4-7 仲直りの夜
スマホを持って喫茶店の外に出ると、日差しは午前中よりも
『ミオ! 大丈夫なのっ? 私のことはいいから、ゆっくり休んでね!』
「はい。ご迷惑をおかけして、すみません。本当は、アリスに会いたかったです」
『私もよ。でも、安静にね。それに、ミオとはまた会えるものね』
電話の向こうで、アリスの声が
「今の電話は、『フーロン・デリ』に掛けたの?」
「はい。明日なら、シフトを変更しなくても、働けたかもしれませんけど……」
「無理は禁物よ。自分でも無理だと思ったから、聞き入れてくれたんでしょう?」
「はい。アリスも、店長も、私がびっくりするくらいに心配してくれました」
「当然よ。今まで体調管理を徹底してきた澪ちゃんの努力を、みんな見ているのよ」
私に休息を取るよう
「大丈夫?」
体調のことではなく、彗のことを言われたのだと分かった。私は「はい」と答えて頷いた。無理をしているわけではなくて、本心から頷いているつもりだ。
「私は、たぶん覚悟していました。彗が、何かに思い悩んで、追い詰められることがあるとすれば、それは……彗の夢に、関わることだと思っていました」
喫茶店の中で、黒いリクルートスーツ姿の彗は――隣の席に座る
「さっき、澪ちゃんが外に出てから、
「あ、絢女先輩……? 怒ってます?」
「怒っていないわ。むかつくだけよ」
それは、怒っていると捉えて差し支えない気がする。絢女先輩は、調子を狂わされたことに対する戸惑いを
「相沢くんみたいな絵画ひとすじの人間が、普通の社会人として生きていけるわけがないじゃない」
「絢女先輩、その言い方は、ちょっとひどいと思います……」
「経済学部の成績も、優秀だもの。一般企業に就職しても、そつなく仕事はできるかもしれないけど……」
絢女先輩は、言葉を
「その生き方では、彗の心は満たされません。これからずっと、何よりも大切にしたいことを諦め続けて、毎日を生きていくことになります」
「澪ちゃん、私よりも残酷なことを言ってるわよ」
「えっ、私、そんなつもりじゃ……」
「おかげで、冷静になれたわ。相沢くんがリクルートスーツを着て就活だなんて、ショックが強すぎる眺めだったから、びっくりしたけど。私よりもショックを受けて当然な澪ちゃんが、冷静に構えているんだもの。私が取り乱すわけにはいかないじゃない」
絢女先輩は、
「彗の行動は、ショックでしたけど……やっぱり私、平気みたいです」
「澪ちゃんが、それだけ強くなったってことじゃない?」
絢女先輩の声音は軽やかで、笑みにも普段の余裕が戻っていた。
「体調のことだけじゃなくて、おかしな人たちに絡まれそうだったことは、相沢くんにも報告しておいたほうがいいでしょ?」
前者はともかく、後者は
「今の相沢くんに、絵画の話題はまずいってことは、高嶺さんも察してくださっているわ。あの二人は、今も澪ちゃんの話しかしていないはずよ」
「……そうですか。よかった」
私を助けてくれた高嶺さんは、初対面の彗にも思いやりを持って接してくれた。肩から力が抜けた私に、絢女先輩が再び「大丈夫?」と訊いてくれた。今度は体調のことと、それからやっぱり彗のことだと分かったから、私は薄く笑みを作った。
「はい。大丈夫です。知らない人に声を掛けられそうになったことは、彗が気にすると思うから、隠せるなら隠したかったけど……そんなことをしても、すぐに伝わっちゃうと思います。私たちは、似た者同士だから。ちゃんと二人で話し合って、嘘じゃない笑顔で一緒に過ごせるように、頑張ってみます」
「それがいいわね。……あ。噂をすれば」
「え?」
喫茶店の扉が開いて、彗も外に出てきた。絢女先輩は
「彗……」
「澪。ごめん」
彗は、俯いた。腰の横で握りしめた拳は、力が入りすぎて白くなっている。血を吐くような声の悲痛さは、暖かい秋風には不釣り合いで、彗の後悔を
「僕は、澪に、酷いことをした」
「酷いことなんか、されてない」
私は、彗に駆け寄って抱きついた。周囲の誰が見ていても、今こうしないといけないと、強い気持ちで思ったから。彗の戸惑いと
「彗は、私が嫌がることなんて、今まで一回もしなかった。昨日だって……じゃなくて、今日だって……」
言い直した所為で格好がつかなくなったうえに、二月のモデル事件のことは、実は今でも少し根に持っている。そんな私の
「僕の所為で、苦しい思いをさせたのに。怖い目にも
「彗の所為じゃない。体調は、元から悪かったの」
「気づけなくて、ごめん」
やっと、彗の両腕が持ち上がった。ぎこちなく、それでいて強く抱きしめ返してくれたから、安心した私の目尻に、涙が
「彗。私も、謝りたかったの。
「謝らないで。澪が、僕を気に掛けてくれたことで、僕は救われていたから」
「うん……」
二人でひとしきり謝り合ってから、身体を離して、笑い合った。彗が「僕たちは、帰ろうか」と言ったから、私も「うん」と答えると、高嶺さんと絢女先輩が待つ喫茶店に戻った。テーブル席で高嶺さんと話していた絢女先輩は、私たちに気づくと、チェシャ猫みたいな顔でにんまりした。
「雨降って地固まる、って言葉を体現したみたいな顔で戻ってきたわね」
「えっと……お騒がせしました」
「速水さん。今日はありがとう。高嶺さん、本当にお世話になりました」
「いいんだよ。こういうきっかけだったけど、相沢くんに会えてよかったと思っているから。倉田さんは、お大事にね」
「はい。ありがとうございました」
私と彗が頭を下げると、絢女先輩も高嶺さんに、「せっかくの休日を、私たち学生のために使ってくださり、ありがとうございます」と伝えていた。そんな絢女先輩に、私も「駆けつけてくださって、ありがとうございました」と礼を述べると、絢女先輩は「いいのよ。就活が終わったから、前より
「おめでとうございます。
「まあね。これで、バイトに専念できるわ」
「バイト、続けるんですね。……よかった。絢女先輩、内定が出たら『フーロン・デリ』を辞めちゃうのかなって、気になってたから」
「しばらくは辞めないわよ。お金を貯めて、旅行したいもの」
「内定おめでとう。ご趣味は旅行なんですね」
高嶺さんも、会話に加わった。絢女先輩は「ええ。知らない景色を見るのが好きなんです。学生のうちに、できるだけ遠くに行ってみたいから」と答えて、あどけなく笑った。絢女先輩がアルバイトに打ち込む理由は、初耳だ。もっと話を聞きたいけれど、彗が「僕たちは、そろそろ失礼させていただきます。
「まだここにいるわ。高嶺さんから、海外のお話をお聞きしたいし」
「そういうことだから、ここでお開きにしようか」
「高嶺さん。今日は、本当にありがとうございました」
最後にもう一度感謝を伝えると、高嶺さんは「いいんだよ」と答えて席を立った。私に近づくと、隣の彗には聞こえないほど小さな声で「むしろ、倉田さんには感謝しないとね。今日は、本当にありがとう」と言われたから、私は小首を傾げた。
「感謝?」
「例の件、もし興味があったら、よろしくね」
「澪。それじゃあ、行こうか」
「う、うん」
彗に連れられて喫茶店を出る間際に、テーブル席を振り返ると、席に着いた高嶺さんと絢女先輩の間には、初対面のときよりも親密な空気が流れていた。彗も、私の視線を追って、
アパートに帰り着くと、彗は私をベッドに寝かせた。「夕飯の時間になったら起こすから、眠ってて」と私に言い含めると、リクルートスーツから普段着に着替えて、一人で出掛けようとした。心細くなった私が「どこに行くの?」と訊ねると、「夕飯の買い出しだよ」と言われたから、どきりとした。
「昨日、僕を気遣ってくれた澪は、買い出しに行きたいって言いづらかったと思う。そのことも、謝りたかったんだ」
彗は、私の返事を待たないで「すぐに帰るから」と言って家を出た。私も、とろんと眠たくなってしまい、彗に起こされるまで起きなかった。そのあとは、帰ってきた彗が作ってくれた卵のお
「彗。今日も、ここで眠って」
今回のことを気にした彗が、今日は床で寝ると言い出す前に、有無を言わさぬ口調を作った私は、彗をベッドに座らせた。そのまま私も隣に座ると、ものすごくドキドキしたけれど、彗の左腕にぎゅっと抱きついて、頑張って言った。
「仲直り、しよう。今から」
「……そっか。僕らは、喧嘩していたんだね。それなら、仲直りをしないとね」
穏やかに答えた彗が、私に顔を近づけた。昨日の朝に、彗をアトリエから見送ったときの続きが始まって、与えられた熱を受け止めた私の肩を、彗の右手が掴んでいる。こうすれば、私は動けなくなることを、彗は分かっている気がする。私が好きになった人は、いつも優しくて、時々ずるい。唇が離れたときに、私は言った。
「ごめんね」
「ん?」
「
「澪。その名前は、ベッドでは出さないでほしい」
彗は、左腕で私の身体を支えると、ゆっくりとベッドに横たえた。仲直りをしたかったのに、新たな喧嘩の
「いいのに」
「本音を言えば、僕だってそうしたいよ。さっきの澪が、可愛いかったから。でも、澪が元気になってからでないと」
「……まだ、気にしてるの?」
「昨日の僕は、自分のことばかり考えてた。澪がこうなって、頭が冷えたよ。体調のこと、気づけなくて、本当にごめん」
「そんなことない。私だって、自分の体調のことを言わなかったから。彗、もう謝らないで。彗は、ずっと私に優しかったよ」
彗の寝間着のシャツにしがみつくと、彗はしばらくのあいだ黙ってから、「分かった」と素直に返事をして、いつもの柔らかさで
「澪がそう言うなら、今からは気にしないことにする」
「うん」
嬉しくなった私が、うつらうつらしていると――私の肩に乗った右腕の重みが、少し増した。髪を
彗は、安心しきった子どもみたいに無邪気な寝顔で、規則正しい寝息を立てていた。私は、ぽかんとしてからホッとして、彗の胸板に頬を寄せた。
――本当は、ホッとしている場合ではないことくらい、分かっている。彗が抱えた問題は、何一つ解決していない。今はまだ、マイナスに大きく振り切れていた心の針を、なんとかゼロに近い地点まで戻せただけだ。
でも、私の体調なら、明日も休養を取ることで、じきに快方に向かうはずだ。アリスの英会話教室も、『フーロン・デリ』のアルバイトも、来週まで予定がなくなった。大学の講義はあるけれど、私はこれから自由に動ける。肩に乗ったままの右腕に、私も掛布団から手を伸ばして、そっと触れた。
彗は、右腕に怪我を負ったときも、夢を諦めかけていた。そのときの交通事故について、歩道に車が乗り上げてきた、と彗は語っていたけれど、詳しい話を私は知らない。
亡くなった
そもそも、壱河一哉さんは、彗にとって、どんな友人だったのだろう。
彗と同じ、画家の卵。絵のコンクールで誰よりも競い合いに
壱河一哉さんが知っていて、私が知らない何かがある。彗の右腕の
私は、彗のことを、もっと知りたい。
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