わたしという君
三輪・キャナウェイ
わたしという君
彼の唇はマシュマロのようだった。
彼は自分のことを、俺でも僕でもなくわたしというんだ。漢字でもなくてひらがなだよ。柔らかくて甘い声さ。彼の喉が、歯が、舌が、唇が、全部が優しいの。
でもね、それが全部作り物みたいでもあるんだ。この世にマシュマロが生る木が無いように、彼の唇は丁寧に作られたお菓子みたいだった。改めて考えると、男の子が自分のことをわたしっていうなんて自然なことではないと思うんだ。
勿論、変って言いたいわけじゃないよ。わたしという一人称と彼の相性は、キャラメルとミルクティーくらい抜群なんだから。
私は、彼がどうしてわたしというのか知りたかっただけなんだ。
そのはずだった。
「おうい、大丈夫かい」
白い泡の冠を戴いたスタウトが、マホガニー製のカウンターテーブルの端に二つ並んでいた。カウンターの内側に立っているブリキ製のマスターが水気を取ったばかりのグラスの縁を私に傾けてきて、頷くとすぐに水を注いでくれた。
「お酒が苦手ならそう言っておくれよ」
「うぅ……まだ飲めますって」
「酔いつぶれたサイボーグの言葉なんてただのエラーだよ。ほら、数値ログ見せて」
机に突っ伏したままうにゃうにゃと出鱈目な言葉を吐き続ける彼のシャツの袖を肩まで捲り上げると、二の腕の所にある注射跡のようなねじ山をドライバーで捻って開く。そうして現れたUSBポートにプラグを繋ぎ、携帯を開いてサイボーグ用の健康管理アプリを開くと、彼の身体データをダウンロードした。
「酩酊率八十九パーセント、平衡値測定機構と舌根帯、言語形成機構と処理機構にエラーが出てる。正真正銘の酔っ払いだね」
「もう、主任のヘンタイ……勝手に人の身体ログ見るなんて……」
「お、感情率に変動在り。喜びのパラメータに増幅の動きが……」
「わわわっ! なんてっ!?」
「ちょ、ちょっと、急に動くと危ないよ」
慌てて立ち上がろうとした彼を宥めて、私は彼の二の腕からプラグを抜くとともにマスターから頂いた水を差しだした。
「ほら、酔っ払いなんだから水飲んで。私は今は女形なんだから、男形の君を担いで帰るなんてごめんだよ」
「申し訳ありません……わたし、あんまり外で飲むの慣れてなくて……」
そうしてくぴくぴと舐めるように水を飲む彼を、スタウトを片手で傾けつつ眺める。外見はなんら変哲の無い、罪木社製標準男形モデルの第三世代鋳型だ。髪は黒色の眉上ショートカットで、色は浅黒く、まるでチョコレートケーキのようだ。
でもやっぱりちゃんと男の子だし、わたしっていう一人称は微妙に見た目に合っていない。彼というサイボーグらしいといえばらしいんだけど、例えるなら犬がどれだけ猫っぽくても、にゃんと鳴いたらびっくりするだろう?
「いやまあ、私もごめんよ。罪木社製の肉体は丈夫だからお酒も行けると思ってた。まあ、チューニングは人それぞれだもんね」
そうして、私は本題を切り出した。
「でもわざわざ肉体を男形にしておきながらわたしっていうのも、珍しいチューニングだよね。若い子たちの間で流行ってるの?」
「へ? あ、ああ……それはなんというか……」
彼は普段は要領の良い子なんだ。仕事のことで色々聞いてみてもすらすら答えるし、そつがない。でもお酒が入ってパラメータダウンしてるから、少し発音まで妖しくなってる。でもそうやって緩んだ唇の紐の隙間から零れてくるものを私は見たかったんだ。
「……癖で」
「癖?」
「はい、親の強制もあって、元々生まれてからずっと女形だったんですが、ほんとはずっと男の子に憧れてて。でもその、いざ大人になってお給料もらえるようになって、自分の成りたい肉体を買えるようになっても、その……中々馴染まなくて」
昨今社会問題になっている、親による子供への形の強制だ。お金をかければかけるほど肉体を弄れるこのサイボーグ時代において、人の欲望はより剥き出しなものになった。特に良かれと思って子に金をかけている親と、金を稼ぐ方法も知らない子供では、逆らうことも難しいという寸法だ。
時代が変わり、技術が変わり、人が人でなくなっても、やはり人は人なんだ。
「あ、あはは……やっぱりカッコ悪いですよね。折角勇気を出したのに中途半端で、恥ずかしくて、やりたかったお洒落も出来ないで……」
私は指の先で遊ぶ様に持っていたスタウトをテーブルに置いた。
「その水、貰えるかな」
「え、ああ、はい……」
彼の飲み差しの水を飲むと、少しは頭がすっきりした気がした。彼程じゃないが私も酔っていたんだ。
でもそれじゃあいけないだろう。
「これは私の本音だがね、私は君をカッコ良いと思うよ」
「……へ?」
「嘘じゃないさ。君は親に強制された生き方をしていながら、それでも親への感謝を忘れていない人だ。申し訳なさそうにしてるだろう。でもその上で、自分に出来る範囲で精一杯頑張ってる。私は、そういうのは嫌いじゃないんだ」
私は一口分だけ水を残して、グラスを彼の方に返した。わざと指先でグラスの口を回して、彼の方に私の唇の温度が残っている場所を向けた。
「君が君のことをカッコ悪いと思うのは、勿論自由だ。私は個人を尊重するタチでね。だから私は私のことも尊重している。私は誰に何を言われようと、君がどう言おうと、君のことをカッコ良いと思っているよ」
彼は赤い顔をして、じっとグラスの縁を見つめていた。仄かに空気に溶けつつある私の熱が発する匂いに目を奪われていて、ぺろりと自分の唇を潤していた。
そうやってよそ見をしている彼に、私は椅子の足を引き摺って肩を寄せた。
彼の体温が布切れ越しに伝わる。熱くてドキドキしてる。それも色んな感情が混ざり合ったドキドキだ。私は組んだ右足の裏で、他の客やマスターに気付かれないよう、静かに机の下の彼のアキレスけんを撫でた。
「ふふ、まだ顔が赤いよ。もう少し水を飲んだ方が良いんじゃない?」
すると彼は顔を背けて答えた。
「……もう飲めませんよ」
そう言った彼の表情は、ごくごく人間的なものだった。
「真っ赤だものねぇ。焼きマシュマロみたい」
「わけが分かりません」
「凄く美味しそうってことさ」
「な……っ!」
慌てて顔を上げた彼の唇を奪うと、やはりマシュマロみたいな味がした。
「こういうのが苦手なら、お酒の二の舞にならないように先に言っておくれよ?」
蛇頭のように左手を彼の腰に這わせて抱く。
「こっちは、後から言っても遅いからね」
わたしという君 三輪・キャナウェイ @MiwaCanaway
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