4-8 画家とモデル

 翌々日の午前十時に、私と彗は、秋口あきぐち先生から電話でアトリエに呼びつけられた。

 彗のリクルートスーツ姿を見たときから、遅かれ早かれこうなることは予想できたので、油絵具の甘い匂いがするリビングに戻ってきた私たちは、クッション張りの出窓の前に並んで立つと、イーゼルの隣に立つ見事な白髪はくはつの老人と向き合った。

 ブラウンのスーツを品よく着こなした秋口あきぐち先生は、ふところから取り出した扇子せんすを広げて、彗が不在だった家の空気を、芸妓げいぎ舞踊ぶようのようにあおいでいた。すみ色の扇子せんすには、荒神あらがみと呼ぶべき風格ふうかくを宿したりゅうが、闇夜やみよみらみをかせていて、秋口あきぐち先生の動きに合わせて、アトリエを悠々ゆうゆう飛翔ひしょうしている。

「こう暑い日がたびたびあると、困ったものだね」

 そううそぶいた秋口先生は、ねぶるような目で、私と――彗を、じっと見た。人を食ったような笑みは、普段と変わらないけれど、小柄な体躯たいくがいつもよりもさらに大きく見えるのは、自信と威厳いげんに満ちあふれた態度が理由ではなくて、怒髪天どはつてんくような怒りが理由に違いなかった。扇子せんすをパチリと閉じた秋口先生は、作り物の笑みを顔に貼りつけたまま、あらぶる龍がんだ扇子という銃口を、彗の心臓にぴたりと向けた。

「相沢くん。答えてもらおうか。女にうつつを抜かして、モデルの家に転がり込み、絵筆を握らなくなったとは、一体どういう了見りょうけんかね? ん?」

 数日前までの私なら、とんでもないぎぬだと声を上げていたと思う。でも、自分でも信じられないけれど、あながち間違いではない所為で、ぐうのも出なかった。秋口先生は、反論しない彗の正面に詰め寄ると、扇子を彗の胸板むないたに押し当てた。

「モデルの存在が、君の絵に深みを持たせたことは事実だ。私も、モデルを取ることは推奨すいしょうしている。それに、画家にも休息は必要だろう。家を空けることに、目くじらを立てたりはしないがねぇ。新規しんきの仕事を受けないとは、どういうことかね?」

 彗は、返事をしなかった。言い訳をしない代わりに、絵を描かない理由も言わない。秋口先生の顔から、笑みが消えた。般若はんにゃのような形相ぎょうそうを、彗に近づけてすごんでいる。

「絵を描かない画家に、用はない。アトリエから、出ていってもらおうか」

 彗の表情が、初めて動いた。今までは、感情が読めない目つきをしていたけれど、苦しそうに目元をゆがめたから――彗が返事をする前に、私は会話に割り込んだ。

「秋口先生、待ってください。彗も」

 秋口先生は、扇子せんすの銃の照準しょうじゅんを、ゆらりと彗から私に定めた。「君がいながら、どうしてこんなことになっているんだ!」とついに声を荒げたから、彗が「秋口先生。悪いのは、全て僕です。彼女は関係ありません」とかばってくれたけれど、私は「彗」と呼んでいさめてから「秋口先生のお怒りは、もっともです。申し訳ありません」と謝って、頭を下げて、顔を上げて――秋口先生を、じっと見つめた。

 私を見つめ返した秋口先生は、黙り込んだ。そして、にやりと口のを持ち上げると、「来たまえ」と私に告げて歩き出したから、アイコンタクトをんでくれたのだと分かった。従った私が歩き出すと、彗が泡を食って、左手を持ち上げた。

「澪? 秋口先生、待ってください。どうして澪を連れていくんです」

「相沢くんは、ここに残りたまえ。私は、このモデルと話がある」

「彗。私も、フランス語の勉強の相談で、秋口先生と話があるの」

 私は、ずるいと思ったけれど、自分の勉強を言い訳に使った。彗は、もの言いたげな顔をしてから、何も言わずに左手を下ろした。

 ――海外留学はやめるのだから、私の外国語の勉強だって、もう意味がないのではないか、と。彗に言われなくて、安心した。「すぐ戻るね」と言って微笑んだ私は、秋口先生と廊下に出ると、隣の応接室おうせつしつに入った。

 ソファの手前に立った秋口先生は、「座りたまえ」と私に言った。尊大な言い方だったけれど、声音は存外に優しかった。

「身体の具合が悪いことは、君を見たときから分かっている。帰りは車で送ろう」

「え?」

「驚くことはないだろう? 画家がモデルを観察するのは、当然だ」

 秋口先生は、老獪ろうかいな笑みを私に向けた。私は、以前のように怯えない代わりに、彗がこの場にいなくてよかったと心から思った。今の秋口先生の台詞せりふは、彗を傷つけたと思うから。人間としてだけではなく――画家としても。私は「失礼します」と言ってソファに座ると、対面のソファに座った秋口先生と、ローテーブルを挟んで向き合った。

「秋口先生は、私の体調のことをご存知なら、彗が私の看病かんびょうをしていたことも、分かっていたんですよね?」

「さあ、どうだかね」

「秋口先生のような慧眼けいがんをお持ちの方が、相沢あいざわ彗の才能を、簡単に手放すわけがありません。本気でアトリエから追い出す気なんて、ありませんよね。画家をやめようとしている彗に発破はっぱをかけて、思いとどまらせようとしていたんですよね?」

「宝の持ちぐされという言葉もある。君は、私を買いかぶり過ぎじゃないかね?」

「アトリエの今後について彗と話すのは、もう少し待っていただけませんか」

「才能をみがく義務をおこたる者に、ここにいる資格はないのだがね」

「彗は、必ずここに戻ってきます」

 私が断言したことが、秋口先生には意外だったようだ。私の覚悟を試すような笑みに、バニラの涙みたいな驚きが一滴いってき溶けて、共犯者めいた笑みに変わった。

「あの頑固がんこ者の考えを、如何様いかようにして変えるつもりでいるのかね?」

「明日、私は故郷に帰省きせいします。彗は、どうして夢を諦めようとしているのか、事情を教えてくれませんが、彗をアトリエから遠ざけている原因は、私と彗が高校時代を過ごした町にあることだけは、分かっています。その原因を、彗が話してくれないなら……私は、自分で突き止めにいきます」

 いつも、彗がそうしてきたように。心の中で、そう付け足した。私だって、星加ほしかくんに告白された七月に、今の彗みたいに秘密を持った。私が悩みをかかえたとき、いつだって彗は私をリードしてくれた。彗が私に道標みちしるべを示したみたいに、今度は私が、彗に道標みちしるべを示す番だ。秋口先生は、肩を揺らしてわらい始めた。

「雲を掴むような話だが、その原因とやらを探るあてはあるのかね?」

「まずは、高校の恩師おんしを訪ねます。その方は、私が知らない高校時代の彗について、深く知っていると思います」

 物怖ものおじせずに答えたものの、私が提示できる行動プランは、ここまでだ。雲を掴むような話だと、自分でも思っている。だから、秋口先生に揶揄やゆされたり、呆れられたりしても、甘んじて受け入れるつもりでいたけれど――ソファから立ち上がった秋口先生は、私の隣に歩いてくると、神様に祈りを捧げるように、ひざまずいた。

「頼んだぞ。君だけが頼りなんだ」

「秋口先生……」

「相沢彗の才能を手放すことは、世界の損失だ。後世こうせいに残すべき芸術の炎を、私は……やしたくない……」

 狼狽うろたえた私が手を伸ばすと、秋口先生の震える肩に届く前に、しわきざまれた両手に包み込まれた。手のひらの熱さからは、渦巻うずまく怒りのほのおだけではなく、美術を愛する温もりも伝わってきたから、私も床にひざまずいて「はい」と答えた。

 私も、秋口先生も、画家としての相沢彗を失いたくない気持ちは、同じなのだ。私の手を離した秋口先生は、何事もなかったかのように立ち上がると「期待しているよ」と言い残して、応接室を出ようとする。私も立ち上がってから、「秋口先生」と呼び止めた。

 日本の油彩画の巨匠きょしょうである、秋口柳生りゅうせいなら――この名前を、知っているかもしれない。

壱河一哉いちかわかずやさん、という名前を、ご存知ですか?」

 秋口先生は、怪訝けげんそうな顔をした。「知らないな」と言われたので、私は「彗の友人で、彗のようにコンクールに絵を出品されていた方だそうです」と補足したけれど、秋口先生は「印象に残っていないな」と切り捨てたから、戸惑った。

 壱河一哉いちかわかずやさんのえがく絵は、力強い筆致ひっちが特徴だったと聞いている。彗の話しぶりから、コンクールでも高く評価されていたのだと、思い込んでいたけれど――秋口先生が「ああ」とうめくように言ったから、残酷な誤解に気づかされた。

「そういえば、審査員としての立場で、彼の絵を見たことがあったな。画家として、彼の絵について語ることは何もない、とだけ伝えておこう」

 ――何もない。秋口先生の評価は、彗の評価とは、あまりにも違った。背筋を伸ばした私は「秋口先生、お願いします」と頼み込んだ。

「壱河一哉さんの絵について、秋口先生が知っていることを教えてください。今の彗のために、どうしても必要なことなんです」

「相沢くんは、今も彼と親交があるのかね?」

「え? いえ……何年も、連絡を取っていないと言っていました」

 それに、もう亡くなっている――そう私が続ける前に、秋口先生が鼻を鳴らした。

「ならば、相沢くんも、私と同じ評価を下しているということだろう。あるいは、同郷どうきょうのよしみとして、私が知るよしもない義理ぎりで、現在の評価を語らないだけだ」

「彗と、秋口先生が、同じ評価を……?」

 秋口先生は、冷ややかな目をしていた。「彼の作品は、審査にはあたいしない」と告げてから、私の嘆願たんがんこたえて一言だけ、壱河一哉さんの絵に対する感想を述べた。

「芸術を、愚弄ぐろうしているからだ」

 突き放すような言葉は、想像を絶する酷評こくひょうだった。

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