3-25 トリリンガル
アトリエ兼リビングに戻ると、彗はまだ眠っていた。午前の光が
いつかのような忍び足で、私はイーゼルに近づいた。朝日に照らされたスケッチは、外国の家の絵だと一目で分かった。鉛筆書きのラフであっても、家の前で立ち話をしている男女の姿は、
彗の絵画にかける情熱は、私と出逢った頃から変わらない。でも、生み出される絵は大きく変わった。彗は、どんどん変わっていく。私だって、これからも。イーゼルから離れた私は、出窓のそばに置いていた鞄から、スマホを取り出して、深呼吸した。
――ミモザ、
スマホにあらかじめ登録していた電話番号を、液晶に表示させた。決心が鈍らないうちに、覚悟が揺らいでしまう前に、さまざまな人たちが教えてくれた勇気の存在を確かめながら、この道を自らの意思で選択して、通話ボタンをタップする。
けれど、コール音が鳴ってすぐに、もっと適切な時間に電話をするべきだったと後悔した。居ても立っても居られなかったと言った星加くんの気持ちが、今なら痛いほどよく分かる。電話を急いで切ろうとしたけれど、その前に通話が始まってしまった。
『もしもし』
男性のしゃがれた声が、耳に当てたスマホから聞こえる。息を詰めた私は、腹をくくって話し始めた。
「私は、倉田澪と申します。
『ああ、君か』
アトリエでは威圧的に響いた声が、電話だと不思議と気さくに感じられた。きっと、対面と電話という
「秋口先生、おはようございます。早朝に申し訳ありません。秋口先生にお話したいことがございまして、お電話させていただきました」
『構わんよ。むしろ、遅いくらいだ』
笑みを含んだジョークが、心にひりひりと
「先日は、教材を
『ほう?』
秋口先生は、面白がるように応じてから、打って変わって真剣な口調で言った。
『
『
秋口先生は、私を試しているのだろう。ひと呼吸を置いた私は、
「はい」
スマホから、微かな息遣いが聞こえた。その答えを私が知っているなんて、きっと思いがけなかったのだ。でも、私だってびっくりしている。答えられなかったはずなのに、今からこの言葉を唱えられるのは、彗のおかげだ。昨日の帰り道で、バニラの涙を教えてくれた彗が、私にフランス語の言い回しの楽しさを伝えてくれたから。
だから、他にもたくさんあるのだという食べ物にまつわるフランス語を、もっと頑張って覚えたくて――いつもの彗みたいに、調べたから。
「クリームの中のクリームは、上質なクリームの中の、さらに上質な部分を示しています。つまり『その分野で最高のものや人』という意味です。私も……この言葉に恥じない勉強をして、フランス語を使いこなせるように、頑張ります」
思いを言葉の形に翻訳する必死さが滲んで、まるで
『期待しているよ』
それだけを言い残して、電話は切れた。同時に、私の緊張の糸も切れて、私は廊下にへたり込んだ。初めての達成感と充足感が、心臓の
秋口先生のことは、まだ苦手なままだ。けれど、いつかはこの気持ちも、夜明けを迎えた空色みたいに、明るく変わっていくのかもしれない。目尻に
「おはよう、澪。そんな所で、どうしたの?」
髪が少し跳ねている彗に、私は「おはよう、彗」と返したけれど、まだ
「私……フランス語の勉強、好きになれるかもしれない」
「うん。よく頑張ったね」
そう言って
この夏が終わるまでに、私はどこまで歩いていけるだろう。分からなくても、二人なら、どこにだって行ける。夏を
― 第3章 ひまわりと星月夜のシャンパーニュ・ア・ロランジュ <了> ―
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます