4-14 繋いだ温もり

 彗の両親と連絡先を交換してから、相沢あいざわ家をあとにした私が、母が待つ実家に帰り着いたのは、十八時半を過ぎた頃だった。

 普段であれば、父は帰宅していない時刻だ。でも、今日は仕事を早く切り上げてくると予感していた。私が、父に話があるように――父も、私に話があるはずだから。

「ただいま。お父さん」

「……おかえり、澪」

 リビングにいた父は、さっき家に着いたばかりなのだろう。彗のお父さんみたいなスーツ姿で、私を振り返った。私の勉強に対する姿勢や、真面目だと人から評価してもらえる部分は、父親譲りなのだと思う。自分の手の届く範囲のことに、精一杯の責任を持とうとしている寡黙かもくな父は、感情を読み取りづらい目をしていたけれど、口角こうかくを少し持ち上げて、私の帰省きせいねぎらった。淡い感情表現は、高校時代の私にそっくりで、父と母も似た者同士だったのだと、今なら分かった。

「お父さん。お母さんも。話したいことがあるの」

 母が、台所で身体を硬くした。重苦しい沈黙に、父も対処しなかった。この家には、やっぱり隠し事の気配がある。ずっと捜していた『彗の一番好きな絵』を見つけたあとでは、実家の違和感の正体なんて、簡単に目星めぼしがついてしまった。

 ――どうして彗は、画家として生きる夢を、諦めようとしていたのか。この謎を真に解き明かすために、あと一つだけ欠けていた情報のピースは、私の家に落ちていた。

 母の、私に対する不審な態度。早く楽になりたいと、必死に念じているような顔。私に交際相手がいることを、明らかに知っているリアクション。

 それから、極めつけは――彗が、私のアパートに泊まりに来た初日のことだ。

 壱河一哉いちかわかずやさんの訃報ふほうを受けた日に、私は体調を崩していたから、シンクのそばに出しっ放しになっていたティーポットを、あのときは気にもめなかった。

 本当は、気に留めるべきだった。私が大学で講義を受けたり、巴菜はなちゃんと星加ほしかくんと学食に行ったりして、夜まで家を空けている間に、あのティーポットを誰が使ったのかということを、もっと考えるべきだった。彗のアトリエの合鍵あいかぎを、私が持っているように――私の家の合鍵だって、彗も持っているのだから。

「お母さん。彗に、何を言ったの?」

 感情をできるだけ抑えて、私は言った。母の顔が、青ざめた。

「私の家で、彗と鉢合はちあわせたんだよね? 彗も驚いたと思うし、お母さんだって驚いたと思うけど、私もすごく驚いてるよ。お母さんが、私に連絡をしないで……私が大学に行っている間に、私の家に来るなんて思わないから」

 あの日、彗はアトリエを出る前に、私に翌日の予定を訊いた。彗がアトリエにいないなら、アパートに帰ろうと思うと私が伝えると、彗は言った。

 ――『アトリエにいつ戻れるか分からないから、僕が澪のアパートに行ってもいい?』

 けれど、早朝に帰省きせいした彗は、壱河一哉いちかわかずやさんのお通夜つやに参列せずに、午前中に両親と壱河家に行って、遺書の件を知ってしまった。そして、実家には泊まらずに、私たちが暮らす町まで、予定よりも大幅に早く戻ってきた。

 ただし、壱河一哉さんの遺書の件で、心が揺れていた彗は、きっと――アトリエではなく、私のアパートに来たのだ。

 そして、合鍵あいかぎを使って部屋に入り、大学に行っていた私の帰りを、待っていると――抜き打ちで私の家を訪ねた母と、鉢合わせた。

「合鍵は、彗しか持ってないから、お母さんは入れないはずだよね。彗が、お母さんを家に上げたの?」

 私の追及を、横合いから父が「澪」と呼んで、さえぎった。感情を読み取りにくいのに、母とそっくりな後ろめたさがこもった声で、私に質問を投げかける。

「それよりも、その人は誰なんだ」

「一緒に将来を考えて、お付き合いをしてる人。その話を、ちゃんと二人にしたかったのに、どうして私が自分から話す前に、当事者の私をけ者にして、彗を悪者みたいな目で見るの?」

「一人暮らしをしている娘の家に、他人の男がいたんだから、心配して当然だ」

「あのときの彗が、どんな気持ちで私を待っていたか知らないのに、彗を悪く言わないでって、お父さんとお母さんに言いたいよ。でも、二人の気持ちだって分かってる。二人にとっての彗は、まだ他人だから。だけど、私にとっては、他人じゃない」

 私の目を見ない父を、私は正面から見つめた。

「大切な人なの」

「……連絡をしないで訪ねたのは、お金のことが理由よ。事前に話したら、澪に断られると思ったから」

 母が、俯いた。意表をかれた私は、返事が遅れた。

「澪は、私たちの仕送りを、最低限しか受け取らなくて、断る月だってあるじゃない。それなのに、前に電話で話したときに、英会話教室に通っていることが分かったから、驚いたの。費用も掛かることなのに、私たちは澪にとって、甘えられない親なんじゃないか、ずっと無理をさせてきたんじゃないか、って……」

「それは……」

 確かに、私は母と電話をしたときに、アリスの英会話教室の期間延長について、うっかり口をすべらせた気がする。そもそも、英会話教室に通っていることを、母には話していなかったから、私が思う以上に驚かせていたのかもしれなかった。

 それに、今さら自覚したけれど――母が言ったことは、たぶん図星ずぼしだ。

「だから、英会話教室の費用だけでも、受け取ってもらおうと思って、訪ねたら……あの男の子が、出てきたの。でも、驚かなかった。澪には、そういう人がいる気がしていたから。私を不安にさせたのは、彼の職業よ。画家で、しかも海外に行こうとしていて……『その生き方で、あなたは澪を幸せにできるの?』って、私……」

 悲痛な訴えを聞いた私は、秋口先生の教えを思い出していた。芸術を殺す言葉は、時として、娘を想う母の言葉という異名いみょうを持つことを、初めて知った。

 父は、今もまだ私の目を見ない。ただ、すすり泣く母の隣に寄り添った。そんな父の腕を掴んだ母が、掠れた声で言った。

「お父さんも、澪にお金のことで苦労をさせたくないのよ。それに……あなたには、高校生だった頃に、私たちの所為で、つらい思いをさせたから。貧しい所為で進路が狭まって、望む場所に行けないかもしれないプレッシャーを、澪には二度と経験してほしくないの」

 物心ついた時から、父と母の関係は冷えていた。愛にひびが入った家だと思っていたけれど、そんなことはなかったのだ。この家には最初からあったのに、単調に続いていく日々の中で、いつの間にか手放しかけていたぬくもりを、繋ぎ止めてくれたものが何なのか、私も、それに両親だって、本当はもう知っている。

「お父さん、お母さん」

 私は、どんな顔をしたらいいのか分からなくて――二人に笑ってほしいと望んだ子どもの頃みたいに、微笑んだ。

「本当は、後悔してるんでしょ? 知ってるよ。私の部屋に飾った、高校の教室を描いた油彩画を鑑賞するために、二人が私の部屋に通ってること。私が買った安物の額縁がくぶちを、立派なものに取り換えて、あの絵を大事にしてくれたことも。ねえ、お母さんは、私のアパートで彗と会ったときに、彗に伝えた言葉を、ずっと後悔してるんでしょ? お父さんとお母さんが、二人で大事にしてきた絵の作者だって、分かったから。高校が廃校になっても、たくさんの思い出がつまった場所を、何度だって振り返らせてくれる油彩画を、好きだって思ってくれたんでしょ?」

 母が、顔を両手で覆って嗚咽おえつした。震える肩を、父がぎこちなく抱き寄せた。頑なに私を見ようとしない父に、私は静かに言った。

「お父さんは、本当は、彗のことを悪く思ってないんでしょ? 私を心配してくれた気持ちは本当でも、お母さんの考えを、尊重しようと思ってくれたんだよね」

「澪は、変わったな」

 父が、初めて私をちゃんと見た。薄い笑みは温かくて、今度は感情を受け取れた。私も、ほんのりと温かい嬉しさを、言葉に乗せて父に届けた。

「うん。変わったよ」

 それから、母は泣き止むまでに時間が掛かったけれど、父と二人で二階に行った。彗の油彩画を見にいったのだろう。穏やかな充足感を胸に、私はリュックからスマホを取り出すと、登録したばかりの番号に電話を掛けた。

「もしもし、倉田……えっと、澪です。本日は、ありがとうございました。はい、実家に着きました。あの……彗さんのお母さん」

 言葉を切った私は、今夜の天気のことを考えていた。帰り道の夕空は、雲一つなく晴れ渡っていたから、きっと大丈夫だと信じている。

「お願いがあります」

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