#2

「吸血鬼……」

彼女が名乗った言葉を繰り返す。

その単語は、彼女の外見同様に、現実からは隔たった言葉だった。

意味自体はもちろん自分なりに理解している。

吸血鬼は、人の血を吸う怪物。異常な力を備えた、夜に棲む者。

でもそれは、絶対に空想上の存在のはずで、科学が信仰される現代社会には存在しないものだ。


それでも、この煌々と輝く月の下で、鮮やかな着物を着て、髪も肌も色の薄い、紅色の目をした彼女には、『吸血鬼』という属性が相応しい気がした。

その姿から、僕は目を離すことができない。

足を止めたまま、動けない。

幻想をそのまま現実に落とし込んだようなその姿に、僕はただ、心を奪われていた。


吸血鬼と名乗った彼女は、そんな僕を見てはいたが、すぐにため息をついた。

そして、吐き捨てる。

「やっぱり、あなたの血は不味そう」

その言葉には、すれ違った時の呟きと同様に、侮蔑の響きが混じっていた。

彼女が吸血鬼であると信じたとして、別に自分は血を吸ってもらいたいわけではない。

そうだというのに、そのはずなのに、なぜか少し腹立たしいような、それでいて悲しいような気がして、僕は聞き返してしまう。

「どうして?」

「何が?」

「どうして、僕の血は不味そうなんですか?」


吸血鬼は一度瞑目して、二秒ほどして、またその紅色の目を開く。

「……人間の血には、その魂が滲み出ている。本来はモノとして存在し得ない魂は、その人間の肉体を巡る血液の中に、少しずつ溶け出すようにその痕跡を残していく」

概念的な話で、もちろん僕には本当は理解などできない。

けれど不思議と、彼女が言っていることが嘘だとは思わなかった。

あるいは、今さら疑うことが無駄だと思ったか。

もしも嘘があるのだとしたら、今ここに立つ彼女の存在自体の方が、よほど嘘らしく見える。

「私たち吸血鬼は、人間ではないからこそ、人間の魂に執着して、それを欲する。けれど直接魂を手に入れることはできないから、代わりに血を摂取するの」

どうやら吸血鬼にとっては『血イコール魂』らしい。

だとしたら、『血が不味そう』という言葉は、つまり『魂が不味そう』という意味なのか。

それは、つまり、どういうことだ。


彼女の言葉を反芻しながら、魂について考えを巡らそうとしている僕を見て、考えていることを察したのか、彼女はまたため息をついた。

「あなた、自分がちゃんと『生きている』って言える?」

射貫くような紅色の視線と共に、問いかけられる。

「そんなことはない」、と答えることは、僕にはできなかった。

ここしばらく、ずっと、『生きていること』を意識などしていない。

ただ毎日、忙しさの中で日常を繰り返すだけ。

小さな喜怒哀楽はちゃんとあるはずなのに、思い出そうとしても思い出せない。

無味乾燥なサイクルの中で、感情が少しずつ死んでいったのだろうか。

だとしたら、僕の魂は、不味い、のかもしれない。


「分かった?それが、あなたの血が不味そうな理由」

僕の表情から、また彼女は思考を読み取ったらしい。

そして、彼女は後ろを向いて、歩き出す。

遠ざかる紅色の着物姿。薄い色の髪が、夜風に揺れていた。

僕はその姿を、追いかけることもせず、ただ見つめ続けていた。


やがて、夜の闇に溶けていくように、彼女の姿は消えた。

あるいは、吸血鬼なのだから、霧に姿を変えたのかもしれない。

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