月を食らった獣
千羽稲穂
月蝕
「俺さ、月の欠片を食べたことがあるんだ」
まるまると太った月を見上げて、友が思い出したかのように告白した。月が綺麗ですね、とレパートリーを変えた新手の告白だろうかと勘ぐったが、そうではないらしい。彼は楽しげに続けた。「あれは形容しがたい味だった。月のように丸くて、蜜のように甘いんだ。今の月のようにふくよかな、そんな味だった」そうして、もう一度食べられるなら、食べてみたいと缶チューハイを持ち上げる。月の輝きが反射して、銀の煌めきが闇道を懐中電灯のように照らした。こちらは長細い円柱状の灯台のようだ。
缶チューハイを片手に闇道を練り歩く私たちはさながら夜の獣のようだ。獲物はいないか牙を舌で磨きながらぶらぶらと歩く。
「今日は満月だろう」
と、私は丸い円を瞳に収めた。
「いやいや、これは九十九・九パーセントの月だな」
「こんなに丸いのに」
「賭けてみるか」
自信満々な瞳の輝きを湛える親友は不思議な雰囲気を滲ませた。それはじんわりと夜を侵食し、夜の静寂へと波風をたたせてしまう。胸に澱んだもやが立ち込める。私は持っていた缶チューハイを地面に向けた。灯台のサーチライトはもやを切り裂く。
と、光り輝く何かが落ちているのが見えた。地面に吸い付くようなそれは黄色に近い色あいを放つ。サーチライトの方が光が強いため、淡く輝くそれはよく見えない。私は不思議に思い、缶チューハイに月の光を反射させずに、それに近づいた。見れば、地面に淡い月色の細い石が横たわっていた。ちょうど昼間、雨が降っていたからか滑らかに地面が光沢を帯びている。きりりと鋭い切っ先のような半円の欠片だった。おかしな石もあるものだ。私はしゃがみこみ落ちている石に目線を合わせた。傍らに缶チューハイを置く。指先でつまみあげて、上に掲げてみた。月と添うように合わせてみる。
「なあ、これなんだと思う」
私は友を呼んだ。すると、彼はすかさず、
「これは驚いた、月の欠片だ」
私はこれが本物の、と月に視点を合わせる。思ったよりも小さい。私の掌くらいしかない。しかも欠けている部分は浮かぶ月に合うか合わないかほどの細さしかない。端っこの切れ端を持つ。ぺらぺらだ。
「やっぱり、俺が言った通り今日の月は九十九・九パーセントの月だ。これは残りの○・一パーセントだよ」
どれ、と友は私の手に収まる月の欠片を眺める。友の瞳に浮かぶ〇・一パーセントの月に視線を移した。瞳の端と月の端が重なりそうになっている。それを私は指先を動かして半円を縦にし、彼の瞳の中央へもっていく。まるで猫の瞳孔がきゅっと絞られたような瞳になる。瞳は暗闇の中で、アルコールでうるみ艶めいていた。しばらくそうして遊んでいると、彼は顎を持ち上げて、月にでも説くように。
「食べてみない」
彼の唇がふんわりと持ち上げられながら、顎が引かれる間に。
「うん」と同意して、顔から逸らす。
初めて食べるため、彼にどう食べるの? と尋ねてしまう。と言っても、彼もまだ一回しか食べたことがないらしいが。
だがどうしてこんなところに月が落っこちているのだろうか。彼にそんなことを少々ぼやきながら言うと、知らないね、でも、たまに俺らが夜にこうして歩きたがるように月も逃げたくなったんじゃないか。アルコールでふらふらの視界に彼の言葉も、顔もぶれてしまう。夜へと逃亡をしたくなる気持ちはひしと分かってしまう。たまには夜の息を吸って、月の輪郭をなぞりたくもなる。そして下界に落っこちた月を私たちは、二つにぽきっと折って分けて食すのだ。月の逃げた先は、私たちの胃の中だ。
折った月の欠片の少しだけ大きく長細い方を彼に。小さい方を私が。
食してみると、舌の上でカランコロンと鳴った。淡い光の表面はぷちぷちと泡が跳ねていて、舌の上を滑るたびに泡が下を突つく。弾かれた先にあるのは丸っこい甘い味だった。まさに形容しがたい味がそこにはあった。蜂蜜のように甘いが、しかしながら卵の黄身のようにしっかりとした身の味がする。宵闇を妨げるようないやらしさもなければ、私の舌を跳ねのける強さもない。ただそこにまんまると存在し眺めてくれる月が心に残る。
すぐにでも友に感想を述べようと横を振り向くが、そこに彼はいなかった。身体が思うように動かず、風が私の前髪を遊び、通り過ぎた。はっと息が震える音が地面から聞こえ、ようやく目を落とした。友は苦しそうにうつぶせになっていた。息苦しそうに首元を強く握りしめる。私は友の身体を触ろうとして、しかしどうしようと落ち着く暇もなく。彼は地面の上で身じろぎをし、ついに動かなくなった。
力強く揺さぶるが彼の反応はおろか、皮膚の感覚さえない。だんだん冷たくなっていく。口元は大きく開かれ、泡とも涎ともしれないものが垂れている。瞳孔は開き、後頭部はのけぞり地面についている。喉は反りあがり、喉ぼとけが剥き出しの状態だ。私は喉ぼとけの輪郭をそっとなぞってみる。彼の皮膚はまだ柔らかい。
動かなくなっただけだ。
彼の腕をとり、私の背中へ彼の身体をのせる。ずしん、と重く両足で踏ん張る。両手を肩に置いて担いだ。一歩踏み出すと、先ほど地面に置いた缶チューハイを蹴とばしてしまう。
私は彼を背負って獣のように叫んだ。誰か助けてくれ。彼が動かない。
夜が震えて、月の輪郭がうにょんと歪んだ気がした。こぽこぽと流れる缶からのチューハイ。ひた走るアルコールの濁流がアスファルトの上をなぞる。湿った道路の先を流れ落ちる。私は川と化した缶チューハイの流れに沿って一歩踏み出した。
カラン。
夜の静けさの中で、空っぽの欠片の音が響く。先を見据えると、ほんのりと月色の灯籠が地面に転がっていた。私はたゆたう意識の中で進みだす。やはり、思った通りそれは月の欠片であり、夜空を見上げれば、浮かぶ月は先ほどよりも欠けていた。今は何パーセントの月だろうか。問いかけるも、背負う彼に反応はない。
落ちてきた月の欠片を足蹴にし。カランコロンと転がすと、先ほどの月よりも半円に近しい欠片になっていた。腕くらいの大きさ。
私は腰を落として月の欠片を握った。見た目よりも軽い。
まさか月の欠片に毒が潜んでいるのではないか。
私は月の欠片に噛みついた。ぱきん、と割れてすぐにかみ切れる。歯形が残る月の欠片を尻目に、味など噛みしめず次々に口に入れた。
もし、この月の欠片が原因で友が亡くなったのならば、致死量を食した私も同様に動けなくなるはずだろう。獣のように貪りつくすが、身体に変化はない。ほのかに温かい光が胃を重たくするのみ。蝕む気配すらない。
落胆してしまい、余計身体が重くなる。月の欠片が食べやすく、さしてまずくもないため、それもより私の心を暗澹たる想いを募らせていく。淀みたる想いを掬いあげて、顔面を手で覆い尽くした。しかし、覆い尽くした後も、狭間から月の光が零れ落ちているのが覗えた。顔を上げてみるとまた月の光が地面に光っているのが見える。やはり、その光の分だけ、夜空に浮かぶ月は欠けている。満月に近かった月は、半月まで削りつくされている。ぱっくり割れた片割れは、地面にまたしてもカランコロンと転がっている。長細い円柱状のそれを、友を担ぎ近づき、手にし、口にした。
そして何も起きはしない。それなのに、私は月の欠片を求めて口にしてしまう。そのたびに私の身体に何か起こらないかと期待を沸き立たせる。全て食べきっても、見上げるとなぜか月の光が地面に落ちている。そうして夜空に浮かぶ月も欠けていく。どんどん夜の闇は浸食していく。いつしか月の欠片を食べ、友の身体を背負い、次の欠片を見つけ、と順繰りに行動を起こしていた。月の欠片も体よく地面に落ちていて、私は縋り付くように月の光を追いかけていた。友の身体は重くなっていく。一方で月の欠片は小さくなっていく。夜の暗がりははびこる。
足繁く月の欠片へと駈け寄り、私は手に取った。手のひらサイズの月の欠片は、最初に食した欠片と同じ形をしていた。夜空に浮かんでいた月は消え、ぽっかりと月の位置に闇が埋まっていた。
ぽきり、と手折り大きい方を友に。小さい方を私に。その先の友は地面に横たわっている。色もなく。唇は青く。頬はこけている。気づけば何時間も友を背負い歩いていた。月の明かりを頼りにねり歩いていたせいか、あたりは見知らぬ土地である。住宅街にいたはずなのに、今は河川敷で草原が地面を覆い尽くしていた。さわさわと涼やかな風が月の光をくゆらせる。ほのかな光のもと、私は月の欠片を口にする。カランコロンと口の中で弾けるのに、空っぽで。腹にたまる心地は既になくなっていた。もう一方で亡くなった友を想い、手折った月の欠片も舌の上に置いた。口から食道へ流し込んでいく。これで最後だ。
毒は感じられなかった。
月は私が食べ尽くしてしまった。
私は牙をむき出しにして、月へ吠えた。鼻先にかすむのは月の匂いと草原の無慈悲な生臭い臭気、友の腐敗嗅。月は無慈悲に友を奪っていった。私を置いて。夜は辺り一面を覆い尽くし、世界がどっぷりと闇に沈んだ。友の存在が闇に沈みゆく。月明かりがないため、友を奪い去る闇を払えない。夜の輪郭が破綻し、私の手も足も夜に盗られてしまう。
「友を返せ」
月に牙を突き立てる。
「どうか、友を盗らないでくれ」
草原を駆け巡り友を探す。どこにも見つからない。足を闇にとられてしまい、靴を脱ぎ捨てる。すると、足の爪がするどく伸び、きゅっと絞られ獣の毛皮が備え付けられていく。二本足が煩わしくなり、四本で駆け巡る。夜につまづき、私は叫んだ。
「私を一人にしないでくれ」
その獣の遠吠えは月食の夜に響き渡る。
その晩から、私の遠吠えは続いた。
今も。次の晩も。月が再び夜の世界に浮かび上がるまで。
月食の夜は耳をすますといい。月を食べ尽くした獣が、友を探して吠えているのが聞こえるはずだ。
私が、探す限り。
月を食らった獣 千羽稲穂 @inaho_rice
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