3-20 酔いが醒めないうちに

 彗の家でシャワーを借りた私は、青とだいだいのモロッカンタイルが夕日をきらめかせる洗面所で、はな色のパーカーワンピースを身に着けた。

 ドライヤーで髪を乾かす間、鏡に映る私は疲れた顔をしていたけれど、少し吹っ切れたような顔にも見えた。そばに置かれた透明な花瓶にしたヒメヒマワリは、今も花びらの瑞々みずみずしさを保っていて、鮮やかな黄色がアトリエにはなやかさを添えてから、まだ数日しかたっていないことが、なんだか信じられなかった。

 洗面所を出たところで、ちょうどインターホンが鳴り響いた。先日の秋口あきぐち先生の一件がフラッシュバックして立ちすくむと、リビング兼アトリエの扉が開いて、彗が外に出ていった。洋風扉から外の様子をうかがうと、さっき自然公園で別れた絢女あやめ先輩が、一人で門の前に立っていて、私に気づいて手を振った。彗も、私を振り返った。

「澪と速水はやみさんがそろったし、そろそろ始めようか」

「あら、まだ始めてなかったのね。まあ、夕飯には少し早めの時間だものね」

「うん。荷物を持つよ。買い出しの支払いを先にするから、まずは家に上がって」

 彗は、絢女先輩を家に招き入れると、またしても私にだけ分からない話をしている。絢女先輩は悪戯いたずらっぽく微笑むと、私の背中を押してリビングに向かわせた。

「わ……これ、どうしたんですか?」

 出窓から夕日が射し込む室内を一目見るなり、私は驚いた。ローテーブルに『フーロン・デリ』の料理がたくさん並んでいたからだ。私がシャワーを浴びている間に、彗が用意したのだろう。普段は夜遅くに食事を取るので、午後五時半の食卓の眺めは新鮮だった。キッチンに立った絢女先輩が、さらりと「今から飲み会をするから」と言ったから、私はさらに驚いた。

「飲み会? ここで、ですか?」

「そ。こないだのやり直し」

「こないだって……あっ」

 もしかして――確信を込めて彗を見上げると、彗は観念したように笑ってから、私を二人掛けソファに座らせた。絢女先輩が、レジ袋から缶ビールやレモネードのびんを取り出しながら「先に食べててね」と言ったので、彗は「じゃあ、お言葉に甘えて」と答えてから、私の対面のクッションに腰を落ち着けて、エビマヨの皿に箸を伸ばしている。

「食べながら話そうか。先週、澪がゼミ仲間と夕食に行った日の電話で、澪に元気がなかったから。何かあったんじゃないかと思って、訊き出そうか迷ったんだ」

「……やっぱり、分かってたんだ」

 ――『ゼミ仲間との夕食は、楽しめた?』

 そう電話で私に訊ねた夜から、彗にはお見通しだったのだ。ゼミの飲み会という、アルコールが絡んだ社交の場に、私が馴染なじめなかったということが。

「でも、澪は疲れてたし、翌日にアリスさんの家に行く予定も控えてたし、他にも心配事があるみたいだったから。澪とバイトで会う速水はやみさんに、頼んでおいたんだ。僕が耳に入れておいたほうがいい情報は、横流ししてほしいって」

 全く悪びれずに言われると、呆れを通り越して可笑おかしくなる。ゼミの飲み会で起きたことも、結果的に絢女先輩を通じて彗に伝わるなら、を張らずに最初から自分で話せばよかったのだ。暗躍あんやくする彗の片棒かたぼうかついでいた絢女先輩も、きっと面白がっていたに違いない。私の小皿に中華おこわを取り分けた彗は、穏やかな声で言った。

「楽しめなかったお酒の思い出は、楽しいお酒の思い出に変えたいと思って企画したんだけど、どうかな。僕も滅多に飲まないから、あんまり慣れてないんだけど」

「……うん。飲んでみたい」

 私は、心から頷いた。今までに抱えてきた悩みの薄雲が、さあっと晴れていく気分だった。坂道に転がしたオレンジは、自分で拾い集めることができるけれど、誰かが一緒に拾って手渡してくれる嬉しさに、今は素直にひたりたかった。

「缶チューハイも悪くないけど、前々から気になってたカクテルがあったから、速水さんにお願いしたんだ。せっかくなら、本職の人に頼みたいしね」

「本職だなんて大げさね。ただのバイトよ。ハードルを上げないでくれる?」

 絢女先輩が、キッチンで苦笑した。そういえば、絢女先輩のもう一つのアルバイト先は『soiréeソワレ』というバーだった。彗に勧められて、慣れ親しんだ中華料理を食べていると、絢女先輩が二つのグラスをお盆に載せて運んでくれた。透明なグラスには、それぞれオレンジ色と濃いピンク色が注がれていて、今日の夕空みたいに綺麗だった。

「お待たせしました。『ミモザ』と『モナコ』です」

「ミモザ?」

 びっくりした私の前に、オレンジ色のカクテルが置かれた。こちらが『ミモザ』で、彗の前に置かれたピンク色のほうが『モナコ』という名前なのだろう。絢女先輩は、私の隣に腰を下ろすと、生春巻きを小皿に取りながら説明してくれた。

相沢あいざわくんの『モナコ』から解説するわね。まず、ビールとレモネードをミックスさせた『パナシェ』というカクテルを作って、そこにグレナデンシロップを加えたものが『モナコ』と呼ばれるカクテルになるの」

「グレナデンシロップ?」

 私が小首を傾げると、彗が「ざくろのシロップだよ」と口を挟んだ。

「ざくろはフランス語で『grenadeグルナード』だから、グレナデンシロップの名前の由来になったみたいだね。『パナシェ』の名前の由来もフランス語で、『混ぜ合わせる』って意味なんだって。そうだよね、速水はやみさん」

「相沢くんって、本当に手抜てぬかりなく調べものをするわよね。私を頼らなくても、自力でカクテルを作れたんじゃない?」

「フランスのお酒なんだ……」

 私たちに振る舞うカクテルに、絢女先輩が『モナコ』を選んだ理由が分かった気がした。彗が自然公園に来たときに、私に掛けた言葉を思い出す。きっと彗は、もう知っている。私が、フランス語の習得に悩んでいたことを。

「次は、澪ちゃんの『ミモザ』の説明ね」

 絢女先輩は、私の前に置いたオレンジ色のカクテルを手で示した。

「このカクテルは、シャンパンにオレンジジュースを注いで軽くステアしたもので、『この世で最も美味しくて、贅沢ぜいたくなオレンジジュース』と言われているの。花の名前がつけられたのは、ミモザの花の色と似ているから」

「フランスのパリで生まれたお酒で、別名は『シャンパーニュ・ア・ロランジュ』だよ。これもフランス語で、意味は『オレンジジュース入りのシャンパン』」

 彗は講釈こうしゃくを添えてから、『モナコ』のグラスを持って、私に向けた。私も、なんだかドキドキしながら『ミモザ』の冷たいグラスを持って、彗のグラスに近づけた。ガラス同士が涼やかに触れ合う乾杯かんぱいは、ゼミの飲み会のときよりもはるかにんでいて、私はこの響きをいつまでも覚えて生きていくのだと予感した。

 彗は『モナコ』を一口飲むと、「うん、美味しい」と心なしか弾んだ声で言った。私も『ミモザ』をおっかなびっくり飲んでみて、スッキリした口当たりに驚いた。オレンジジュースの甘さに大人っぽい奥行きが生まれていて、シャンパンが入ることで雰囲気が魔法みたいに変わっている。フルーティな香りを運ぶ炭酸も、夏の夕暮れにぴったりだ。

「美味しい……」

「そう言ってくれると、作った甲斐かいがあるわね」

 絢女先輩は目を細めると、いくつかの中華料理をつまんでから、ごく短時間でソファから立ち上がった。

「ごちそうさま。それじゃ、ごゆっくり」

「絢女先輩、もう帰っちゃうんですか? まだ、あんまり食べてないのに」

「ええ。お邪魔虫は、さっさと退散させていただくわ」

「お、お邪魔虫って、そんな」

 上手く相槌あいづちを打てなかった私を、絢女先輩はくすりと笑った。

「それに、今日はもう一件、飲みに行く約束ができたから」

「今から、ですか?」

 ローテーブルに並んだ料理は、明らかに三人分なのに。絢女先輩の言う約束が、急に入った予定だとしたら、答えはおのずと導き出せた。彗が自然公園から私を連れ帰ったときに、絢女先輩がその場に居残った光景が、脳裏をよぎる。

「もしかして、相手は」

 綺麗な人差し指が、私の唇の近くに当てれらた。私に最後まで言わせなかった絢女先輩は、今日もりんと笑っていた。

「互いに失恋した者同士、積もる話がありそうだから」

 以前の絢女先輩なら、自分の恋について決して口にしなかったと思う。ミモザの季節から時が流れて、私の学びの形が変わったように、人と人との関係も、やっぱり変わっていくのだろう。玄関まで絢女先輩を見送った私は、改めて頭を下げた。

「今日は、ありがとうございました。あの……よろしくお願いします」

 私からお願いするのも変だけれど、こんなふうにしか言えなかった。絢女先輩も同じことを思ったのか、星加ほしかくんの名前を出さないまま微笑んだ。

「今日はバイトもなくて暇だしね。三人で食事をする予定は、また日を改めて立て直しましょう。相沢くんには、せっかく夕食代を払ってくれたのに悪いけど、あんまり食べられなかったから、近いうちに埋め合わせをお願いしようかしら」

「そう言われると思ってたよ。それじゃ、今度の六限のあとにでも」

「大学の近くに韓国料理のお店ができたから、激辛チゲで手を打つわ」

 私には食べられそうにない料理の話をした絢女先輩は、夕空の下を歩いていった。私も彗と同じ大学に通っていたら、講義の帰りに夕食を食べに出掛けたのだろうか。今もこうして一緒に食事をしているけれど、そんな日々も素敵かもしれない。

 彗とリビングに戻ると、たった数分離れただけなのに、赤い斜光が入る部屋には、また少し日が沈んだことで、桔梗ききょうの花みたいな青紫色の影が生まれていた。あかりをけると、星形のペンダントライトが薄闇を柔らかく照らしていく。二人掛けソファに座った私は、さっきまで絢女先輩がいた隣に座り直した彗に、おずおずと頼んでみた。

「彗。私も『モナコ』を飲んでみていい?」

「うん、どうぞ」

 彗から受け取った『モナコ』は、ビールをレモンスカッシュで割っているだけあって爽やかだ。ざくろの甘さと、ビールのほろ苦さが絶妙にマッチした後味は、アリスが作ってくれたクレームブリュレに通じるものがある気がした。

「澪。今さらだけど、速水さんを巻き込んで、こっそり調べてごめん」

「ううん。私が、自分で言わなかったから。……彗、ありがとう。私、ゼミの飲み会のこと、やっぱりまだ気にしてたのかも。それに……フランス語のことも」

 私は、濃いピンク色のカクテルから、オレンジ色のカクテルに持ち替えた。

「私のために、フランスのお酒のことを調べてくれたんだよね。他にも彗が調べたことを、もっと教えて。何でもいいから、私が知らないようなことを」

「懐かしい台詞せりふだね」

 彗が優しく笑ったから、私は不思議に思った。以前にも私は、こんな台詞せりふを、彗に言ったことがあっただろうか。なんだか身体がぽかぽかして、昔のことを考えられない。ああ、となんとなく理解した。彗と出逢った午前四時の暗闇で、私たちは未明みめいの孤独に酔っていると思ったけれど、これが本当に酔うということかもしれない。

「それなら、お酒の話をしようか。ミモザの花に花言葉があるように、『ミモザ』と名付けられたカクテルにも、カクテル言葉があるんだ」

「カクテル言葉?」

「うん。カクテル言葉には、気になる相手にお酒を通してメッセージを届けるという役割もあって、情熱的な言葉が多いんだ。恋愛でも、友情でも、素面しらふでは勇気が足りなくて言葉にできない気持ちを、お酒にたくしていたのかもしれないね」

 恋愛でも、友情でも。巴菜はなちゃんと星加ほしかくんの二人を、私は自然と連想した。二人と正面から向き合う勇気が、私には足りていなかった。それに、フランス語に対しても。たどり着きたい未来を見据えているようで、未来を見つめることが怖かった。

「『ミモザ』のカクテル言葉は、『真心まごころ』だよ」

「真心……」

 午後四時の自然公園で、私が星加くんに語った言葉の一つ一つに、あのときの私が込めた以上の意味を、彗の声が与えてくれた。私が今まで胸に秘めてきた思いを、言葉の形にする勇気も、ミモザの花の名をかんしたお酒が、少しだけ後押ししてくれた。

「……大学三年生になってから、外国語の勉強に力を入れるようになったことを、巴菜ちゃんも、アリスも、私たちのことを知っている人は、みんな……海外留学をする彗のためでしょって言ったの。その指摘は正しいけど、本当は、彗のためだけじゃなくて、私のためでもあって……二人なのに、って。少しだけ思ってたの。彗がフランスに行ったあとの将来を、彗と二人で考えて、一緒に実現したいって思ったから」

「うん。知ってるよ」

 彗は、当然のように頷いてくれた。透明な言葉の意味をひもとく辞書で、誰にも教えなかった秘密の気持ちを翻訳して、私だけに声を届けてくれる。

「フランス語のことだって、今の段階で無理に身につける必要はないのに、澪が必要としてくれたことが、僕は嬉しかったんだ。一人でたくさん悩ませて、ごめん。これからは、一緒に悩ませてくれる?」

「うん……」

 お酒には、涙腺を緩ませる作用もあるのかもしれない。星加くんに誠意を伝えたときには泣かずに済んだのに、頬を涙が一粒だけ滑り落ちていった。そっと隣に身体を傾けると、胸を貸してくれた彗が、私から『ミモザ』のグラスを取り上げた。

「ミモザ、銀葉ぎんようアカシア、シャンパーニュ・ア・ロランジュ……呼び名が異なっても、示す花は同じところが興味深いね」

 夜明けの光を受けて輝くミモザの色をしたカクテルを、彗は言葉通り興味深そうに眺めている。遠い眼差しを見上げた私は、星加くんの台詞せりふを思い出した。

 ――『好きだって伝えないくせに、倉田さんのことを大事にしてるって言えるのかよ』

 ミモザ、銀葉ぎんようアカシア、シャンパーニュ・ア・ロランジュ。呼び名が異なっても、示す花は同じ。私が彗に好きだと伝えても、伝えなくても、私たちの関係も変わらない。

 それは、分かっているけれど――今だけは、言葉にしたかった。『ミモザ』がくれた酔いがめないうちに、あと少しだけ勇気を出して、カクテル言葉に頼らないで、私たちが知っていればそれでいいはずの透明な言葉を、私はありきたりな言葉に翻訳した。

「私は、彗が好き」

 頬がじんわりと熱くなった理由を、カクテルの所為にしないくらいには、私はもう鈍感じゃない。彗は、きょとんと私を見つめ返した。

「ちゃんと伝えたこと、なかったから……」

「ああ、うん……僕も、この『ミモザ』を飲んでいい?」

「え? いいけど……」

 彗は、しばらく黙り込んでから、うわの空としか形容できない表情で『ミモザ』を飲んで、思いきりき込み始めた。一連の挙動不審を見守った私は、こらえきれずに少しだけ笑って、せた彗の背中をさすってあげた。

 ぞくっぽい言葉で心を確かめ合わなくても、私たちは生きていける。けれど、たまには、こういう日があってもいいのかもしれない。

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