多生の縁
惣山沙樹
多生の縁
私はため息をついた。なぜなら、ここに入ったときから、向こうのテーブル席がガヤガヤとうるさかったからだ。
今夜は一人でしんみりと飲みたい。そう思ってこのバーを選んだのだが、そういう日に限ってお客が多かったようだ。
一杯目のワイングラスを傾けながら、今日の仕事のことを思い出した。社内コンペで、私のではなく、嫌いな同僚の企画が選ばれたこと。終業間際に取った電話がクレームで、対処に一時間かかったこと。
加えてこの喧騒だ。私は紙タバコをくわえた。電子はどうも吸う気にならない。ライターで火をつけた。慰めのように、いつもの慣れた香りが私の髪にまとわりついた。
「ウメちゃん、なんかあったん?」
バーのマスターが、忙しなく手を動かしながら、そう聞いてくれた。
「うん……仕事で色々あった」
「今日混んでてアレやけど、ゆっくりしていきや」
テーブル席の一団が、マスターを呼んだ。席に居るのは五人。全員、追加の酒を頼むらしい。静寂は中々訪れそうにない、と諦めた。他の店に行く気は起こらなかったし、かといって帰るのも嫌だった。
カラン、とドアの方から音がした。またお客だ。それは一人の男性で、三十代くらいに見えた。
「いらっしゃいませ! ウメちゃんごめん、席いっこ詰めてくれるかな?」
「はぁい」
その男性と私は隣同士になった。彼はビールを注文した。そしてすぐさま、スマホを取り出し、黙ったままお酒が運ばれてくるのを待っていた。彼もきっと、今夜は誰とも話したくない気分なのだろうと思った。
「ハラさん、久しぶりやなぁ」
「言うても一ヶ月くらいですよ」
ハラさん、と呼ばれたその男性は、マスターからビールグラスを受け取った。まずは泡の感触を唇で楽しみ、それからしみじみと液体をすすった。良い飲み方だと私は思った。
「今日、混んでますね」
「珍しいやろ? まあ、ゆっくりしてってや」
それからマスターは、テーブル席のお客たちの注文にとりかかり始めた。どうやら手間のかかるカクテルを注文した人がいるらしく、マスターはシェイカーを振った。
私はというと、もう一杯目のワインが底をつきかけていたのだが、あまりに忙しそうだったので、追加を頼むのがはばかられた。
なので、私もハラさんと同じように、スマホを取り出し、特に興味のないSNSを開いた。アカウントは作ったものの、自分から発信することは無く、知人の近況を知るためだけのものだ。
高校時代の友人は、今旅行に来ているらしく、その様子が載せられていた。呑気なものだ、と私はつい思ってしまった。このところ、仕事が忙しすぎて、ろくに有給も取れやしない。旅行なんて、夢のまた夢だった。せいぜい、こうして仕事終わりに一人で飲むくらいが精一杯。
「ウメちゃん、同じのでええ?」
「あっ、はい」
スマホから目を離すと、マスターが私のグラスを持っていったところだった。どんなにお客が多くとも、こうして一人一人のグラスに気を配ってくれる。だから私は、バーという場が好きだった。
ふと、ハラさんの方を見た。彼はちびちびとビールを飲みながら、何やら難しい顔つきをしていた。あまりジロジロ見るのは失礼だし、と思い、私はとりあえずタバコに火をつけた。
マスターは、テーブル席へお酒を運んで行った。一団の声は、益々大きくなっていた。中心となる人物は、五十代くらいの男性で、それに若者たちが付き合わされているように私には見えた。
「ウメちゃん、あまりシワ寄せてたら取れんくなるで?」
マスターがそう言うので、私は眉間をさすった。難しい顔をしていたのは、自分もだったらしい。
「マスター、意地悪いなぁ」
「オレはウメちゃんのことを思って言ってんの」
続いてマスターは、ハラさんに話しかけた。
「異動辞令って出たんですか?」
「出ましたよ。転居せなあかんくなりました」
「そら大変ですなぁ」
それから二人は、私の知らない話を始めた。席が隣だから、どうしても内容が耳に入ってしまう。もちろん、割って入るつもりなどなかった。このセリフを聞くまでは。
「ぼく、北長瀬高校出身なんですわ」
耳を疑った。それは、紛れもなく私の出身校だった。ハラさんは、私よりも年上に見えるから、先輩だということだろう。
「あそこ、野球強いとこやっけ?」
「そうです。まあぼく、卓球部やったんですけどね」
追い討ちをかけるように、部活の話まで飛び出した。
「あのう、ハラさん……」
私は声をかけた。
多生の縁 惣山沙樹 @saki-souyama
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