4-6 キスの理由
「翻訳……文芸翻訳、ですか?」
びっくりした私も、食事の手を止めた。
「もし倉田さんが、この業界に興味を持ってくれたなら、うちの会社が冬から予定しているインターンシップに、参加を
――インターンシップ。就職活動の一環として、企業などで仕事の体験をすること。
「
「そういう条件で募集している所もあるけど、うちはそうでもないよ。少数
「アリスから?」
確かに、私の英語の成績は、自分でも驚くほどに上がっていた。継続は力なりという言葉の正しさを実感できたことが嬉しくて、アリスと英語で話す時間が、一段と楽しくなっていた。
「僕が、倉田さんに声を掛けたいと思った理由は、あと二つあるよ。一つ目は、英語だけでなくフランス語の勉強にも取り組んで、トリリンガルを目指していること」
「高嶺さんも、ご存知だったんですね。フランス語は、英語よりも上達できていなくて、恐縮です……」
フランス語を学んできた高嶺さんから見れば、私の学力は
秋口先生から、彗の絵をアトリエに見にくるときの『ついで』という
「高嶺さんのお言葉は、嬉しいです。でも、やっぱり私は、専門的な勉強を修めた方々よりも、翻訳のお仕事に適していない学生です。それでも期待を寄せてくださる理由を、教えていただけますか?」
「倉田さんの努力を、買っているから。それが、倉田さんに声を掛けたくなった、二つ目の理由だよ」
「努力を?」
「学校のテストのために努力して、好成績を取る学生は、身も
そう語った高嶺さんの眼差しには、私に翻訳の素敵さを語ったときみたいに、情熱の輝きが宿っていた。この人は、本当に翻訳が好きなのだ。学習は一生続いていくという言葉が、私の胸を強く打つ。それに、次に高嶺さんが告げた
「今後の実績と仕事内容、あとは雇用形態にもよるけど、この業種は働く場所を選ばないから、倉田さんに合っているんじゃないかな」
「それは……海外で仕事をすることもできる、ということですか?」
「そうだね。実務経験を積んでから独立して、海外で活動している人もいるよ。もし興味があれば、ホームページに詳細を載せているから、覗いてみてね」
高嶺さんは、鞄から名刺入れを取り出した。差し出された名刺は、未来に続く扉を開ける
「その話、私も一緒に聞かせてもらってもいいかしら?」
落ち着いたアルトの声が、私たちの間に割り込んだ。声の主を振り返った私は、目を見開いて、隣に立った女性を呼んだ。
「
ライトベージュのトップスと、黒いタイトスカート姿の絢女先輩が、私と高嶺さんを見比べていた。私に視線を固定したときの表情は、普段の
「澪ちゃんが、連絡をくれたからよ。スマホの文章を読んで、心配になったんだもの」
「心配……?」
絢女先輩が、自分のスマホの画面を見せてくれたから、私は「あっ」と叫んだ。そういえば、高嶺さんに助けられる直前に、私は絢女先輩にメッセージを送っていた。
「私が掛けた電話にも気づかないし、もし倒れていたらいけないと思って来てみたら、初対面の方もいらっしゃって驚いたわ。澪ちゃん、こちらの方は?」
絢女先輩は、高嶺さんに視線を転じた。声音には、少しだけど
「初めまして。高嶺と申します。倉田さんとは、共通の知人を通じて知り合いました。先ほど、彼女を偶然見かけたので、僕から声を掛けて、ここへ連れてきました。ご心配をおかけして、申し訳ありません」
「絢女先輩、違うんです。高嶺さんは、英会話教室のアリスの知り合いで、前に話した翻訳家の方です。お店の前で動けなくなってた私を、助けてくださったんです」
「あら、顔見知りの方だったのね」
絢女先輩は、あっさりと
「ええ。彼女が無事でよかったです。それに、先ほど彼女に持ち掛けていたお話も、まっとうな内容だと信じることができそうで、安心しました」
高嶺さんは、なんだか時が止まったみたいに絢女先輩を見つめてから、「参ったな」とフランクに言って、
「改めまして、私は
「もちろん。どうぞ、お掛けになってください」
「ありがとうございます。失礼します」
一礼した絢女先輩は、私の隣のソファ席に座った。店員さんに紅茶を注文すると、今も薬指から銀色の輝きが消えたままの左手を、私の額にぴたりと当てた。
「やっぱり。熱があるじゃない。もうすぐ
「彗が?」
ハッとした私は、服のポケットからスマホを取り出した。液晶は、複数件のメッセージと着信履歴を通知している。絢女先輩が、にたりと笑った。
「心配してたわよ。澪ちゃんと連絡が取れない、って。珍しく焦った声で、同じ大学内にいた私に、電話を掛けてくるくらいにね」
「すみません。私から連絡したのに、スマホを全然見ていなくて」
「高嶺さんにも、そんな調子でずっと謝っていたんでしょう? 私にまで謝らなくていいわよ。澪ちゃんを見つけたことは連絡したから、心配しなくても大丈夫よ」
「彗は……大学にいたんですね」
「そうみたいね。私も、今日はまだ顔を合わせてないけどね」
「倉田さんの彼も来るなら、帰りは安心だね」
高嶺さんは、目を細めて喜んでくれた。私も、ホッと気持ちが緩んだけれど、ほどき方が分かったはずの心の糸の結び目が、まだしぶとく残っている気がした。
そんな胸騒ぎを、肯定するように――私たちの席に近づいてきた人物に、「澪」と
「相沢くん? 早かったわね」
そう言って振り返った絢女先輩さえも、私に続いて絶句した。いつも落ち着き払っている絢女先輩が、表情を凍りつかせたところを、私は初めて見たと思う。高嶺さんだけは、私と絢女先輩の
「相沢くん。その格好は、何の冗談?」
「企業の合同説明会を覗いてから、大学のキャリアセンターに行っていたんだ。そんなことより、澪のことを聞かせてほしい。あと、そちらの方は?」
そう真面目な顔で言って、私と高嶺さんを見た彗は――リクルートスーツ姿だった。影そのものを
どうして、彗が私の家に『しばらく泊めてほしい』と言ったのか、理解した。
――アトリエを、
どうして、私を強く抱きしめたときに、彗が『ごめん』と謝ったのか、理解した。
――画家として生きる夢を、諦めようとしているからだ。彗は、就職活動を始めることで、絵画の世界から遠ざかろうとしている。
どうして、
――彗は、あのときから、予感していたからだ。
私が高校を卒業して、ミモザの木の下で彗と再会した春の朝に、いつか油彩画『夜明けのミモザ』を描くと、語った夢を――もう、叶えられないかもしれないことを。
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