4-15 言って

 置時計の秒針が、枕元で時を刻む。午前三時四十分。私は、ベッドから起き上がった。

 忍び足で部屋を出て、ロングカーディガンにそでを通す。上着の下は、ブラウスとスカート姿。パジャマはとっくに着替えていた。夜を青々と映す鏡の前で、長い黒髪をくしで軽くいてから、スマホだけを持って家を出た。

 未明みめいの街の静けさは、あの頃から変わらない。歩道を照らす蛍光灯の道標みちしるべを繋ぐように、桜の街路樹の坂道を上がっていくと、高校の校舎が見えてきた。

 グラウンドを囲うフェンスのかどでは、仲間外れのミモザのこずえが、秋の夜風に揺れている。月明かりにぼんやりと包み込まれた枝葉の下で、一人でたたずむ青年を見つけた私は、安堵あんどの息をそっと吐いた。

 きっと、来てくれると思っていた。月光が落とすこずえの影を踏んで、木の下にたどり着いた私は――相手に、ほがらかに笑いかけた。

「こんばんは、彗」

 ざあ、と秋の夜風が甘く吹き抜けて、彗の髪を揺らしていく。黒いジャケットに袖を通した彗の服装は、壱河一哉いちかわかずやさんの訃報ふほうを受けた日の朝と同じだった。

「……こんばんは、澪」

 彗は、私に挨拶してくれたけれど、表情には戸惑いがにじんでいた。青い月明かりに照らされた瞳には、幼い迷子みたいな心細さが揺れている。彗の瞳に映った高校二年生の私も、こんな目をしていたのだろうか。

「彗のお母さんに、電話でお願いしたの。彗が、もし急に帰省することになったら、そのときは泊めてもらえませんか、って」

「うん。それは、母さんからも聞いたけど……何が、どうして、こうなってるのか、分からない」

「この場所で、午前四時に待ち合わせをしようって、私がスマホに連絡を入れたから、彗は来てくれたんでしょう?」

「うん、そうなんだけど……」

「私のわがままを、聞いてくれてありがとう」

「それは、いいんだ。でも、澪。どうして……」

「今の私たちには、ただの彗と澪に戻る時間が、必要だって思ったから」

 私は、高校のフェンスを振り仰いだ。

「彗。この高校、廃校はいこうになるんだって」

 彗は、息を呑んでいた。フェンス越しに校舎を見上げる横顔に「私も、お母さんから聞いたんだ」と伝えると、表情が少しだけかげった。

「高校のフェンス沿いの桜も、もしかしたら他の土地に移されるかもしれないって、山吹やまぶき先生が言ってた。このミモザも、彗がフランスに行く春には、まだここにあると思うけど、今後はどうなるか分からないから。今夜、彗と一緒に見たかったの」

「山吹先生? それに、澪。留学のことは……」

「彗。私、一人暮らしをしてるアパートを、引き払おうと思ってるの」

「え?」

 彗は、呆気あっけに取られた顔をしていた。そんな反応が珍しくて、私は小さく笑った。

「私は、彗のアトリエで暮らしたい。彗も、一緒に暮らさないかって言ってくれたことがあったよね? 私が、アリスの英会話教室に通い始めたり、大学のゼミに入ったりして、忙しくなったから、話を進められなかったけど」

「それは、言ったよ。でも、アトリエは……」

「彗が留学するまでの間、私は、彗と一緒にいたい。離れたくないから」

 この台詞せりふは、彗も私に言ってくれた。彗の海外留学を知ったとき、心が寂しさと不安でいっぱいになった私に、二人で一緒にいることが当たり前みたいな口調で、言ってくれた。彗の瞳に射し込む月明かりが、葛藤かっとうを代弁するように、揺れ動いた。

「でも、そうなると……澪のご両親に、ちゃんと挨拶しないと」

「じゃあ、挨拶しよう。明日……じゃなくて、今日。二人で」

「えっ、今日?」

「だめ?」

「いや、だめじゃなくて……この服しか着替えを持ってきてないから、挨拶に相応しい服がない」

「両親には事情を伝えておくから、服装は気にしなくていいよ」

「よくない。こういうことは、ちゃんとしないと」

 彗は、しかつめらしい顔で言ってから、気まずそうに目を逸らした。私は、彗までの距離を一歩詰めて、彗の左手を、両手で包んだ。

「一人じゃなくて、二人で話して、分かってもらおう。私の両親に、私と彗が二人で考えた、これからのことを。彗は、私が体調を崩したときに、言ったよね。あのときの彗は、自分のことばかり考えてた、って。でも、やっぱり、そんなことなかった。彗は、私のことを、たくさん考えてくれてた」

 彗は、観念かんねんしたみたいだった。深く息を吸い込んで、吐き出してから、寂しく笑った。私が何もかも知っていることを、了解している顔だった。

「澪のお母さんとは、もう会ってるんだ」

「うん」

「僕の生き方で、澪を幸せにできるのかって訊かれたとき、情けないけど、答えられなかった。僕の絵は、一哉かずやを死なせているから」

 彗は、ミモザの枝葉を見上げた。花の代わりに月光の真珠しんじゅともしたこずえは、鮮やかな黄色でかざらなくても、美しかった。

「あれから、考えたんだ。交通事故の日に、もし僕が、一哉かずやを助けてなかったら。真っ直ぐな性格だった一哉は、自分の絵がゆがむほど苦しむことはなかったんじゃないか、って。僕だって、右腕をだめにすることはなかった。でも、一哉を苦しめる選択でも、僕は一哉を助けたことを、後悔してないんだ。一哉には、悪いけどね」

 彗の右手が、ぎこちなく持ち上がって、私の両手に添えられた。

「今も右手で絵を描いていたら、澪と出逢えなかったから」

 もし、彗が右手を怪我しなかったら、午前四時の迷子にはならなくて、私と彗は、出逢わなかった。私が触れた彗の左手は、骨ばっていて硬かった。努力と苦労の瘡蓋かさぶたが、何度も皮膚でがれたあとを感じながら、私は彗を見上げた。

「ねえ、彗。私、彗の一番好きな絵が、分かったよ」

 私の台詞せりふを、彗は予感していたのだろう。私を見下ろした眼差しは、温かかった。

「じゃあ、当ててみて。僕の、一番好きな絵を」

「ジョージ・フレデリック・ワッツの油彩画――『希望』」

 心地いい夜風が、彗の前髪を揺らしていく。月光が生んだ青い影も、頬で揺れた。目を閉じた彗は、満足そうに微笑むと、私に「正解だよ」とささやいた。

「ワッツはイギリスの画家だから、フランスの画家をあたっていた澪は、捜すのに苦労しただろうね。闇に沈んだ世界で、惑星わくせいのような球体に座っている盲目もうもくの少女が、一本しかげんが残っていない竪琴たてごとの音色に、耳を傾けている油彩画は、えがかれたいのりが誰かの救いになることを、僕に教えてくれたんだ。目が見えなくても、竪琴たてごとは今にも壊れそうでも、残された弦が奏でる音を聴こうと、耳を澄ませた敬虔けいけんな姿は……たとえ世界から希望が消えても、彼女は希望の存在を諦めないって、僕に信じさせてくれたから。だから……澪が、僕のことを希望だと言ってくれたとき。あのときは言えなかったけど、本当は嬉しかったんだ」

 ――『私の名前が祈りなら、彗。あなたの名前は、希望だと思う』

 午前四時に、私が彗に言った台詞せりふを、彗は覚えていてくれたのだ。私も、あのときの台詞を思い出す。――『彗星のスイでけいだって、あなたは私に名乗ったよ。人は、星に願いをかけるでしょう?』

「彗にとって、ワッツの絵は希望だったんだね」

「昔はね。今は、希望が増えたよ」

 彗は、私と繋いでいた左手を外すと、私の頬に触れた。『ヘレーネ・クリムトの肖像しょうぞう』のようなうれいを顔に浮かべて、でも嘘じゃないと信じられる笑みで、私に言った。

「僕は、澪を幸せにしたい。手放したくない希望を、僕に守らせてほしいんだ」

 もし、私が彗の言葉を受け入れたら、この数日間の暮らしみたいに、私と彗は寄り添い合って、離れ離れになる不安は、綺麗に消えてなくなるだろう。――けれど。

「私……彗が、画家として生きる夢よりも、私を選んでくれたこと、嬉しかった。彗にとっての私が、彗の夢と釣り合う存在になれたことが、嬉しかったの。彗の背中を追いかけるんじゃなくて、彗の隣を歩きたいって、思ってたから。……私の存在が、希望なら、彗。私のいのりを、聞いてくれる?」

 私は、彗の返事を待たないで、彗の胸に飛び込んだ。

「諦めないで」

 私の長い髪が拡がる影が、足元に落ちたこずえの影と混じり合う。私たちが出逢って、別れて、また出逢ったミモザの木の下で、あの頃は記号みたいに希薄きはくな存在だったのに、すっかり生身の人間に変わった姿で、私たちは抱き合った。

「彗にとって大切なことを、諦めないで」

「どうして?」

「だって、私たちは、諦めがとても悪いから」

 私たちは、今までずっと、二人の居場所を作りたくて、二人で一緒にいる未来を、必死にきずいていこうとした。それなのに、二人で一緒にいることを、私たちが信じた未来を諦めるかせになんて、したくない。

「彗が、絵を描き続けることで、壱河いちかわさんみたいに絶望する人が、これからも生まれるかもしれない。彗の努力と才能を、自分は引き出せないことが苦しくなって、ゆがむ人だっているかもしれない。でも、誰から嫌われても、命を落とす人がいたとしても、それでもかずにはいられないから、彗は画家なんでしょう?」

 私は、顔を上げた。彗は、胸をかれたような顔をしていた。

「彗。私は、翻訳のお仕事について、これから調べてみようと思ってるの。私にできるお仕事なのか、まだ分からなくても、私も、私の夢を叶えたいから」

「澪の、夢……?」

「彗は、いつか油彩画『夜明けのミモザ』をくことが夢だって、私にここで言ってくれたよ。彗の夢が叶うところを、私は一番近くで見ていたい。それが、私の夢」

 高校二年生の私には、将来の夢なんて何もなかった。でも、彗がいたから、真っ白なキャンバスに理想を描けて、今では大切な夢を見つけられた。

「その夢を叶えるために、私は、どこでだって生きていける私になるから。私のことを、幸せにしたいって思ってくれたなら、私が一番叶えたい夢を、一緒に叶えて。彗の夢は、もう、彗だけの夢じゃないから」

 一粒だけ零れた涙が、頬を伝った。私は、彗の目を見つめた。

「言って。彗」

 彗も、私の目を見つめ返した。途方とほうに暮れた迷子のようだった瞳を、月明かりが照らし出す。ずっと穏やかだった目元が震えて、唇が真一文字まいちもんじに結ばれた。

「今、言って。彗の気持ちを、私に聞かせて」

 彗は――ホッとしたような顔で、笑った。それから、私を力いっぱい抱きしめ返して、顔を胸板に押しつけたから、私は何も見えなくなってしまった。

「僕が好きになった女の子は、こんなにも強い人だったんだね」

 盲目もうもくの闇の中で、優しい声が降ってくる。私も、やっと心からホッとして、まだ油絵具の甘い匂いが消えたままの彗の胸に、身体を預けて、小声で言った。

「彗が、私に好きって言ってくれたのは、初めてだね」

「そうだったかな。澪、まだ顔を上げないで。僕は、自分で思っていたよりも、格好つけだったみたいだから」

「うん。……私、知ってたよ。彗が、絵をやめる気なんてないこと。私が、こういうふうに後押しするのを、待ってたんだってことも」

「え?」

「就職活動を始めても、秋口あきぐち先生にアトリエから追い出されそうになっても。彗は一度だって『絵を描くのをやめる』って言わなかったから。やめるなんて、嘘でも口にしたくなかったからでしょ? だから、私は怖くなかったの。彗のことを、信じてたから」

 きっと彗は、再び呆気あっけに取られた顔をしたのだろう。ささやかな沈黙に、小さな笑い声が乗った。それから、打って変わって真剣な声で「澪」と呼んだ。

「澪のご両親にきちんと挨拶をして、澪がアトリエに引っ越してきたら……僕がフランスにつまでの間に、澪に頼みたいことがあるんだ」

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