3-20 酔いが醒めないうちに
彗の家でシャワーを借りた私は、青と
ドライヤーで髪を乾かす間、鏡に映る私は疲れた顔をしていたけれど、少し吹っ切れたような顔にも見えた。そばに置かれた透明な花瓶に
洗面所を出たところで、ちょうどインターホンが鳴り響いた。先日の
「澪と
「あら、まだ始めてなかったのね。まあ、夕飯には少し早めの時間だものね」
「うん。荷物を持つよ。買い出しの支払いを先にするから、まずは家に上がって」
彗は、絢女先輩を家に招き入れると、またしても私にだけ分からない話をしている。絢女先輩は
「わ……これ、どうしたんですか?」
出窓から夕日が射し込む室内を一目見るなり、私は驚いた。ローテーブルに『フーロン・デリ』の料理がたくさん並んでいたからだ。私がシャワーを浴びている間に、彗が用意したのだろう。普段は夜遅くに食事を取るので、午後五時半の食卓の眺めは新鮮だった。キッチンに立った絢女先輩が、さらりと「今から飲み会をするから」と言ったから、私はさらに驚いた。
「飲み会? ここで、ですか?」
「そ。こないだのやり直し」
「こないだって……あっ」
もしかして――確信を込めて彗を見上げると、彗は観念したように笑ってから、私を二人掛けソファに座らせた。絢女先輩が、レジ袋から缶ビールやレモネードの
「食べながら話そうか。先週、澪がゼミ仲間と夕食に行った日の電話で、澪に元気がなかったから。何かあったんじゃないかと思って、訊き出そうか迷ったんだ」
「……やっぱり、分かってたんだ」
――『ゼミ仲間との夕食は、楽しめた?』
そう電話で私に訊ねた夜から、彗にはお見通しだったのだ。ゼミの飲み会という、アルコールが絡んだ社交の場に、私が
「でも、澪は疲れてたし、翌日にアリスさんの家に行く予定も控えてたし、他にも心配事があるみたいだったから。澪とバイトで会う
全く悪びれずに言われると、呆れを通り越して
「楽しめなかったお酒の思い出は、楽しいお酒の思い出に変えたいと思って企画したんだけど、どうかな。僕も滅多に飲まないから、あんまり慣れてないんだけど」
「……うん。飲んでみたい」
私は、心から頷いた。今までに抱えてきた悩みの薄雲が、さあっと晴れていく気分だった。坂道に転がしたオレンジは、自分で拾い集めることができるけれど、誰かが一緒に拾って手渡してくれる嬉しさに、今は素直に
「缶チューハイも悪くないけど、前々から気になってたカクテルがあったから、速水さんにお願いしたんだ。せっかくなら、本職の人に頼みたいしね」
「本職だなんて大げさね。ただのバイトよ。ハードルを上げないでくれる?」
絢女先輩が、キッチンで苦笑した。そういえば、絢女先輩のもう一つのアルバイト先は『
「お待たせしました。『ミモザ』と『モナコ』です」
「ミモザ?」
びっくりした私の前に、オレンジ色のカクテルが置かれた。こちらが『ミモザ』で、彗の前に置かれたピンク色のほうが『モナコ』という名前なのだろう。絢女先輩は、私の隣に腰を下ろすと、生春巻きを小皿に取りながら説明してくれた。
「
「グレナデンシロップ?」
私が小首を傾げると、彗が「ざくろのシロップだよ」と口を挟んだ。
「ざくろはフランス語で『
「相沢くんって、本当に
「フランスのお酒なんだ……」
私たちに振る舞うカクテルに、絢女先輩が『モナコ』を選んだ理由が分かった気がした。彗が自然公園に来たときに、私に掛けた言葉を思い出す。きっと彗は、もう知っている。私が、フランス語の習得に悩んでいたことを。
「次は、澪ちゃんの『ミモザ』の説明ね」
絢女先輩は、私の前に置いたオレンジ色のカクテルを手で示した。
「このカクテルは、シャンパンにオレンジジュースを注いで軽くステアしたもので、『この世で最も美味しくて、
「フランスのパリで生まれたお酒で、別名は『シャンパーニュ・ア・ロランジュ』だよ。これもフランス語で、意味は『オレンジジュース入りのシャンパン』」
彗は
彗は『モナコ』を一口飲むと、「うん、美味しい」と心なしか弾んだ声で言った。私も『ミモザ』をおっかなびっくり飲んでみて、スッキリした口当たりに驚いた。オレンジジュースの甘さに大人っぽい奥行きが生まれていて、シャンパンが入ることで雰囲気が魔法みたいに変わっている。フルーティな香りを運ぶ炭酸も、夏の夕暮れにぴったりだ。
「美味しい……」
「そう言ってくれると、作った
絢女先輩は目を細めると、いくつかの中華料理をつまんでから、ごく短時間でソファから立ち上がった。
「ごちそうさま。それじゃ、ごゆっくり」
「絢女先輩、もう帰っちゃうんですか? まだ、あんまり食べてないのに」
「ええ。お邪魔虫は、さっさと退散させていただくわ」
「お、お邪魔虫って、そんな」
上手く
「それに、今日はもう一件、飲みに行く約束ができたから」
「今から、ですか?」
ローテーブルに並んだ料理は、明らかに三人分なのに。絢女先輩の言う約束が、急に入った予定だとしたら、答えは
「もしかして、相手は」
綺麗な人差し指が、私の唇の近くに当てれらた。私に最後まで言わせなかった絢女先輩は、今日も
「互いに失恋した者同士、積もる話がありそうだから」
以前の絢女先輩なら、自分の恋について決して口にしなかったと思う。ミモザの季節から時が流れて、私の学びの形が変わったように、人と人との関係も、やっぱり変わっていくのだろう。玄関まで絢女先輩を見送った私は、改めて頭を下げた。
「今日は、ありがとうございました。あの……よろしくお願いします」
私からお願いするのも変だけれど、こんなふうにしか言えなかった。絢女先輩も同じことを思ったのか、
「今日はバイトもなくて暇だしね。三人で食事をする予定は、また日を改めて立て直しましょう。相沢くんには、せっかく夕食代を払ってくれたのに悪いけど、あんまり食べられなかったから、近いうちに埋め合わせをお願いしようかしら」
「そう言われると思ってたよ。それじゃ、今度の六限のあとにでも」
「大学の近くに韓国料理のお店ができたから、激辛チゲで手を打つわ」
私には食べられそうにない料理の話をした絢女先輩は、夕空の下を歩いていった。私も彗と同じ大学に通っていたら、講義の帰りに夕食を食べに出掛けたのだろうか。今もこうして一緒に食事をしているけれど、そんな日々も素敵かもしれない。
彗とリビングに戻ると、たった数分離れただけなのに、赤い斜光が入る部屋には、また少し日が沈んだことで、
「彗。私も『モナコ』を飲んでみていい?」
「うん、どうぞ」
彗から受け取った『モナコ』は、ビールをレモンスカッシュで割っているだけあって爽やかだ。ざくろの甘さと、ビールのほろ苦さが絶妙にマッチした後味は、アリスが作ってくれたクレームブリュレに通じるものがある気がした。
「澪。今さらだけど、速水さんを巻き込んで、こっそり調べてごめん」
「ううん。私が、自分で言わなかったから。……彗、ありがとう。私、ゼミの飲み会のこと、やっぱりまだ気にしてたのかも。それに……フランス語のことも」
私は、濃いピンク色のカクテルから、オレンジ色のカクテルに持ち替えた。
「私のために、フランスのお酒のことを調べてくれたんだよね。他にも彗が調べたことを、もっと教えて。何でもいいから、私が知らないようなことを」
「懐かしい
彗が優しく笑ったから、私は不思議に思った。以前にも私は、こんな
「それなら、お酒の話をしようか。ミモザの花に花言葉があるように、『ミモザ』と名付けられたカクテルにも、カクテル言葉があるんだ」
「カクテル言葉?」
「うん。カクテル言葉には、気になる相手にお酒を通してメッセージを届けるという役割もあって、情熱的な言葉が多いんだ。恋愛でも、友情でも、
恋愛でも、友情でも。
「『ミモザ』のカクテル言葉は、『
「真心……」
午後四時の自然公園で、私が星加くんに語った言葉の一つ一つに、あのときの私が込めた以上の意味を、彗の声が与えてくれた。私が今まで胸に秘めてきた思いを、言葉の形にする勇気も、ミモザの花の名を
「……大学三年生になってから、外国語の勉強に力を入れるようになったことを、巴菜ちゃんも、アリスも、私たちのことを知っている人は、みんな……海外留学をする彗のためでしょって言ったの。その指摘は正しいけど、本当は、彗のためだけじゃなくて、私のためでもあって……二人なのに、って。少しだけ思ってたの。彗がフランスに行ったあとの将来を、彗と二人で考えて、一緒に実現したいって思ったから」
「うん。知ってるよ」
彗は、当然のように頷いてくれた。透明な言葉の意味を
「フランス語のことだって、今の段階で無理に身につける必要はないのに、澪が必要としてくれたことが、僕は嬉しかったんだ。一人でたくさん悩ませて、ごめん。これからは、一緒に悩ませてくれる?」
「うん……」
お酒には、涙腺を緩ませる作用もあるのかもしれない。星加くんに誠意を伝えたときには泣かずに済んだのに、頬を涙が一粒だけ滑り落ちていった。そっと隣に身体を傾けると、胸を貸してくれた彗が、私から『ミモザ』のグラスを取り上げた。
「ミモザ、
夜明けの光を受けて輝くミモザの色をしたカクテルを、彗は言葉通り興味深そうに眺めている。遠い眼差しを見上げた私は、星加くんの
――『好きだって伝えないくせに、倉田さんのことを大事にしてるって言えるのかよ』
ミモザ、
それは、分かっているけれど――今だけは、言葉にしたかった。『ミモザ』がくれた酔いが
「私は、彗が好き」
頬がじんわりと熱くなった理由を、カクテルの所為にしないくらいには、私はもう鈍感じゃない。彗は、きょとんと私を見つめ返した。
「ちゃんと伝えたこと、なかったから……」
「ああ、うん……僕も、この『ミモザ』を飲んでいい?」
「え? いいけど……」
彗は、しばらく黙り込んでから、
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