4-8 画家とモデル
翌々日の午前十時に、私と彗は、
彗のリクルートスーツ姿を見たときから、遅かれ早かれこうなることは予想できたので、油絵具の甘い匂いがするリビングに戻ってきた私たちは、クッション張りの出窓の前に並んで立つと、イーゼルの隣に立つ見事な
ブラウンのスーツを品よく着こなした
「こう暑い日がたびたびあると、困ったものだね」
そう
「相沢くん。答えてもらおうか。女にうつつを抜かして、モデルの家に転がり込み、絵筆を握らなくなったとは、一体どういう
数日前までの私なら、とんでもない
「モデルの存在が、君の絵に深みを持たせたことは事実だ。私も、モデルを取ることは
彗は、返事をしなかった。言い訳をしない代わりに、絵を描かない理由も言わない。秋口先生の顔から、笑みが消えた。
「絵を描かない画家に、用はない。アトリエから、出ていってもらおうか」
彗の表情が、初めて動いた。今までは、感情が読めない目つきをしていたけれど、苦しそうに目元を
「秋口先生、待ってください。彗も」
秋口先生は、
私を見つめ返した秋口先生は、黙り込んだ。そして、にやりと口の
「澪? 秋口先生、待ってください。どうして澪を連れていくんです」
「相沢くんは、ここに残りたまえ。私は、このモデルと話がある」
「彗。私も、フランス語の勉強の相談で、秋口先生と話があるの」
私は、ずるいと思ったけれど、自分の勉強を言い訳に使った。彗は、もの言いたげな顔をしてから、何も言わずに左手を下ろした。
――海外留学はやめるのだから、私の外国語の勉強だって、もう意味がないのではないか、と。彗に言われなくて、安心した。「すぐ戻るね」と言って微笑んだ私は、秋口先生と廊下に出ると、隣の
ソファの手前に立った秋口先生は、「座りたまえ」と私に言った。尊大な言い方だったけれど、声音は存外に優しかった。
「身体の具合が悪いことは、君を見たときから分かっている。帰りは車で送ろう」
「え?」
「驚くことはないだろう? 画家がモデルを観察するのは、当然だ」
秋口先生は、
「秋口先生は、私の体調のことをご存知なら、彗が私の
「さあ、どうだかね」
「秋口先生のような
「宝の持ち
「アトリエの今後について彗と話すのは、もう少し待っていただけませんか」
「才能を
「彗は、必ずここに戻ってきます」
私が断言したことが、秋口先生には意外だったようだ。私の覚悟を試すような笑みに、バニラの涙みたいな驚きが
「あの
「明日、私は故郷に
いつも、彗がそうしてきたように。心の中で、そう付け足した。私だって、
「雲を掴むような話だが、その原因とやらを探るあてはあるのかね?」
「まずは、高校の
「頼んだぞ。君だけが頼りなんだ」
「秋口先生……」
「相沢彗の才能を手放すことは、世界の損失だ。
私も、秋口先生も、画家としての相沢彗を失いたくない気持ちは、同じなのだ。私の手を離した秋口先生は、何事もなかったかのように立ち上がると「期待しているよ」と言い残して、応接室を出ようとする。私も立ち上がってから、「秋口先生」と呼び止めた。
日本の油彩画の
「
秋口先生は、
「そういえば、審査員としての立場で、彼の絵を見たことがあったな。画家として、彼の絵について語ることは何もない、とだけ伝えておこう」
――何もない。秋口先生の評価は、彗の評価とは、あまりにも違った。背筋を伸ばした私は「秋口先生、お願いします」と頼み込んだ。
「壱河一哉さんの絵について、秋口先生が知っていることを教えてください。今の彗のために、どうしても必要なことなんです」
「相沢くんは、今も彼と親交があるのかね?」
「え? いえ……何年も、連絡を取っていないと言っていました」
それに、もう亡くなっている――そう私が続ける前に、秋口先生が鼻を鳴らした。
「ならば、相沢くんも、私と同じ評価を下しているということだろう。あるいは、
「彗と、秋口先生が、同じ評価を……?」
秋口先生は、冷ややかな目をしていた。「彼の作品は、審査には
「芸術を、
突き放すような言葉は、想像を絶する
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