4-9 恋の空席
「澪。本当に、もう平気?」
「大丈夫だよ、彗。いってきます」
海沿いの自然公園で、手を振り合った私と彗は、それぞれの大学へ歩き出した。私と
大学に着いた私は、明日と明後日の講義を受け持つ教授を訪ねて回った。一通りの挨拶を終えたあとは、学食がある講堂を目指して中庭に出ると、春には満開の桜が咲き乱れる木の下で、茶髪をお団子に結った友達が、ベンチに座っている姿を偶然見つけた。
「
「あ、澪ちゃん! 身体はもういいの?」
巴菜ちゃんは、ハッとした顔で立ち上がると、ジャンパースカートを揺らして私に駆け寄った。私は「うん。次の講義は出席するよ」と答えると、巴菜ちゃんにも予定を伝えておくことにした。
「巴菜ちゃん。私、明日と明後日、大学をお休みするね」
「えっ、まだ体調が良くないとか? 今日も、無理して来たってこと?」
「ううん。明日と明後日は、地元に帰省するの。大学は、できれば休みたくなかったけど……講義がない日を待てないくらいに、大切な用事があるから」
私が帰省することは、まだ彗には話していない。巴菜ちゃんの家に泊まるという作り話も考えたけれど、彗に嘘はつきたくないから、自分の中で
「澪ちゃんが大学を休むなんて、よっぽどのことだよね。なんか、いいな。澪ちゃんの、そういうところ」
「そういうところ?」
「自分の大切なものが何なのか、ちゃんと分かっていて、守るところ」
懐かしい響きの
「澪ちゃんも、
「教職の勉強に、悩みがあるの?」
「うん。学校の先生になりたいって、ずっと思ってきたけどさ。あたし、成績よくないもん。子どもに笑われちゃうよね」
「勉強で
「そうかなぁ」
巴菜ちゃんは、まだ浮かない顔をしていた。私は、ふと気になって質問した。
「巴菜ちゃん、今日はどうしたの? 講義の予定は、なかったよね?」
「うん。そうなんだけど、実はね」
巴菜ちゃんが、声を潜めたときだった。つい先日聞いたばかりのアルトの声が、私のすぐ後ろから聞こえてきた。
「あなたの幼馴染がここに来るのを、待っているからでしょう?」
「……絢女先輩?」
いつの間にかそばにいた絢女先輩は、驚く私にニコリと笑って「だいぶ元気になったみたいね」と優雅に言った。
「なっ、なんであなたが、ここにいるんですか! 約束の時間は、まだなのに!」
「約束の時間? 巴菜ちゃん、何のこと?」
「久しぶりね。
絢女先輩は、なぜかベンチで動揺している巴菜ちゃんを見下ろすと、
「知っているんでしょう? あなたの
「絢女先輩、
そういえば、巴菜ちゃんは絢女先輩のことを
「はあ? なんで巴菜がここにいるんだよ? 倉田さんまで……」
「さあ、どうしてでしょうねー」
巴菜ちゃんは、明後日の方角を向いた。どうやら、星加くんと絢女先輩の待ち合わせを邪魔するために、ここで張り込んでいたようだ。星加くんが
「あなたは、邪魔しに来たつもりでしょうけど、むしろ私は、見届けてもらえて有難いわ。痛くもない腹を探られるのは、迷惑だもの」
「め、迷惑っ? なんで、あなたに、そんなこと!」
巴菜ちゃんはわなわなと震えていたけれど、絢女先輩は相手にしなかった。呆然としている星加くんと向き合って、はっきりとした口調で言った。
「今日は、私に声を掛けてくれてありがとう。友達としてなら、お茶のお誘いは歓迎するわ。でも、そうじゃないなら話は別よ。君と二人で食事に行くのは、あの日が最初で最後。今日は、それを伝えに来たの」
星加くんは、面食らっていた。それから、
「どうして、俺にチャンスもくれないんですか」
「その恋は、君が澪ちゃんを好きになったときの気持ちと、全く同じだから」
星加くんは、言い返せなかった。絢女先輩は、冷静な声音で続けた。
「澪ちゃんがいなくなった空席に、そのときたまたま通りかかった私を、ちょうどいいから座らせているだけ。
「そんな俺になれたら、チャンスくらいはくれるってことですか?」
星加くんが、
「君は、私に心が揺れたことなんて、忘れているわ」
今度こそ、星加くんは言い返せなかった。
「あの子のタイプは、頭が良くて向上心がある女よ。少なくとも、何もせずに
巴菜ちゃんの頬が、カッと
「澪ちゃん。次にあなたと会うときには、私たちを驚かせた出来事は、全て解決してるって、期待していいのね?」
「え? どうして……」
「なんだか、いい顔をしてたから。素敵な報告を待っているわ」
「星加くんは、絢女先輩のことが好きになったの?」
「いや、なんて言うか……恋にすら、させてもらえなかった」
顔を上げた星加くんは、後ろめたそうな顔をしていた。絢女先輩の言葉は、多少なりとも、事実を言い当てていたのだろう。私は、考えを少しだけ述べた。
「会わない理由を伝えたのは、絢女先輩なりの誠意だと思う。何も言わないでさよならをすることだって、絢女先輩にはできたはずだから。星加くんのことを、友達だと思ってくれたんじゃないかな」
「……ありがとう。優しい倉田さんにひきかえ、巴菜は鬼だな」
「
「えっと……私は、好きだよ。絢女先輩のこと」
「ううっ、澪ちゃんの心が綺麗で、自分が汚れて見える……あたし、決めた! 教職の勉強、もっと頑張る! 他の講義も!
「どうせ三日坊主だろ」
「言ったなぁ!」
言い合いを始めた二人を見ながら、私は感心していた。絢女先輩は、賢くて優秀な人だからこそ、同性には誤解されやすいけれど、悩みを抱えていた巴菜ちゃんを、あっという間に立ち直らせた。絢女先輩は、本当にすごい。
「巴菜ちゃんは、絢女先輩をライバル視しなくてもいいんじゃないかな」
つい呟くと、巴菜ちゃんが頬を桜色に染めて、私を引っ張って星加くんから離れた。「大祐が振られたから?」と訊かれたので、私は「ううん」と返事をした。
「星加くんは、関係なくて……絢女先輩は、たぶん」
星加くんではなく、前の恋人だった人でもなく、別の人と――幸せになるような、気がするから。午後の喫茶店で、絢女先輩と親密に話していた男性の顔が、脳裏に浮かんだ。自然と笑みが零れたから、巴菜ちゃんが
「澪ちゃんまで、アリスさんみたいに『面白くなってきた』って言うの?」
「ううん、違うの。……私、この町が好き。できるだけ早く帰ってくるね」
高校生だった頃の午前四時に、私と彗は二人きりだった。でも、気づけば私たちの周りには、たくさんの素敵な人たちがいる。
この居場所に、必ず帰ってこよう。そう、強く思った。
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