4-15 言って
置時計の秒針が、枕元で時を刻む。午前三時四十分。私は、ベッドから起き上がった。
忍び足で部屋を出て、ロングカーディガンに
グラウンドを囲うフェンスの
きっと、来てくれると思っていた。月光が落とす
「こんばんは、彗」
ざあ、と秋の夜風が甘く吹き抜けて、彗の髪を揺らしていく。黒いジャケットに袖を通した彗の服装は、
「……こんばんは、澪」
彗は、私に挨拶してくれたけれど、表情には戸惑いが
「彗のお母さんに、電話でお願いしたの。彗が、もし急に帰省することになったら、そのときは泊めてもらえませんか、って」
「うん。それは、母さんからも聞いたけど……何が、どうして、こうなってるのか、分からない」
「この場所で、午前四時に待ち合わせをしようって、私がスマホに連絡を入れたから、彗は来てくれたんでしょう?」
「うん、そうなんだけど……」
「私のわがままを、聞いてくれてありがとう」
「それは、いいんだ。でも、澪。どうして……」
「今の私たちには、ただの彗と澪に戻る時間が、必要だって思ったから」
私は、高校のフェンスを振り仰いだ。
「彗。この高校、
彗は、息を呑んでいた。フェンス越しに校舎を見上げる横顔に「私も、お母さんから聞いたんだ」と伝えると、表情が少しだけ
「高校のフェンス沿いの桜も、もしかしたら他の土地に移されるかもしれないって、
「山吹先生? それに、澪。留学のことは……」
「彗。私、一人暮らしをしてるアパートを、引き払おうと思ってるの」
「え?」
彗は、
「私は、彗のアトリエで暮らしたい。彗も、一緒に暮らさないかって言ってくれたことがあったよね? 私が、アリスの英会話教室に通い始めたり、大学のゼミに入ったりして、忙しくなったから、話を進められなかったけど」
「それは、言ったよ。でも、アトリエは……」
「彗が留学するまでの間、私は、彗と一緒にいたい。離れたくないから」
この
「でも、そうなると……澪のご両親に、ちゃんと挨拶しないと」
「じゃあ、挨拶しよう。明日……じゃなくて、今日。二人で」
「えっ、今日?」
「だめ?」
「いや、だめじゃなくて……この服しか着替えを持ってきてないから、挨拶に相応しい服がない」
「両親には事情を伝えておくから、服装は気にしなくていいよ」
「よくない。こういうことは、ちゃんとしないと」
彗は、しかつめらしい顔で言ってから、気まずそうに目を逸らした。私は、彗までの距離を一歩詰めて、彗の左手を、両手で包んだ。
「一人じゃなくて、二人で話して、分かってもらおう。私の両親に、私と彗が二人で考えた、これからのことを。彗は、私が体調を崩したときに、言ったよね。あのときの彗は、自分のことばかり考えてた、って。でも、やっぱり、そんなことなかった。彗は、私のことを、たくさん考えてくれてた」
彗は、
「澪のお母さんとは、もう会ってるんだ」
「うん」
「僕の生き方で、澪を幸せにできるのかって訊かれたとき、情けないけど、答えられなかった。僕の絵は、
彗は、ミモザの枝葉を見上げた。花の代わりに月光の
「あれから、考えたんだ。交通事故の日に、もし僕が、
彗の右手が、ぎこちなく持ち上がって、私の両手に添えられた。
「今も右手で絵を描いていたら、澪と出逢えなかったから」
もし、彗が右手を怪我しなかったら、午前四時の迷子にはならなくて、私と彗は、出逢わなかった。私が触れた彗の左手は、骨ばっていて硬かった。努力と苦労の
「ねえ、彗。私、彗の一番好きな絵が、分かったよ」
私の
「じゃあ、当ててみて。僕の、一番好きな絵を」
「ジョージ・フレデリック・ワッツの油彩画――『希望』」
心地いい夜風が、彗の前髪を揺らしていく。月光が生んだ青い影も、頬で揺れた。目を閉じた彗は、満足そうに微笑むと、私に「正解だよ」と
「ワッツはイギリスの画家だから、フランスの画家をあたっていた澪は、捜すのに苦労しただろうね。闇に沈んだ世界で、
――『私の名前が祈りなら、彗。あなたの名前は、希望だと思う』
午前四時に、私が彗に言った
「彗にとって、ワッツの絵は希望だったんだね」
「昔はね。今は、希望が増えたよ」
彗は、私と繋いでいた左手を外すと、私の頬に触れた。『ヘレーネ・クリムトの
「僕は、澪を幸せにしたい。手放したくない希望を、僕に守らせてほしいんだ」
もし、私が彗の言葉を受け入れたら、この数日間の暮らしみたいに、私と彗は寄り添い合って、離れ離れになる不安は、綺麗に消えてなくなるだろう。――けれど。
「私……彗が、画家として生きる夢よりも、私を選んでくれたこと、嬉しかった。彗にとっての私が、彗の夢と釣り合う存在になれたことが、嬉しかったの。彗の背中を追いかけるんじゃなくて、彗の隣を歩きたいって、思ってたから。……私の存在が、希望なら、彗。私の
私は、彗の返事を待たないで、彗の胸に飛び込んだ。
「諦めないで」
私の長い髪が拡がる影が、足元に落ちた
「彗にとって大切なことを、諦めないで」
「どうして?」
「だって、私たちは、諦めがとても悪いから」
私たちは、今までずっと、二人の居場所を作りたくて、二人で一緒にいる未来を、必死に
「彗が、絵を描き続けることで、
私は、顔を上げた。彗は、胸を
「彗。私は、翻訳のお仕事について、これから調べてみようと思ってるの。私にできるお仕事なのか、まだ分からなくても、私も、私の夢を叶えたいから」
「澪の、夢……?」
「彗は、いつか油彩画『夜明けのミモザ』を
高校二年生の私には、将来の夢なんて何もなかった。でも、彗がいたから、真っ白なキャンバスに理想を描けて、今では大切な夢を見つけられた。
「その夢を叶えるために、私は、どこでだって生きていける私になるから。私のことを、幸せにしたいって思ってくれたなら、私が一番叶えたい夢を、一緒に叶えて。彗の夢は、もう、彗だけの夢じゃないから」
一粒だけ零れた涙が、頬を伝った。私は、彗の目を見つめた。
「言って。彗」
彗も、私の目を見つめ返した。
「今、言って。彗の気持ちを、私に聞かせて」
彗は――ホッとしたような顔で、笑った。それから、私を力いっぱい抱きしめ返して、顔を胸板に押しつけたから、私は何も見えなくなってしまった。
「僕が好きになった女の子は、こんなにも強い人だったんだね」
「彗が、私に好きって言ってくれたのは、初めてだね」
「そうだったかな。澪、まだ顔を上げないで。僕は、自分で思っていたよりも、格好つけだったみたいだから」
「うん。……私、知ってたよ。彗が、絵をやめる気なんてないこと。私が、こういうふうに後押しするのを、待ってたんだってことも」
「え?」
「就職活動を始めても、
きっと彗は、再び
「澪のご両親にきちんと挨拶をして、澪がアトリエに引っ越してきたら……僕がフランスに
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