3-24 日差しと八重歯

 あかりを落としたアトリエに、朝日がキラキラと降り注ぎ始めた頃。私は、クッション張りの出窓で薄目を開けた。

 私と一緒にタオルケットにくるまっていた彗は、まだぐっすり眠っている。まぶたを閉じて、朝の日差しに頬と黒髪を白々と照らされた彗は、綺麗だった。出会った頃よりも身体つきは精悍せいかんなのに、どこかもろさをかかえているように見えるのは、一度は諦めかけた夢を体現しているような、彗の生き方の所為だろうか。

 彗を起こさないように、そっと私は出窓を下りた。木の床が小さく軋んでも、彗は物音に気づかず寝入っている。普段は滅多に飲まないお酒を、珍しく二杯も飲んだからだ。お酒は好きだけど強くなくて、すぐに眠くなってしまうから、仕事をしないと決めた日にだけ飲むのだと、私は『soiréeソワレ』で教えてもらった。対照的に、私は自分で思っていたよりも、お酒に強いことが分かってきた。そんな違いがなんだか不思議で、私たちは似た者同士でも、決して同じ人間ではないのだと、バーテンダー姿の絢女あやめ先輩と談笑しながら、当たり前の感慨にひたっていた。

 洗面所でパジャマを着替えて、身支度を一通り整えてから、ヒメヒマワリの花瓶の水を換えた。洗面台に花びらが舞って、水のうずの流れに乗って、排水溝に吸い込まれる。私の指先が届く前に、黄色が遠くへ行ってしまったとき、インターホンが鳴り響いた。

 どきりと心臓が弾んだのは、一大決心を見透かされた気持ちになったからだ。深呼吸をした私は、逃げずに玄関へ真っ直ぐに向かった。

 午前八時を過ぎたばかりの朝に、アトリエを訪ねてくる人は限られている。私は、てっきりあの人だと思っていたけれど――予想が外れて、驚かされた。洋風扉を開けた私は、門扉もんぴの前に立つ男の子の名前を呼んだ。

星加ほしかくん? どうして……」

「えっ、倉田さんこそ、なんで」

 星加大祐だいすけくんは、私よりも驚いていた。まぶしい朝日が、トパーズ色の髪に白い光のつゆを落としている。抜けるように青い空の下、庭の草花が陽光を照り返す風景に、シンプルなTシャツとズボン姿の星加くんは、不思議としっくり馴染なじんでいた。そんな『印象』を持った理由は、星加くんの雰囲気が変わったからだろうか。まるでき物が落ちたような表情には、昨日の巴菜はなちゃんみたいな清々しさがあった。

 かと思いきや、ばつが悪そうに余所見をして「えっと……そっか。倉田さんは、相沢あいざわ先輩と付き合ってるんだもんな。ここにいたって、不思議じゃないよな」とひとちたから、私はなんだか恥ずかしくなった。でも、照れ隠しの言い訳はしなかった。

「倉田さん、相沢先輩はいる?」

「いるけど……まだ寝てるの」

「あ……そうだよな。アポなしで早朝に来てごめん。行こうって決めたら、居ても立っても居られなくて。また出直すよ」

「うん……」

 星加くんは、彗に何の用事があったのだろう? それに、誰に彗の住所を訊いたのだろう? 私の疑問を読み取ったように、星加くんは静かに答えてくれた。

「こないだ、速水はやみ先輩に教えてもらったんだ。着替えを届けてもらったあとで、飲みに付き合ってもらったときに。相沢先輩の、腕のこと」

 彗の、腕のこと――あのとき、私が星加くんに言えなかったことを、絢女先輩が伝えてくれたのだ。私たちが知らないところで、私たちを支えてくれた人がいる。星加くんは「倉田さん」と私を呼んで、淡く笑った。夜明けを惜しむような哀愁と、朝ぼらけの明るさが入り混じった、気負いのない笑みだった。

「あのとき、俺を止めてくれてありがとう。相沢先輩の事情を知らないで、軽い気持ちで腕を引こうとして……俺、取り返しがつかないことをするところだった」

「ううん。私たちも、伝えてなかったから……」

 昨日の酔いはめているのに、また目頭が熱くなった。新しい友達に、新しい勉強、新しいこと尽くしの夏は、私を涙もろくした。星加くんは愁眉しゅうびを開くと、頭上に拡がる青空みたいなさわやかさで、それでいて自分の心の輪郭りんかくを確かめるように、訥々とつとつと言った。

「今日は、相沢先輩に謝りに来たんだけど、倉田さんに会えてよかった。やっぱり、俺じゃ駄目なんだな、って諦めがついたから。笑顔にしたかったのに、全然できなかったし。今だって、泣かせてる」

「星加くん。私……」

「もう倉田さんを困らせるようなことは、言わないよ。相沢先輩にはかなわないってこと、認めたから。自然公園で、速水はやみ先輩を待つ間、相沢先輩と一緒にいた倉田さんの、安心してる顔を見たときに。俺がこだわってたような言葉なんかなくても、倉田さんは大事にされてるんだってこと、ちゃんと納得できたから」

「絢女先輩を、待つ間って……私たちのこと、見てたの?」

「うん、ごめん。離れろとは言われたけど、見るなとは言われなかったし」

「もう……」

「謝るついでに、一つだけ、お願いがあるんだけど……よかったら、俺と友達になってくれる?」

 涙を懸命にこらえていた私は、こくんと頷いた。私が星加くんに伝えたかったことを、先回りして言葉にしてくれた。私のことを好きになってくれた人は、本当に優しい人だった。星加くんは目を細めて「ありがとう。それじゃ」とだけ言って、彗の家から離れていく。海を臨む坂道をくだり始めた後ろ姿が、少しずつ小さくなっていく。

「星加くん」

 私は、星加くんを呼び止めた。迷いのない答えを潮風に乗せて、声を大切な友達のもとまで届かせる。

「また、ゼミでよろしくね」

 星加くんが、振り返った。清らかな日差しの中で、八重歯やえばのぞかせて笑った男の子に、私も笑みを作って手を振った。星加くんの八重歯を、とても久しぶりに見た気がする。相手を笑顔にできなかったのは、私も同じだったのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る