4-12 捻れた夢

 山吹やまぶき先生に見送られて校舎を出ると、校門の前には一組の男女が立っていた。

 男性は灰色のスーツ姿で、女性は落ち着いた雰囲気のニットとスカート姿だ。私の両親と同年代に見える二人は、私の大切な人の生みの親だと一目で分かった。相手も、私が何者なのか一目で分かっていたのだろう。秋風に髪と衣服をなびかせた私たちは、それぞれ一揖いちゆうしてから、見つめ合った。

「倉田澪さんですね。相沢あいざわと申します。彗の父です」

 男性が――彗のお父さんが、穏やかに言った。声のトーンが、驚くほど彗にそっくりだ。声だけではなく容貌ようぼうも、彗が歳を重ねた姿を想起させた。

 私が「はい。初めまして。倉田澪と申します」と答えると、彗のお母さんが目を細めて「息子が、いつもお世話になっております」と鈴を転がすような声で言ったから、「こちらこそ……」と返事をしかけた私は、瞠目どうもくした。

 黒髪を肩口で切りそろえた、彗のお母さんは、まるで――午前四時に、彗がミモザの木の下で教えてくれた油彩画『ヘレーネ・クリムトの肖像しょうぞう』にえがかれた少女のような人だった。悲しみの見つめ方を知っているような眼差しも、ぬくもりの抱きしめ方を探しているようなうれいも、彗は全てを受けいでいる。彗のお母さんは、日差しの下で涙ぐんで、白魚しらうおのような手を伸ばすと、私の手にそっと触れた。

「お会いできて、嬉しいわ」

「積もる話は、うちに着いてからにしようか。時間は、大丈夫?」

「はい。よろしくお願いいたします」

 彗の両親と一緒に、桜並木の道を歩いた私は、相沢家に案内された。高校からほど近い住宅街にたたず戸建こだてを見上げたとき、果てしなく大きな流れに魂を運ばれているような感慨かんがいが、私を熱っぽく包み込んだ。母校の山吹やまぶき先生を訪ねて、壱河一哉いちかわかずやさんの足跡そくせきをたどる旅が、彗の生家せいかまで私をみちびくなんて、夢にも思いはしなかった。

 一階の和室に通されると、海老茶えびちゃ色のテーブルをはさんだ対面に、彗のお父さんが座った。ふわりと微笑んで「楽に座ってね」と言われたとき、彗に言われたような気がして、胸が切ない温かさで満たされた。彗と離れて、まだ半日ほどしかたっていないのに、私はもう寂しくてたまらなくなっている。彗のお父さんのスーツ姿を見ていると、今日が平日だったことを思い出して、私はおずおずと訊ねた。

「あの……彗さんの、お父さん。今日は、仕事を抜けてくださったんですか」

「ああ、気にしないで大丈夫だよ。半休を取っているから」

「すみません。事前の連絡もなく、急に押しかけるような形になってしまって」

「いいんだ。画家として生きるために、フランスに渡ろうとしている息子と、一緒に生きる覚悟を決めてくれた人が、ここまで来てくださったんだから。僕たちは、あなたにお礼を伝えられる日を、心待ちにしていたんだよ。倉田さん、ありがとう」

「そんな……お礼だなんて、私……」

「私たちは、彗から聞かされていたんですよ。近いうちに、私たちに紹介したい人がいる、って。どんな子か教えてってせがんだら、ちょっと照れた顔で、高校の後輩の女の子だって教えてくれたわ。あんな顔をした彗を見たのは、初めてだった」

 彗のお母さんは、私の前に温かいお茶を置いてから、彗のお父さんの隣の座布団に腰を下ろして、愁眉しゅうびを開いた。

「そんなにも大切な人を、ここに一人で来させるなんて。本当に、仕方ない子ね。ごめんなさいね。澪さん、とお呼びしてもいいかしら」

「はい」

 私は、膝の上でぎゅっと手を握りしめて、返事をした。こうして痛みを意識していないと、涙がこぼれそうだった。彗のお母さんが、寂しそうに目をせた。

「私たちは、後悔しているの。一哉かずやくんの訃報ふほうを、彗に電話で伝えたことを」

「後悔、ですか?」

「ええ。あのときの私たちは、一哉くんが亡くなった理由を、知らなかったから。知っていたら……彗にだけは、教えなかったのに」

 彗のお母さんは、言葉をにごした。「そのことは、僕から話そう」と彗のお父さんが会話を引き継ぐと、落ち着いた口調で私に言った。

壱河一哉いちかわかずやくんは、彗の古い友人でね。絵画教室で知り合ってから、彗と切磋琢磨せっさたくまして実力を伸ばしてきた仲間だったんだ。彗が中学生の頃に、一哉くんと撮った写真も、今はまだ残しているよ。里伽子りかこ、見せて差し上げて」

 里伽子りかこ、と呼ばれた彗のお母さんが、テーブルに一冊のアルバムを置いてくれた。私に向けて開かれたページには、学ラン姿の彗の写真が貼られている。面差しがあどけなくて、少しだけ活発そうな目をしていた。そんな彗よりも、さらに活動的な顔をした男の子が、彗と肩を組んで笑っていた。他校生だと分かる制服姿で、巴菜はなちゃんみたいに笑顔を明るく弾けさせて、星加ほしかくんみたいに八重歯やえばのぞかせた男の子は、彗のように人生を芸術に捧げた人というよりも、運動部で目覚めざましい活躍をしていそうな、快活かいかつで熱い雰囲気を持っていた。

 ――この男の子が、壱河一哉いちかわかずやさん。

「この写真は、じきに手放そうと思っているんだ。思い出に罪はないと分かっていても、今の彗のかせになるのなら、手元に残す意味はないはずだから」

 私は、顔を上げた。彗のお父さんは、骨ばった手をテーブルに伸ばして、故人こじんの顔に白い布をかぶせるように、アルバムを閉じた。

「壱河さんの家とは、家族ぐるみの付き合いがあったけれど、あるときをさかいに、うちからは連絡を積極的には取らずに、距離を置こうと決めたんだ」

 あるときを境に――山吹やまぶき先生が教えてくれた、コンクールの授賞式のあとに起きた、交通事故だ。彗のお父さんが、頷いた。

「交通事故のことを、知っているんだね。あの事故で、彗は右腕に故障こしょうかかえることになって、一緒に事故にった一哉くんは、重い責任を抱えるようになったんだ」

「責任……?」

「あの事故で、車にかれかけたのは、本当は一哉くんのほうだったから」

 息が、止まった。午前四時のミモザの下で、彗が私に伝えた言葉が、胸にせまる。

 ――『歩道に車が乗り上げたときに、腕をかばいたかったんだけどね。一番傷つけたくなかった右腕が、こうなって……僕よりも家族のほうがショックを受けていたことが、思いのほかこたえたかな』

 将来を担う右腕を、かばえなかった理由が、やっと分かった。彗は、自分の夢と未来よりも、そばにいた仲間を庇ったのだ。彗のお母さんが、かなしく微笑わらった。

「彗が身をていして守っても、結局は一哉くんも、怪我をしてしまったけれど……一哉くんは、彗の怪我のことを、ずいぶん気にんでしまったの。『美大に入ったら、彗の分まで絵を頑張る』って、思い詰めた顔で言っていたわ」

 彗の分まで――前向きな言葉のナイフが、心の動脈を切りつける。壱河一哉さんに、悪気はないのだと分かっている。でも、午前四時の逢瀬おうせを重ねて、彗の心を知った私には、その痛みは許容できなかった。

「私たちは、一哉くんを恨んでいないわ。彗だって、割り切れない思いがあるはずだけど、一哉くんを助けたことを、後悔していないって言っていたもの。でも、一哉くんは……せっかく入った美大を、二年で中退していたみたい。訃報ふほうを知らせてくれた絵画教室の方が、教えてくれたわ」

「壱河一哉さんは、そのときの怪我の所為で……怪我をする前までのような絵を、描けなくなったんですね」

 ぽつりと私が呟くと、彗のお母さんは口ごもった。そんな妻の肩に、彗のお父さんが手を乗せて「大丈夫。全て話そう」と言ってから、改めて私に向き合った。

「彗にかばわれた一哉くんの怪我は、足首の捻挫ねんざと、膝の軽度な打撲だぼくだよ」

「え……? あの、それじゃあ、腕とか、手とか、目は……無事だったんですか?」

「うん。画家としての将来に、影響を及ぼすほどの外傷がいしょうを負ったのは、彗だけだ」

「じゃあ、壱河一哉さんが亡くなった、本当の理由は……」

 このときの怪我が理由で、望む絵を描けなくなったからでは――ない。彗のお母さんが、また目をせた。彗のお父さんが、語りを再開させた。

「先日、彗が帰省きせいしたときに、家族で話し合った僕たちは、一哉くんのお通夜には参列せずに、午前中に壱河さんの家を訪ねて、お悔やみを伝えて失礼させていただこう、と決めたんだ。彼の最期さいごを思うと、そのほうがいいと考えたから」

「……自殺だったことは、彗さんから聞いています」

 私に気を使ってくれたことが分かったから、話を円滑えんかつに進めるために、言いづらくても口にした。そんな覚悟は筒抜つつぬけみたいで、彗のお父さんは薄く笑ってくれた。

「こういう場合は、警察の現場検証けんしょうや事情聴取ちょうしゅが入るから、現場になった壱河さんの自宅は、警察が時間を掛けて調べたんだ。その結果、事件性はないと判断されたけど、一哉くんの遺書いしょが見つかっていたんだよ」

 ――遺書。その台詞せりふを聞いた瞬間に、自殺の理由がわかってしまった。きっと彗も、訃報ふほうを受けたときから気づいていた。交通事故、彗の分まで絵を頑張る、美大を中退――かなしい情報のピースが、未完成のパズルを埋めていく。ようやく見え始めた真実の絵は、学びを極める歩みの中で、いつしかねじれた夢を描いていた。

「僕たちは、壱河さんの家を訪問してから、遺書のことを知ったんだ。一哉くんのご両親は、良識のある方々だけれど、中には口さがない親族の方もいてね。遺書の内容を喋っていたんだ。彗を、中傷ちゅうしょうしている遺書の内容を」

 ――ああ、と思った。私は、ゴッホの『星月夜ほしづきよ』を思い出していた。夜色にうずを巻いた感情に、心をからめ取られた人が、ここにもいた。

「壱河さんのご両親からは、誠意せいいある謝罪を受けたよ。悪いのは全て一哉だから、と何度も仰って、今までの一哉くんのことを、僕たちに聞かせてくれたんだ。……美大には、絵の道をこころざす者がたくさんいて、高校時代までは力強い筆致ひっちを評価されてきた一哉くんは、数多あまたの才能にまれるうちに、大勢おおぜいの努力に埋もれていった。彼の素直で真っ直ぐな焦りは、キャンバスにも表れていたんだろうね。持ち味の表現力は、力強いというポジティブな評価から、丁寧さに欠けるというネガティブな評価に転じていった。誰よりも負けず嫌いな子だったから、表彰の壇上だんじょうに立てなくなった現実が、どうしても許せなかったんだと思う。スランプから脱却だっきゃくできないまま、一年が過ぎたときだ。彗が、絵画の世界に返りいたのは」

 その時期は――私が高校を卒業して、夜明けの世界で、彗と再会した時期だ。

「右腕の負傷ふしょうを乗り越えて、左手で技術を磨き直して、再びコンクールの入賞者として、彗が画壇がだんに名前をとどろかせた頃から、一哉くんの絵は、ゆがみ始めた。ストレートな表現をいとうようになって、鑑賞者の理解を得られない記号のような原色の図形で、キャンバスを塗り潰すようになった。人物画も、人間の心の悪辣あくらつな部分を誇張こちょうして、影を丹念たんねんえがくばかりで、光を決してえがかなかった。特定の個人に対する憎しみを原動力にして絵筆を握り、他者を中傷ちゅうしょうする寓意ぐういを明らかにはらんだ油彩画は、彼の周囲の人たちからの注進ちゅうしんを受けて、コンクールで審査されることなく、出品を取り下げられたそうだよ」

 ――『彼の作品は、審査にはあたいしない。芸術を、愚弄ぐろうしているからだ』

 秋口あきぐち先生の冷ややかな声は、今も耳に残っている。あのときの痛烈つうれつ酷評こくひょうに、悲しい実感がともなった。

 ――『もう何年も、一哉とは連絡を取っていなかったんだ』

 訃報を受けた日の朝に、そう語った彗の気持ちも、やっと分かった。二人は、互いのために会わないと決めただけではなくて、きっと彗は、どこかで壱河一哉さんの絵を知った。そして、秋口先生と同じ評価を下したのだ。

「遺書の結びには、彗と出会わなければよかった、と書かれていたよ。……つらい話を聞かせてしまって、ごめんね」

 彗に似た声で謝られたら、涙をこらえるのが難しくなってしまう。鼻の奥がつんとしたけれど、私は泣かなかった。「いいえ。おつらい話をさせてしまい、こちらこそ申し訳ありません」と言って頭を下げてから、顔を上げて、そっと訊ねた。

「どうして、こんなに……私に、教えてくださったんですか」

「理由なら、もう伝えたよ。倉田さん……澪さん、と僕もお呼びしていいかな。澪さんは、画家の彗と、一緒に生きる覚悟を決めてくれた人だから」

 彗のお父さんの微笑みには、怒りも悲しみもなかった。光が影を生むように、影は光なくしては生まれないということを、ちゃんと知っている大人の顔だ。彗のお母さんも、夫とよく似た微笑を作ると、初めて明るい声で言った。

「澪さん。よかったら、あの子の部屋を見ていってくれないかしら」

「彗さんの? えっと、いいんですか? 勝手に……」

「部屋というより、物置ものおきだね。あの部屋は」

 彗のお父さんが、可笑おかしそうに言った。それから「僕からも、お願いしようかな。彗は、自分の絵を誰かに見られることを、嫌がったりはしないから」と言ったので、彗の部屋も高校の美術室のように、絵が保管されているのだろう。

 でも、二人はどうして、私に彗の部屋へ行ってほしいのだろう。素朴そぼくな疑問を読み取ったみたいに、彗のお母さんが綺麗に笑った。

「私たちは、澪さんに希望をたくしたいの。あの子は、また絵を諦めようとしているでしょう? 私たちが彗を支えることは、時間を掛ければ、できるかもしれない。でも、私たちの言葉よりも、あの子が選んだ人の言葉で、夢を繋いでほしいから」

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