バラは知っていた

ヤン

第1話 バラは知っていた

 そろそろ寝ようと思い、ベッドに腰かけた瞬間、電話が鳴った。友人の伊藤いとう憲太けんたからだった。すぐに通話にすると、


「こんばんは。三上みかみさん」

「何時だと思ってるの?」


 怒り気味に言うと、やや間があって、「あ。ごめん」と伊藤が言った。三上沙羅さらが、「私、もう寝るんだ。じゃあね」と言い放ち通話を切ろうとすると、「待って」と伊藤が慌て気味に言った。


「明日さ、出かけよう。一緒に行きたい所があるんだ。三駅先のバラ園。今、見頃なんだって。駅の改札前に10時集合。じゃあね」


 沙羅の返答も聞かずに、いきなり通話を切った。沙羅は、大きな溜息をついた後ベッドから立ち上がり、クローゼットの扉を開けた。



 空が青く、気持ちのいい風が吹いている。


 駅前に行くと、伊藤はもう来ていた。沙羅に気が付くと笑顔になり、手を振ってきた。沙羅は振り返さず、早足で伊藤のそばまで行くと、腕時計を見た。


「遅刻はしてないよね。でも、待たせたから、ごめんね」


 一応、謝った。伊藤は首を振り、


「何か、気合が入っちゃって。じゃ、行こう」


 二人きりで電車に乗って出かけるのは、これが初めてだ。沙羅は、何も言わずに頷いて伊藤の後を追った。


 電車に乗ると伊藤はいろいろ話しかけてきたが、沙羅は「へー」と相槌を打つ程度だった。


 バラ園の最寄り駅で降りると、バスに乗ってさらに十分。そこから五分程坂道を上がると、立派なお屋敷とバラ園が目の前に現れた。


(懐かしい)


 沙羅は、思わず笑顔になった。伊藤がそれに気が付くと、


「あ。三上さん、笑った」


 伊藤も笑顔になっていた。沙羅は、すぐに表情を改めて、「行こう」と言って歩き出した。


 屋敷の玄関に受付があるが、屋敷の中には入れない。年に何回かだけ、解放するそうだ。


 チケットを購入すると、二人並んで庭に行った。とにかく広い。


「三上さん。このバラ園って、いわれがあるんだって」

「へー」


 気のない返事をしたが、本当は知っている。


「今は、このお屋敷、市の物になってるけど、ここの最後の持ち主が…もちろん、凄いお金持ちだったらしいけど、その人が大事にしていたバラ園で、自分でも品種改良とかしてて。

 ここで働いていた女性を、屋敷の持ち主が好きになって、自分の作った花を渡してプロポーズした矢先に、女性は屋敷からいなくなった。随分探したらしいけど、見つからなかった。未解決事件って言うのかな」

「へー。そうなんだ」


 話しながら、バラ園の前まで来ると、バラの香りがふわーっと漂ってきた。沙羅は、思わず溜息をついた。伊藤も感動したように、「うわー。すごい。いい香りだね」と言った。


 様々なバラを見ながら、ゆっくり歩いていくと、先程の話に出てきた、屋敷の主人が作ったバラの前に来た。


 バラの名前は、千尋ちひろ


 伊藤は、バラに顔を寄せて香りを堪能している。


「千尋だって。その女性の名前だったのかな」

「かもしれないね」

「すごくさ、高貴な香りだよね」

「そうかな」

「三上さんも、そばに来てみなよ。わかるから」


 沙羅はそばに行き、バラに顔を寄せた。


「そうだね。いとーちゃんの言う通りだね」


 沙羅は、何だか泣きそうになった。



 沙羅が、まだ小学校にも行っていない頃、祖母に連れられて、ここへ来た。祖母は、バスを降りてからの道に、全く迷う様子がない。不思議に思って沙羅が祖母を見上げると、


「昔、この道を通って、買い物に行ったのよ」

「ここに住んでたの?」

「そう。ここで働いていたの」


 それから黙って屋敷まで行き、玄関でチケットを買ってから庭に出た。今日、伊藤とそうしたように、並んでバラ園に向かった。その時も、バラ園の前に来ると、バラの香りが広がり、沙羅を幸福な気持ちにさせた。


 そして、例のバラの前に来た。祖母はその前にしゃがむと、顔を近付け、その香りに微笑を浮べた。沙羅も、祖母のそばにしゃがむと、


「きれいなお花」


 祖母は、沙羅の頭を撫でると、


「この花の名前はね、『千尋』って言うの」

「おばあちゃんと同じ名前なのね」


「そう。あの人が、私の名前を付けたの。あの人は、私にプロポーズしてくれた。でも、あの人と私は立場が違い過ぎた。私は、ここから逃げたのよ。ここから、ずっと離れた所に行ったりして、あの人にみつからないようにした。もう、遠い昔の話。おばあちゃんはね、あなたのおじいちゃんと結婚できて、良かったと思ってるわ。私は、幸せよ」


 そう言って、祖母は立ち上がった。沙羅も立ち上がり、祖母の腕を握った。祖母の言ったことが全部わかったわけではない。が、このままいなくなりそうで怖かったのだ。祖母は、沙羅の頭を撫でると、「帰ろうか」と言った。笑顔が、哀し気に見えた。



 未解決事件ではなく、沙羅は真実を知っている。が、それを伊藤に伝えるのはやめておこうと思った。


 いつまでも、『千尋』を見ている沙羅を何と思ったのか、伊藤は、「そろそろ行こうか」と言った。


 沙羅は伊藤を見上げた後、その腕をしっかりと握ったのだった。     (完) 

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