4-6 キスの理由

「翻訳……文芸翻訳、ですか?」

 びっくりした私も、食事の手を止めた。高嶺周たかみねあまねさんは微笑んで「それは、能力に応じてゆくゆくは、というところかな。以前に軽く話したように、翻訳にもさまざまな分野があるからね」と言って、テーブルの上で両手を組んだ。

「もし倉田さんが、この業界に興味を持ってくれたなら、うちの会社が冬から予定しているインターンシップに、参加を検討けんとうしてみない?」

 ――インターンシップ。就職活動の一環として、企業などで仕事の体験をすること。打診だしんの驚きから立ち返った私は、まず気になったことを訊いてみた。

高嶺たかみねさんの業種って、外国語大学とか、文学部の英文科とか……大学や専門学校で、翻訳に必要な学問をおさめた人しか、応募できないのかと思っていました」

「そういう条件で募集している所もあるけど、うちはそうでもないよ。少数精鋭せいえいの会社で、倉田くらたさんのような日本文学科出身の同僚もいるし、全く別の業種から転職してきた後輩もいるからね。とはいっても、外国語に特化した学科の卒業生が多いのは事実だけど、倉田さんの英語の成績は、アリスさんからお墨付すみつきをもらっているから」

「アリスから?」

 確かに、私の英語の成績は、自分でも驚くほどに上がっていた。継続は力なりという言葉の正しさを実感できたことが嬉しくて、アリスと英語で話す時間が、一段と楽しくなっていた。

「僕が、倉田さんに声を掛けたいと思った理由は、あと二つあるよ。一つ目は、英語だけでなくフランス語の勉強にも取り組んで、トリリンガルを目指していること」

「高嶺さんも、ご存知だったんですね。フランス語は、英語よりも上達できていなくて、恐縮です……」

 フランス語を学んできた高嶺さんから見れば、私の学力は及第点きゅうだいてんには届かないだろう。それでも、私は七月から秋口あきぐち先生の指導のもと、フランス語で日常会話をこなすことを目標にかかげて、地道な努力を続けている。

 秋口先生から、彗の絵をアトリエに見にくるときの『ついで』というていで、マンツーマンレッスンを提案されたときは、スパルタの授業を想像して内心びくびくしたけれど、実際に指導を受けてみると、驚くほど丁寧で優しかった。奔放ほんぽうな経歴を持つ秋口先生が、彗のような弟子でし画壇がだんの人たちからしたわれている理由を、私はまた一つ教わった。期待にこたえたいという気持ちを、自然と掻き立てられる教育は、私の語学力だけではなく、内面を磨く手助けもしてくれた気がする。

「高嶺さんのお言葉は、嬉しいです。でも、やっぱり私は、専門的な勉強を修めた方々よりも、翻訳のお仕事に適していない学生です。それでも期待を寄せてくださる理由を、教えていただけますか?」

「倉田さんの努力を、買っているから。それが、倉田さんに声を掛けたくなった、二つ目の理由だよ」

「努力を?」

「学校のテストのために努力して、好成績を取る学生は、身もふたもない言い方になってしまうことが悲しいけれど、ごまんといるね。でも、学校を出たあとも、語学力を研鑽けんさんする努力を続けられる人材は、貴重だから。僕は、型通りに学問を修めた人間よりも、学習は一生続いていくという覚悟ができている人間と、仕事をしたいと思っているんだ」

 そう語った高嶺さんの眼差しには、私に翻訳の素敵さを語ったときみたいに、情熱の輝きが宿っていた。この人は、本当に翻訳が好きなのだ。学習は一生続いていくという言葉が、私の胸を強く打つ。それに、次に高嶺さんが告げた台詞せりふが、私の心を動かした。

「今後の実績と仕事内容、あとは雇用形態にもよるけど、この業種は働く場所を選ばないから、倉田さんに合っているんじゃないかな」

「それは……海外で仕事をすることもできる、ということですか?」

「そうだね。実務経験を積んでから独立して、海外で活動している人もいるよ。もし興味があれば、ホームページに詳細を載せているから、覗いてみてね」

 高嶺さんは、鞄から名刺入れを取り出した。差し出された名刺は、未来に続く扉を開けるかぎみたいに感じられて、私は少しドキドキした。翻訳家という、日本と海外に言葉で橋をける生き方に、かれていた自分に気づかされた。透明な本心が、誰かの言葉というきっかけで色づく瞬間を、私はこれからも知っていくのだろう。私が名刺を受け取ると、カツンと隣からヒールの靴音が聞こえた。

「その話、私も一緒に聞かせてもらってもいいかしら?」

 落ち着いたアルトの声が、私たちの間に割り込んだ。声の主を振り返った私は、目を見開いて、隣に立った女性を呼んだ。

絢女あやめ先輩。どうして、ここに?」

 ライトベージュのトップスと、黒いタイトスカート姿の絢女先輩が、私と高嶺さんを見比べていた。私に視線を固定したときの表情は、普段の嫣然えんぜんとした笑みではなく、安堵あんどと呆れが入り混じった目をしていた。

「澪ちゃんが、連絡をくれたからよ。スマホの文章を読んで、心配になったんだもの」

「心配……?」

 絢女先輩が、自分のスマホの画面を見せてくれたから、私は「あっ」と叫んだ。そういえば、高嶺さんに助けられる直前に、私は絢女先輩にメッセージを送っていた。朦朧もうろうとした意識で打ち込んだ文章は、一目で異常がわかるほどに、誤字で埋め尽くされていた。「すみません……」と謝って項垂うなだれると、絢女先輩は肩をすくめた。

「私が掛けた電話にも気づかないし、もし倒れていたらいけないと思って来てみたら、初対面の方もいらっしゃって驚いたわ。澪ちゃん、こちらの方は?」

 絢女先輩は、高嶺さんに視線を転じた。声音には、少しだけど薔薇ばらみたいなとげが感じられて、私は絢女先輩が誤解をしているのだと気づいた。すぐに弁解しようとしたけれど、高嶺さんが席を立って、絢女先輩に頭を下げるほうが早かった。

「初めまして。高嶺と申します。倉田さんとは、共通の知人を通じて知り合いました。先ほど、彼女を偶然見かけたので、僕から声を掛けて、ここへ連れてきました。ご心配をおかけして、申し訳ありません」

「絢女先輩、違うんです。高嶺さんは、英会話教室のアリスの知り合いで、前に話した翻訳家の方です。お店の前で動けなくなってた私を、助けてくださったんです」

「あら、顔見知りの方だったのね」

 絢女先輩は、あっさりとほこを収めた。高嶺さんに向き合うと、「友人に手を貸してくださった方に対する無礼を、お詫び申し上げます」と謝って、誠実に頭を下げている。高嶺さんが、鷹揚おうような微笑で「無礼だなんて、とんでもない。倉田さんのご友人の心配は、もっともですから」と応じると、顔を上げた絢女先輩は、私をからかうときと同じ笑い方をした。黒髪がさらりと揺れて、耳を飾った金色のピアスが、店内の照明をはね返した。

「ええ。彼女が無事でよかったです。それに、先ほど彼女に持ち掛けていたお話も、まっとうな内容だと信じることができそうで、安心しました」

 高嶺さんは、なんだか時が止まったみたいに絢女先輩を見つめてから、「参ったな」とフランクに言って、相好そうごうを崩した。絢女先輩も、ふっと笑った。

「改めまして、私は速水はやみと申します。高嶺さん、帰りはこの子に付き添いたいので、私も同席させていただいてもよろしいでしょうか」

「もちろん。どうぞ、お掛けになってください」

「ありがとうございます。失礼します」

 一礼した絢女先輩は、私の隣のソファ席に座った。店員さんに紅茶を注文すると、今も薬指から銀色の輝きが消えたままの左手を、私の額にぴたりと当てた。

「やっぱり。熱があるじゃない。もうすぐ相沢あいざわくんも迎えにくるから、それまで待ちましょう」

「彗が?」

 ハッとした私は、服のポケットからスマホを取り出した。液晶は、複数件のメッセージと着信履歴を通知している。絢女先輩が、にたりと笑った。

「心配してたわよ。澪ちゃんと連絡が取れない、って。珍しく焦った声で、同じ大学内にいた私に、電話を掛けてくるくらいにね」

「すみません。私から連絡したのに、スマホを全然見ていなくて」

「高嶺さんにも、そんな調子でずっと謝っていたんでしょう? 私にまで謝らなくていいわよ。澪ちゃんを見つけたことは連絡したから、心配しなくても大丈夫よ」

「彗は……大学にいたんですね」

「そうみたいね。私も、今日はまだ顔を合わせてないけどね」

「倉田さんの彼も来るなら、帰りは安心だね」

 高嶺さんは、目を細めて喜んでくれた。私も、ホッと気持ちが緩んだけれど、ほどき方が分かったはずの心の糸の結び目が、まだしぶとく残っている気がした。

 そんな胸騒ぎを、肯定するように――私たちの席に近づいてきた人物に、「澪」とかたい声で呼ばれたとき、振り返った私は、声を失った。

「相沢くん? 早かったわね」

 そう言って振り返った絢女先輩さえも、私に続いて絶句した。いつも落ち着き払っている絢女先輩が、表情を凍りつかせたところを、私は初めて見たと思う。高嶺さんだけは、私と絢女先輩の驚愕きょうがくを共有できないみたいで、美貌びぼうに戸惑いを薄く浮かべて、私たち三人の学生を見比べている。数秒ののちに、口火くちびを切ったのは、絢女先輩だった。

「相沢くん。その格好は、何の冗談?」

「企業の合同説明会を覗いてから、大学のキャリアセンターに行っていたんだ。そんなことより、澪のことを聞かせてほしい。あと、そちらの方は?」

 そう真面目な顔で言って、私と高嶺さんを見た彗は――リクルートスーツ姿だった。影そのものをまとうような黒い立ち姿を、一目見た瞬間から、欠けだらけのパズルのピースのいくつかが、心の中でパチンと音を立ててはまっていった。

 どうして、彗が私の家に『しばらく泊めてほしい』と言ったのか、理解した。

 ――アトリエを、けていたからだ。イーゼルもキャンバスも存在しなくて、油絵具の甘い匂いがしない場所に、彗は居場所を求めていた。

 どうして、私を強く抱きしめたときに、彗が『ごめん』と謝ったのか、理解した。

 ――画家として生きる夢を、諦めようとしているからだ。彗は、就職活動を始めることで、絵画の世界から遠ざかろうとしている。

 どうして、壱河一哉いちかわかずやさんのお通夜つやの日に、私にキスをしたのか、理解した。

 ――彗は、あのときから、予感していたからだ。

 私が高校を卒業して、ミモザの木の下で彗と再会した春の朝に、いつか油彩画『夜明けのミモザ』を描くと、語った夢を――もう、叶えられないかもしれないことを。

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