3-21 渦巻きの終わり

 自室に帰り着いたのは、午後九時を過ぎた頃だった。

 アトリエに泊まらない代わりに、彗は私をアパートまで送ってくれた。今日はもっと一緒にいたいから、本当は名残惜しいけれど、私に大切な用事があることを、彗も分かってくれている。別れ際に掛けられた「おやすみ。また明日」の言葉が、真心まごころのこもったカクテルに続いて、私に勇気を与えてくれた。

 玄関で靴を脱いだ私は、深呼吸する。手の中のスマホを操作して、綾木あやき家でバーベキューを楽しんだ土曜日以降、一度も連絡が取れなかった友達に、電話を掛ける。耳に当てたスマホがコール音を鳴らす間、飾り棚の写真立てを、私は見つめた。

 昼下がりのアトリエの庭で、黄色のミモザが輝いている。冬の終わりの日向ひなたの絵が、私の緊張に寄り添ってくれた。絵画は、人生のなかで訪れるさまざまな決断の瞬間を、静かに応援してくれる存在なのだということを、彗の油彩画が教えてくれた。

 だから、やがて電話が繋がったとき、私は落ち着いて相手と向き合えた。

巴菜はなちゃん」

『……澪ちゃん』

 昨日の英語の講義で会わなかっただけなのに、ずいぶん長い間、西村にしむら巴菜ちゃんの声を聞いていない気分になった。天真爛漫てんしんらんまんで太陽みたいに明るかった声は、夜空を渦巻うずまき模様で塗りこめたゴッホの『星月夜ほしづきよ』みたいな瑠璃紺るりこんに色を変えていて、アトリエのミモザの開花を待つ二月の私を見ているような気持ちになる。今の巴菜ちゃんは、あのときの私と同じだ。私は、単刀直入に言った。

「巴菜ちゃん。昨日、大学を休んだのは、私に会いたくなかったから?」

 スマホで繋がる向こう側で、巴菜ちゃんが息を詰めた気配が伝わってくる。私がこんなにも直接的な言い方をするなんて、巴菜ちゃんには信じられなかったのだと思う。私だって、自分にこんな一面があったなんて知らなかった。私は、何者なのだろう。自問自答の答えは、今もまだ出ていない。永遠に分からないかもしれない。けれど、どんな顔でも、私は私だ。巴菜ちゃんから返事がないから、私はさらに続けた。

「大学を休むことは、巴菜ちゃんが決めることだから。私が口出しすることじゃないって、分かってる。でも、休むことを私の所為にしてるなら、それはやめてほしい」

『なっ……なんで、そんなことを言うのっ?』

 巴菜ちゃんが、上ずった声で反論した。夜色の瑠璃紺るりこんの渦巻きが、ブラックホールみたいな黒に近づいた気がした。

『澪ちゃんに……私の気持ちなんて、分からないよ! 勉強もできて、大祐だいすけにも好かれて……私が欲しいものを全部持ってる澪ちゃんには、分からないよ!』

「巴菜ちゃん。私、本当は、大学に通えなかったかもしれないんだ」

 ――巴菜ちゃんが、また息を詰めた気配がした。

「理由は……言えないけど、でも、短期大学に通えるようになったの。二年間でも、家族が通わせてくれるのは嬉しいって、十分だって思ってたけど、二年じゃ足りなくなったんだ。勉強を突き詰めていく楽しさを、教えてくれた人がいたから。だから、編入試験を受けて、大学生を続けさせてもらったの。だから……巴菜ちゃんが、私と星加ほしかくんの件を言い訳にして、大学に来ないことに対して、私は……たぶん、怒ってるんだと思う」

 ――やっと、言えた。そんな実感が、胸のつかえを溶かしていく。星加くんに告白された私に、巴菜ちゃんが『大祐だいすけを取らないで』と啖呵たんかを切った夕方から、かかえ続けてきたもやもやに、ようやく名前をぴたりと当てはめられた。

「彗のことを、巴菜ちゃんが、星加くんに全部、話してたことも」

 私は、本当は怒っていたのだ。けれど、私が怒っていた理由は、ただ言いふらされたからではなくて――ちゃんと言葉で伝えないと、巴菜ちゃんに気持ちを届けられない。

「彗との関係を、星加くんに話したこと自体は、構わないの。誰かに知られて困ることは、巴菜ちゃんにだって話してないから。私と彗の関係は、私と彗が納得していたら、それでいいと思ってる。だけど……巴菜ちゃんに、星加くんを取らないでって言われたことは、悲しかった。巴菜ちゃんは、私が彗と別れて星加くんを選ぶって、本気で思ったの?」

『それは……』

 巴菜ちゃんが、言葉を詰まらせた。その姿は、フランス語への苦手意識を隠した私にそっくりで、ずっとかたくなにせられてきた巴菜ちゃんの本心が分かった気がした。それでも、ここまで来たら、わだかまりをち切るために、最後まで言葉にしたかった。

「私の気持ちを、疑わないで」

 私と彗の関係は、私と彗が納得していたら、それでいい。だけど、身勝手な期待を寄せていると知っていても、友達には信じてほしかった。

「私の、彗に対する気持ちを、疑わないで」

 スマホから、すすり泣きが聞こえてきた。『ごめんね』と聞こえた涙声からは、渦巻きの雲間から射す一条の光が感じられて、私も肩の力をようやく抜けた。

『あたし、澪ちゃんにひどいことばっかり言ったのに、今だって、言わせたくないことを言わせたのに、ちょっと安心したんだ。やっと、誰かに怒ってもらえたって……こんな自分、あたしが一番、嫌いだった……大祐だいすけに見向きもされなくて、当然だよ……』

「私、巴菜ちゃんのことが好きだよ」

 三年生になった春に、新しい環境の心細さを吹き飛ばしてくれたのは、巴菜ちゃんだ。あのときに感じた嬉しさだって、私の本心だ。

「友達になってくれて、ありがとう」

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