挙げられている時点で、あまり成功したとは言い難い。何より、浅葱がそこまでたちの悪い性格なら、とっくに幼馴染の縁を切っている。
いや。もう二人だけ、合法的にこの家に潜入できる人間がいる。
そう、和己の両親だ。
しかし、仮にそうだとすれば、地球の裏側から帰還してきて真っ先にやったことが実の子供に対するドッキリ企画だということになる。……一体どういう了見なのか。何の連絡も無しに突然家に戻って来たこと自体が相当なドッキリであるというのに。……和己を何重に驚かせようというのだろう。ショックで心臓でも止める気か。
……とりあえず、階下にいるはずの浅葱を呼んで訊いてみるべきだろうか。
違う。それは、最も確実で手っ取り早い方法だが、優先順位は二番目だ。まずやるべきは、クローゼットのドアを開けて、はみ出している白いリボンの正体を見極めることだ。話はそれからだ。実際に見てみないことには、浅葱を呼びつける理由も薄い。開けてみたら、何のことは無い、実は二日前に新しく買ったパーカーの紐の部分でした、ではお話にならない。臆病者の謗りを受けることにもなりかねない。事実和己は臆病なのではあるが、それ故にあえてここは強がってみたい。幼馴染に対する心象をこれ以上悪くするのは得策ではない。よし。決めた。
そして、その瞬間。
和己は、恐る恐る、というほどの躊躇をしなかった。確かに、何か捉え所のない不気味な塊が、渦を巻いてそこら中に漂っているような、そんな錯覚が背筋を凍らせていたのだが、その一方で和己には強い確信があった。世界は、和己贔屓に回ってくれている。
だから、イレギュラーは、悪い方向には起こらない。
対称に並んでいる二つの取っ手を同時に摘み、思い切り良く引き開けた。
扉という支えを失って、クローゼットに入っていたそれが和己の方に倒れて来る。なるほど、白いリボンがぐるぐるに巻きついていた。白磁のように滑らかな素肌を覆い尽くすほどに。
それは、人間の女の子に見えた。
少なくとも、人の形はしていた。
倒れかかってきた少女は、当然のように和己よりも身長が高かった。和己はその重さを支え切れずに尻餅をつき、そのまま柔らかい体の下敷きになった。甘い匂いが鼻腔をくすぐった。腰まで届きそうな長い髪が床に広がった。髪は信じられないことに、透き通るような紫色をしていた。が、和己にはそれをゆっくり確認する余裕などなかった。和己の顔面は丁度、少女の豊満な胸元に埋まっており、冷静にこの事態に対処出来る心理状況とは程遠かったのだ。当然ながら、女の子とこんなにも密着し、抱き合ったことなど生まれて初めてだ。少女の身体は温かかった。人の肌に特有の優しい温もりだ、と和己は思った。まるで母の胸に抱かれているような安らぎ。お互いの鼓動が溶け合って一つになり、緩やかな流れの中で世界のリズムと交わり、やがて――
「何か大きな音したけど、大丈夫?」
あ。
がちゃり、と入り口のドアの開く音がした。それから、何かが床に落ちる硬い音が聞こえ、しばらくの間があった。
その間を利用して、和己は少女の胸の下から脱出し、顔だけを出した。浅葱が、部屋のドアと自分の口を半開きにしたまま動きを止めているのが見えた。驚愕に凍りついたその表情は、和己のよく知るものとはかけ離れていた。その足元には、弁当箱とそれに詰められていたであろうミートボールが転がっている。
何となく、悲鳴を上げられそうな予感がしたので、和己は、リボンの巻きつけられた半裸少女と床の間で板挟みになりながら、言い訳を探した。とんだジレンマもあったものだ。何に対する言い訳なのかは釈然としなかった。だが、ありのままを伝えるのは、どう考えても得策と言えなかった。自分でも持て余しているこの状況を、どうして他人に納得させられると言うのか。そうだ。そもそもこれは何だ。こいつは誰だ。この格好は何だ。どうしてこんな所に人がいる。わからないことだらけだった。何を言っても嘘になりそうで、言い訳として成立しそうにない。
そうか。何も、全てをわかってもらう必要などないのだ。最悪の思い違いさえ避けられればそれで良いのだ。今、浅葱の中では、和己が際どい服装の少女と睦み合っているというような、そんな危ない解釈がなされているに違いない。いや、普通に考えれば違うかもしれない。和己の思い過ごしかもしれない。でも、一番嫌なのがその誤解である。ならば、この状況が、あくまでも事故であって、圧し掛かられただけであって、和己の意志で起こしたことでは決して無いのだと、そう伝えられればそれで良いのだ。だとすれば、そのために必要な言葉は――
……助けて。
これだ! 和己は、久々に自分の脳細胞を褒めてやりたくなった。語彙の少ない和己なりの、シンプルでベストな選択だと思った。救いの手を求めれば、それは和己が今まさに困っているということを間違いなく伝えられる手段となる。誰か知らない人間が勝手に家にいて、家人を押し倒しているのだから、客観的に見ればこれは犯罪だ。さらに、体格は圧倒的に和己が不利なのだし、危機的状況なのは火を見るより明らかではないか。
完璧だ。
和己が答えを導き出すまで、浅葱は瞬き一つせずに固まっていた。和己の思考が神の速度に達していたのか、浅葱の動きが遅すぎたのかは判然としないが、そんなことに拘泥する間もあればこそ。和己は、精一杯困っている表情を作って、口を開いた。
開きかけた。
「たす」
けて、は言えなかった。
助けて欲しいという思いに何の偽りも無かったはずだが、世界は和己を見捨てて回った。全身リボン少女が、急にむくりと起き上がった。浅葱の姿を映していた和己の視界を、可愛らしい作りの小顔が占拠した。ぱっちりとした紫の瞳が、悪戯好きな妖精を思わせた。すっと通った鼻筋も、小ぶりで柔らかそうな唇も、和己の声を奪うほどの造形美を内包していた。目を合わせているだけで頬が紅潮してくる。見惚れていた。
少女の頬が緩み、目が細められる。柔らかな微笑が、その顔に浮かんだ。和己の心臓が、一つ大きく鳴った。少女の唇が、ゆっくりと動いて言葉を紡いでいった。脳を蕩かすような甘い甘い声だった。鈴の鳴るような、と形容することさえ忘れるほどの。
「初めまして、ご主人様」
ごん、とまた大きな音がして、浅葱が膝から床に崩れ落ちた。和己も、立っていたらきっとそうしていた。頬の紅潮も、高まった鼓動も、蕩けた脳も、全て一瞬で弾け飛んだ。
何をしようとしていたか、わからなくなった。少なくとも、努力は水泡に帰した。状況の説明はより困難になった。
ご主人様と呼ばれたのは生まれて初めてだった。当然だった。和己は、主従関係を築くような地位にいたことなど無く、また、冗談でもそんな風に他人から『ご主人様』と言われて喜ぶような人間でもなかった。全くのノーマルだった。そのはずだった。
だが、今や和己は、クローゼットから現れた、全裸にぐるぐると薄手の紐を巻きつけただけの紫髪巨乳美少女から『ご主人様』と呼ばれる人間だ。
和己の思考が止まった。ショックは大きかった。何故自分なのだ。どう考えてもおかしいではないか。こんな話、聞いたこともない。少女は和己の上に、にこにこしながら居座り続けている。腰と腰が重なるような位置に跨ったまま。
「和己……、あんた、そんな趣味が、あったんだ」
搾り出すような声でそれだけ告げて、よろよろと浅葱は和己の部屋から出て行った。
目覚し時計は七時四五分を指し、和己の遅刻最終防衛ラインが破られる。それでも和己は少女の下で動きを止めたまま惚けていた。
不気味な均衡状態はしばらく、――戻って来た浅葱が少女の素性を尋ねるまで――続いた。
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