月が綺麗で生きてみる

空殻

#1

22時過ぎに会社を出た。

終わるはずのない量の仕事を無理やり切り上げて、帰宅の途に就いた。

別に今日に限った話ではなく、ほぼ毎日のことだ。

僕が要領が悪いせいもあるのだろうが、周りの他の社員も同じようなものなので、きっと仕方がないことなのだ。


23時前。自宅アパートの最寄り駅で電車を降りて、改札を出た。

駅からアパートまでは歩いて15分。途中でコンビニに寄ろう、と考えながら歩く。

空には雲が無く、真円に近い月が存在を主張して輝いていた。

疲れたなあ、本当に今日も疲れた。こんな毎日が、これからも続くのだろうな、と。

そんなことを頭の片隅で考えていた。


マイナスな思考に引きずられて、視線が少し下向きだったので、気付くのが遅れた。

3メートルほど先に、着物を着た人影が見える。

紅色の地に、金色の花が刺繍された鮮やかな着物。

着ているのは長い髪の女性で、腰近くまで伸びたその長い髪は色素が薄く、白、もしくは灰色に見えた。

月明かりに照らされた彼女の顔立ちは、小作りで、職人が作った精巧な人形のように、精緻な美しさが詰め込まれている。

『浮世離れ』とはこんな光景を言うのだろう、そう思った。


思わず足を止めた自分と、歩き続ける着物の女性。必然、接近してすれ違う。

その瞬間、彼女は呟いた。

「不味そうな血」


侮蔑するような響きだった。まるで、口に含んで吐き捨てたような『不味そう』という単語。

思わず振り返ると、彼女もまた立ち止まり、振り返って僕を見た。

彼女の瞳は、着ている着物よりも、なお鮮やかな紅色だった。



「何の用?」

彼女は首をごくわずかに傾げながら訊ねてくる。

彼女自身もまた立ち止まって振り返ったにも拘わらず、答えなければならない義務は僕の方にあるらしかった。

頭の中では、色んな言葉が交錯して、うまくまとまらない。

それでも、なぜか自分は、現実から乖離したような彼女に対して、何かしらの弁明をしなければならない。そんな気持ちだった。

焦る中で、何とか口に出した言葉が一つ。

「あなたは、人間ですか?」


とても馬鹿げた質問だった。

しかし、彼女は答えた。


「違う。私は、人じゃない。『吸血鬼』、そう呼ばれる存在だよ」

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