4-14 繋いだ温もり
彗の両親と連絡先を交換してから、
普段であれば、父は帰宅していない時刻だ。でも、今日は仕事を早く切り上げてくると予感していた。私が、父に話があるように――父も、私に話があるはずだから。
「ただいま。お父さん」
「……おかえり、澪」
リビングにいた父は、さっき家に着いたばかりなのだろう。彗のお父さんみたいなスーツ姿で、私を振り返った。私の勉強に対する姿勢や、真面目だと人から評価してもらえる部分は、父親譲りなのだと思う。自分の手の届く範囲のことに、精一杯の責任を持とうとしている
「お父さん。お母さんも。話したいことがあるの」
母が、台所で身体を硬くした。重苦しい沈黙に、父も対処しなかった。この家には、やっぱり隠し事の気配がある。ずっと捜していた『彗の一番好きな絵』を見つけたあとでは、実家の違和感の正体なんて、簡単に
――どうして彗は、画家として生きる夢を、諦めようとしていたのか。この謎を真に解き明かすために、あと一つだけ欠けていた情報のピースは、私の家に落ちていた。
母の、私に対する不審な態度。早く楽になりたいと、必死に念じているような顔。私に交際相手がいることを、明らかに知っているリアクション。
それから、極めつけは――彗が、私のアパートに泊まりに来た初日のことだ。
本当は、気に留めるべきだった。私が大学で講義を受けたり、
「お母さん。彗に、何を言ったの?」
感情をできるだけ抑えて、私は言った。母の顔が、青ざめた。
「私の家で、彗と
あの日、彗はアトリエを出る前に、私に翌日の予定を訊いた。彗がアトリエにいないなら、アパートに帰ろうと思うと私が伝えると、彗は言った。
――『アトリエにいつ戻れるか分からないから、僕が澪のアパートに行ってもいい?』
けれど、早朝に
ただし、壱河一哉さんの遺書の件で、心が揺れていた彗は、きっと――アトリエではなく、私のアパートに来たのだ。
そして、
「合鍵は、彗しか持ってないから、お母さんは入れないはずだよね。彗が、お母さんを家に上げたの?」
私の追及を、横合いから父が「澪」と呼んで、
「それよりも、その人は誰なんだ」
「一緒に将来を考えて、お付き合いをしてる人。その話を、ちゃんと二人にしたかったのに、どうして私が自分から話す前に、当事者の私を
「一人暮らしをしている娘の家に、他人の男がいたんだから、心配して当然だ」
「あのときの彗が、どんな気持ちで私を待っていたか知らないのに、彗を悪く言わないでって、お父さんとお母さんに言いたいよ。でも、二人の気持ちだって分かってる。二人にとっての彗は、まだ他人だから。だけど、私にとっては、他人じゃない」
私の目を見ない父を、私は正面から見つめた。
「大切な人なの」
「……連絡をしないで訪ねたのは、お金のことが理由よ。事前に話したら、澪に断られると思ったから」
母が、俯いた。意表を
「澪は、私たちの仕送りを、最低限しか受け取らなくて、断る月だってあるじゃない。それなのに、前に電話で話したときに、英会話教室に通っていることが分かったから、驚いたの。費用も掛かることなのに、私たちは澪にとって、甘えられない親なんじゃないか、ずっと無理をさせてきたんじゃないか、って……」
「それは……」
確かに、私は母と電話をしたときに、アリスの英会話教室の期間延長について、うっかり口を
それに、今さら自覚したけれど――母が言ったことは、たぶん
「だから、英会話教室の費用だけでも、受け取ってもらおうと思って、訪ねたら……あの男の子が、出てきたの。でも、驚かなかった。澪には、そういう人がいる気がしていたから。私を不安にさせたのは、彼の職業よ。画家で、しかも海外に行こうとしていて……『その生き方で、あなたは澪を幸せにできるの?』って、私……」
悲痛な訴えを聞いた私は、秋口先生の教えを思い出していた。芸術を殺す言葉は、時として、娘を想う母の言葉という
父は、今もまだ私の目を見ない。ただ、すすり泣く母の隣に寄り添った。そんな父の腕を掴んだ母が、掠れた声で言った。
「お父さんも、澪にお金のことで苦労をさせたくないのよ。それに……あなたには、高校生だった頃に、私たちの所為で、つらい思いをさせたから。貧しい所為で進路が狭まって、望む場所に行けないかもしれないプレッシャーを、澪には二度と経験してほしくないの」
物心ついた時から、父と母の関係は冷えていた。愛に
「お父さん、お母さん」
私は、どんな顔をしたらいいのか分からなくて――二人に笑ってほしいと望んだ子どもの頃みたいに、微笑んだ。
「本当は、後悔してるんでしょ? 知ってるよ。私の部屋に飾った、高校の教室を描いた油彩画を鑑賞するために、二人が私の部屋に通ってること。私が買った安物の
母が、顔を両手で覆って
「お父さんは、本当は、彗のことを悪く思ってないんでしょ? 私を心配してくれた気持ちは本当でも、お母さんの考えを、尊重しようと思ってくれたんだよね」
「澪は、変わったな」
父が、初めて私をちゃんと見た。薄い笑みは温かくて、今度は感情を受け取れた。私も、ほんのりと温かい嬉しさを、言葉に乗せて父に届けた。
「うん。変わったよ」
それから、母は泣き止むまでに時間が掛かったけれど、父と二人で二階に行った。彗の油彩画を見にいったのだろう。穏やかな充足感を胸に、私はリュックからスマホを取り出すと、登録したばかりの番号に電話を掛けた。
「もしもし、倉田……えっと、澪です。本日は、ありがとうございました。はい、実家に着きました。あの……彗さんのお母さん」
言葉を切った私は、今夜の天気のことを考えていた。帰り道の夕空は、雲一つなく晴れ渡っていたから、きっと大丈夫だと信じている。
「お願いがあります」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます