4-13 彗の一番好きな絵
二階の突き当りの部屋までは、彗のお母さんが案内してくれた。
「ここが、彗の部屋よ。澪さんを迎えに行く前に、できる範囲の掃除はしたけれど、十分ではないと思うの。ごめんなさいね」
彗のお母さんは、少し困ったような笑顔で前置きしてから、扉を開けた。「いえ、とんでもありません……」と返事をした私は、室内を見てびっくりした。
「彗は、
「はい……でも、アトリエと雰囲気が似ています」
「向こうでも、たくさんの絵を描いているのね」
彗のお母さんは、ヘレーネにそっくりな
「私たちは一階にいるから、何かあれば声を掛けてね」
「分かりました。ありがとうございます」
廊下に出ていく彗のお母さんを見送ってから、私は部屋の中央まで歩を進めた。窓から射し込む
何から手をつけたらいいのか分からなくて、私は床のスケッチブックを一冊拾って、ページを開いた。とたんに、春風を頬に感じた気がした。鉛筆で描かれた桜並木の隅には、日付が小さく記載されている。――彗が、高校一年生のときの絵だ。
ページを
仲間外れのミモザの木が、
高校二年生になった彗の絵は、線の伸びやかさに磨きをかけていた。描く対象をスケッチブックの
そして、彗が高校三年生の秋に――絵が、急に途切れた。
でも、私の足元には、まだスケッチブックが積まれている。次のスケッチブックを、私は拾い上げた。ひと呼吸を置いてから、ページを開いて、息が止まる。
その絵は、何が描かれているのか分からなかった。線がひどく揺れていて、筆致も安定していない。弱い筆圧で薄くのたうったかと思いきや、
――『約束しよう。一年後、ミモザの花が満開になる頃に、互いの夢とか、将来とか、大切なことを諦めない自分になれたら、そのときは。今度は午前四時じゃなくて、夜が明ける頃に、ここでまた会おう』
高校三年生の彗が、二月の夜明け前に、私に掛けた言葉を思い出す。彗が、あの約束を守るために、一人でどれだけ
次のページも、最初は何が描かれているのか分からなかった。次第に、タンポポの花だと気づいた。世界の形を鮮明に
――『あの頃の僕は、まだここに引っ越す前で、左手で絵を描くことが楽しくなって、がむしゃらに打ち込むようになって……自分の生活そっちのけだった』
昼下がりのアトリエで、ミモザサラダを作った彗は、左手で絵を描くことが楽しくなったと言って、笑っていた。でも、苦労しなかったわけじゃない。利き腕とは逆の手で、今まで以上に絵を極めていくということが、平坦な道のりなわけがない。
次のスケッチブックも、彗の線は揺れていた。一日に描き上げる枚数は、高校生の頃を
――血だ。きっと、酷使し続けた左手の皮が、破れてしまった。文字通り血が滲むような努力の
――もう、やめて。床に両膝をついた私は、熱い涙を溜めた目を、ぎゅっと閉じた。でも、彗がやめなかったから、私たちは夜明けの世界で再会できた。頬を滑り落ちていく涙を、手の甲で
いくつものモノクロの世界を、数えきれないほど渡り歩いていくうちに――線が、次第に揺れなくなった。表現にもメリハリが生まれて、誰にも
最後に開いたスケッチブックには、仲間外れのミモザの木が、彗が高校生の頃のデッサンよりも、繊細な
彗の両親が、私をこの部屋に連れてきてくれて、本当によかった。お礼を言うために立ち上がると、何気なく窓辺を振り返って、ふと気づいた。
散らかった部屋の中で、机の上だけが綺麗に片付けられていて、一冊の画集が置かれている。画集を眺める彗の
画集には、たくさんの名画が載っていた。ゴッホの『ひまわり』と『
ゴッホは、夏に彗から話を聞いたように、フランスのアトリエでポール・ゴーギャンと共同生活を送った時期があるけれど、出身国はオランダだ。思い立って『ヘレーネ・クリムトの
彗が、私に解説した最初の油彩画は、クロード・モネの『印象・日の出』だ。モネの絵が載ったページを捜すと、妻のカミーユをモデルにした『ラ・ジャポネーズ』が目に留まった。カミーユが、先日の秋口先生のように
――私は、フランスという国に
私は、世界中の芸術家が残した絵の中から、たった一枚を見つけなくてはならないのだ。
その油彩画と、私が出逢ったのは。
――暗い闇に包まれた絵の中で、
少女の頭には、包帯のような白い布が巻かれていて、両目は
画題を見た私は、目を見開いた。夜明けのミモザの下で、朝を迎えた世界を歩き出したときに、彗がくれた一つのヒントが、私を答えまで導いた。
――『僕自身が答える前に、もう澪がタイトルを言い当てているんだよ』
間違いない。やっと、分かった。
彗の一番好きな絵が、分かった。
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