3-23 バニラの涙
出来上がったクレームブリュレをみんなで食べた夕刻に、私たちは
「それじゃ、澪ちゃん、
「
「巴菜ちゃん、楽しかったよ。また大学で」
「うん! また学食に行こうね! いってきます!」
巴菜ちゃんの快活な後ろ姿が、雑踏の中へ消えていく。暮れなずむ街を眺めてから、私と彗もアトリエがある住宅街へ歩き出した。
「綾木さんとの打ち合わせは、どうだった?」
「うん。貴重なお話をたくさん聞けたよ」
通り道の自然公園を、私たちはゆるゆると進んでいく。彗とこんなふうに海沿いの道を歩くのは、ずいぶん久しぶりな気がした。私は学業に追われていて、彗はさらに絵画の仕事にも
「玄関は、家を出るときにも、家に帰るときにも、必ず通る場所だからね。そんな大切な場所に飾る絵を、僕に依頼したということは、フランスの
彗は、普段よりも
「こないだ澪と話したゴッホの『ひまわり』も、ゴッホが南フランスのアルルに滞在しているときに、アトリエで共同生活を送ることになる画家のポール・ゴーギャンを歓迎するために、装飾画として
「歓迎するため……」
「ゴッホの『ひまわり』や『
私は、
「彗のお仕事も、同じだね。アリスと綾木さんに喜んでほしいって
彗は、不意を打たれた顔をしてから、少し照れたみたいに目を細めた。私は、やっぱり嬉しくなる。この夏は、今まで知らなかった彗の顔も教えてくれた。
「絵を夢中で描いていた僕が、誰かの心の機微に目を留められるようになったのは、
「私?」
「澪は、僕が今まで選ばなかった色彩の使い方を、教えてくれた気がするんだ」
抽象的な
「秋口先生のことで思い出した。彗、私の勉強のこと、秋口先生に話したでしょ?」
「えっ、だめだった?」
「だめじゃないけど、びっくりした。でも……ありがとう。私、秋口先生にフランス語の教材をいただいたんだ」
「そっか。秋口先生は、絵画でも、語学でも、最高の教育者だから。僕は秋口先生を信頼しているし、尊敬しているんだ」
「……うん。私に必要なものを、秋口先生はとっくに知ってるみたいだった。その教材で、分かりにくいところがあったんだけど、今度教えてもらってもいい?」
「いいよ。帰ったら、さっそく確認しようか」
彗に勉強の相談をするのは、実はこれで三度目になる。初めてお酒を飲んだ日から、私は彗に勉強を見てもらうようになっていた。忙しい彗を頼る後ろめたさが消えたわけではないけれど、甘えることにも勇気が必要なのだと思う。彗からの強い要望もあって、私は厚意を素直に受け取っている。
「彗は、フランス語をどうやって身につけていったの?」
「改めて訊かれると難しいけど、そうだね。その言語を好きになることかな」
意外な答えが返ってきて、面食らった。彗のことだから、もっと技術的な方法を挙げるのだと思い込んでいた。
「フランス語の言い回しは独特なものが多くて、会話相手に対する皮肉を込めたものや、詩的で知性に
「バニラの涙……一度聞いたら、もう忘れない気がする」
材料の記載一つにも、可愛さと切なさが同居したエスプリが効いている。彗は楽しそうに「食べ物にまつわるフランス語には、つい頑張って覚えたくなるような言い回しが他にもあるから、澪も気に入ると思うよ」と続けたから、こういうスタンスで勉強に臨めばいいのだと
「ありがとう。私は、まだ『
「ああ、『
「彗も、怖いと思うの?」
「うん。自分のフランス語が通じない所為で、出先から下宿先に戻れないことを想像したら、背筋が寒くなる」
フランスの駅で立ち往生する彗の姿は想像できなくて、私はくすりと笑ってしまった。手先は器用なのに、他のことでは意外と不器用なところもある彗が、私の不安を
「……私、アリスから『
「確かに、僕も怖かったよ。今回のことで、澪の危なっかしさが分かったから」
彗がしかつめらしい顔になったから、私は反省しつつも微笑んだ。住宅街に差し掛かる坂道をのんびりと
さっき歩いてきた自然公園で、オレンジ色の
「
「そっか……私、やっぱりフランス語に
この縁に初めて、後ろめたさではなく、純粋な嬉しさを感じた。そんな実感をもう少しだけ噛みしめたくて、私は彗に提案した。
「私、彗と今度『
彗は、少し驚いた顔をしてから、「それなら」と言って優しく
「これから行こうか。どこかで軽く夕食を取ってから」
「いいの?」
「うん。僕も楽しみだから。
「絢女先輩、驚くだろうな」
住宅街に背を向けた私たちは、
好きな人と飲むお酒は、楽しくて美味しい。ささやかな
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