3-15 芸術を殺す言葉

 ――『澪ちゃん! おはよう!』

 ――『こないだ友達に付き合って出掛けた個展、油絵の作者が澪ちゃんの彼氏さんと同じ名前だから、びっくりした! 大学に行きながら絵を描くなんて、すごいね!』

 ――『ねえねえ、彼氏さんとのめを教えてよ。……ダメかあ。あたしだけに教えて、お願い! ……やっぱりダメかあ。恥ずかしがらなくてもいいのに。じゃあ、どっちが先に告白したの? それだけでも聞かせて!』

 ――『ええ、それでいいんだ? 澪ちゃんは、不安じゃないの? ……そっかぁ。むしろ相思相愛っていうか、すごい惚気のろけを聞いちゃったかも?』

 一人で帰路きろにつく私の脳裏に、巴菜はなちゃんの無邪気で明るい声が、星影ほしかげみたいにまたたいている。夕空の低いところに輝く一番星を見上げながら、アトリエに続く坂道を重い足取りでのぼった私は、巴菜ちゃんと出会った桜の季節を振り返っていた。

 短期大学部から大学の文学部に編入したばかりの頃、私は教室で一人ぼっちになるのではないかと、少しだけ怯えていた。けれど、実際には私みたいに編入試験に合格した知り合いがたくさんいて、クラスメイトも優しくて気さくな人たちばかりだったから、思った以上に早く新しい生活に馴染なじむことができた。

 巴菜ちゃんも、そんなときに友達になれた一人だった。

 そんな巴菜ちゃんが、私と彗のことを、星加ほしかくんに全て話していた。

 けれど、そもそも私がいなければ、巴菜ちゃんは幼馴染おさななじみの星加くんへの恋心を、こんな形で私に明かさずに済んだのだ。たとえそうだとしても、巴菜ちゃんが望むように時間を巻き戻せない私には、これからせまり来る夜みたいに真っ黒な気持ちを振り切って、赤い屋根の平屋を目指すことしかできなかった。

 彗と会う約束は、していない。けれど、家に帰る前に顔を見たかった。それに、私は昨日の飲み会の一件で、彗に心配をかけている。今の私の顔を見せたら、もっと心配をかけるだけだと知っていても、彗と取り留めのない話をしたかった。

 だいだいに輝く街灯の下を通過して、せみさえも夜の静けさに備えているようなしじまに優しく包まれた街を歩き、見慣れたアトリエの前に到着すると、やっと人心地がついた気分になった。洋風扉の鍵を開けると、油絵具の慣れ親しんだ匂いが流れてくる。リビングに続く扉にまったステンドグラスの窓ガラスは、室内のあかりを虹色に染めて、薄紫色の闇に沈んだ木の廊下を照らしていた。

 私は、扉をそっと開けた。けれど、彗にただいまは言えなかった。

「彗……寝てるの?」

 星形のペンダントライトのそばにあるクッション張りの出窓で、彗は普段着にエプロンを身に着けた格好のまま、壁に備え付けの本棚に寄り掛かって目を閉じていた。私は小さく笑ってから、タオルケットも掛けずに寝ている彗に近づいた。

 ベッド代わりの出窓には、外国の街並みを撮影した写真集や、油彩画の巨匠きょしょうたちの作品と歴史をまとめた図録の他に、鉛筆やスケッチブック、植物図鑑まで散乱している。新しい仕事を進めるために、必要なものばかりなのだろう。タオルケットを彗に掛けてから、私もクッション張りの出窓に腰を下ろした。

 眠る前にきちんと窓は閉めていたようで、室内は冷房が効いていた。遠い夜風と、彗の寝息と、本当に暖を取る猫みたいな私の身じろぎだけが、世界の音の全てだった。午前四時のあの頃の澄み切った冬の空気の冷たさが、なんだか懐かしくて堪らなかった。かつての静謐せいひつさを思い出すうちに、私は次第に冷静さを取り戻した。

 私は、何をしているのだろう。彗が今日アリスの家に行けなかったのは、絵の仕事があるからだと聞いていたのに、自分の都合ばかり考えて、彗の都合を忘れていた。今の私にもできることがあるはずなのに、思考を停止させて逃げていた。

 ――帰ろう。そう決めて、立ち上がったときだった。

 心地良く流れる静寂を、インターホンのびついた音が切りいた。

 ――誰だろう。私は戸惑ったけれど、立ち上がった。今までも来客の対応をしてきたので、今回も画壇がだんの誰かが来たのだろうと判断した。

 彗は休んでいると伝えるだけだ。そう軽く捉えていた私は、どうして考えが及ばなかったのだろう。玄関扉を開けて、門の前に立つ小柄な人物を目撃する瞬間まで、その可能性に思い至らなかったなんて、本当にどうかしていた。

「ああ、モデルの君か。……そう化け物でも見たような顔をしなさんな」

 しゃがれた声には、からかうような含みがあった。かあっと頬が熱くなった私は、とにかく門の前まで急いで向かって、頭を深々と下げた。

秋口あきぐち先生……ご無沙汰しております」

 ――秋口柳生あきぐちりゅうせい。今日のバーベキューでアリスも名を挙げた人物は、見事な白髪の老人で、ダークブラウンのスーツに袖を通した体格は華奢なのに、傲然ごうぜんとした態度が身体を大きく見せている。ゴシップに事欠かない大胆で奇抜な生き方という、露悪的ろあくてき蠱惑的こわくてきな毒を絵筆に乗せて、キャンバスに唯一無二の闇を描き出してきた鬼才きさいの画家は、獰猛どうもうな光を宿した瞳で、私をじっと凝視ぎょうししてから、唇の端を吊り上げて笑った。

「あの……相沢あいざわは、今日はもう休ませていただいておりまして……」

「いや、相沢くんに用があるわけじゃないんだよ。先日ここに来たときに、ちょっと忘れ物をしてね」

 ――忘れ物? そんなことを、彗は言っていただろうか? でも、私が彗のアトリエを訪ねたのは数日前だ。その間に、秋口先生がここに来たのだろうか。詳細を伺おうとする私をよそに、秋口先生は意地悪な笑みを深めると、「ちょいと邪魔するよ」とさらりと言って、私の横を素通りして、玄関扉に向かっていった。

「えっ……? あのっ、彗は……待ってくださいっ」

「私の忘れ物は、何だったかなぁ。手帳だったか、万年筆だったか」

 鼻歌でも歌い出しそうな口ぶりで、秋口先生はスリッパを履いて、廊下を悠々と歩いていく。なすすべもなく追いすがる私は、焦りで空回りする思考を必死に働かせた。

 ――忘れ物なんて、嘘だ。でも、それなら秋口先生は、何のためにここへ来たのだろう? 彗に用があるわけではないという台詞せりふには、嘘は混じっていない気がする。

 秋口先生を追ってアトリエに入ると、威圧感のある痩躯そうくはすでに、クッション張りの出窓のそばにいた。師匠にあたる画家が同じ空間にいるというのに、彗はまだ目を覚まさない。のんきな寝顔に呆れと羨ましさを感じたとき、秋口先生が呟いた。

「こういう無邪気な寝顔を見ると、彼が天才だということを忘れそうになるな」

 星形のペンダントライトが照らした横顔は、孫を見守る祖父のような表情だったから、私は毒気どくけを抜かれてしまった。絵画に対する崇高すうこうな精神や、才能に執着する熱意がこごった態度しか、私は今までに目の当たりにしたことがなかった。そういえば、三度の離婚と四度の結婚をしている人だから、誰かを愛した歴史があって、私には想像もつかない家族の形を築いている。それに、彗だって画家としての秋口先生を尊敬しているから、こうして師事しているわけで、秋口柳生あきぐちりゅうせいが見せる一面しか、私は知らなかったのだ。あるいは、他にもさまざまな顔があることを、あえて見ないようにしていたのだろうか。

「ああ、忘れ物のことだが。これのことだったよ」

 秋口先生は、白々しい口調で言って、くるりと私を振り向いた。小脇に抱えた鞄から、おもむろに紙袋を取り出すと、私に向けて差し出してくる。

 受け取れということだろうか。そろりと近寄って紙袋を受け取ると、書店のロゴが目に入った。中身は、どうやら書籍のようだ。秋口先生に「開けたまえ」と尊大そんだいな態度で言われたので、指示通りに紙袋を開けて――息を呑んだ。

 思わず、視線を出窓の周辺に走らせた。サイドテーブル代わりの椅子の上には、今日も書籍がうずたかく積まれている。美術の本に、英語の参考書に、それから――どの本よりも何度も読み返された、開きぐせだらけでページがたわんだ一冊の本と、私の手の中にある真新しい本は、全く同じものだった。持ち主が注いだ情熱と努力が、いたみ方に大きく表れているという差異さいが、私の後ろめたさを白日のもとさらしていた。

「その辞典は、辞書としての用途だけでなく、会話表現や語彙ごいの補強にも役立つ良書だ。大学の第二外国語の講義と合わせれば、今よりも知識を高めていけるだろう」

「どうして秋口先生が、私に……参考書を、選んでくださるんですか? それに、私が大学で選択した、第二外国語のことも、どうして……」

 ――フランス語だと、知っているの? そんな疑問は、訊くまでもなかった。案の定、秋口先生は「相沢くんに相談されたからに決まっているじゃないか」と言ってのけた。

「私と相沢くんの手をわずらわせることを気にした君が、一人で外国語の勉強に取り組んでいて、ちっとも相談をしてくれないし、協力もさせてもらえない、とね」

 飄々ひょうひょうと話す秋口先生に対して、私はひどく青い顔をしていただろう。激しい眩暈めまいを覚えながら、『フーロン・デリ』のアルバイトのあとで、アトリエを訪ねて夕食を取った夜に、彗が眉をくもらせて告げた台詞せりふを思い出す。

 ――『分かった。澪がそう言うなら、僕も考えてみるよ。澪が、僕と秋口先生に気を使わないで、無理をしないで済むように』

 その『考え』が、まさか秋口先生本人に、直接相談することだなんて――いつだって彗の発想は突飛とっぴすぎて、私の理解を軽々と超えていく。秋口先生は、くつくつと笑った。

「君を援助する理由なら、いくつかある。努力の継続も才能であり、君の才能が本物か、見極めてみるのも一興いっきょうだと思ったからだ。しかし、まあ一番の理由は今のところ、やはり相沢くんのためだね」

「彗の……」

「相沢くんには、以前に私からモデルを用意したこともあったが、彼から強い申し出があってね。モデルは君が務めるから、他のモデルは要らないと言われたよ」

 二月のモデル事件にまで話が及び、私は新たな気まずさに襲われた。その後、確かに私は彗のモデルを務めてきた。けれど、彗の要望通りにポーズを取ったときよりも、キッチンで料理をしているときや、静かに本を読んでいるときに気づけば描かれていた絵のほうが、彗は出来上がりに満足していたような気がする。

「日々の営みに着目した絵も好ましいが、もっと大胆に冒険した絵も見てみたいものだがね。ともあれ、しっかり成果が出ているようだから、私としても異存はない。これからも、モデルとしての活躍を期待しているよ」

 秋口先生は、品定めをするような目で私を見た。やっぱり私は、この人が苦手だ。

「それに、君にモデルを続けてもらうには、外国語の勉強は必須になる。相沢くんという天才の能力をこれからも磨くために、私も一肌脱ごうというわけさ」

「え?」

「英語もいいが、フランス語も勉強しなさい」

 絶句した私の目を、秋口先生は真面目な顔で見つめ返した。さっきまで顔に貼りつけられていた笑みは、布巾ふきんぬぐい去ったように消えている。

「来年の春、相沢くんが留学する国は、フランスなのだから」

 ついに、他者から言われてしまった。諦念ていねんの波が足元に到達したことを実感しながら、私は思った。彗の留学先は――フランス。私だって、二月にミモザの木の下で、未明みめいの夜空を見上げたときに、彗から直々じきじきに聞いていた。それに、クロード・モネや印象派について語ってきた彗の憧れが、フランスに向いていることも分かっていた。

「知っています……でも、彗は、日本に戻ってきますよね?」

「芸術を愛し、守り、育んできた歴史を持つフランスに渡った彼は、今まで以上にフランスに魅了されるだろう。留学を終えたあとで、活動の拠点を海外に移す可能性は十分にあり得る。だから君は、未来に備えようとしているのだろう? いつか相沢くんが、日本ではなく海外を選んだときに、彼の選択を受け入れるために。……違うかね?」

 秋口先生の指摘は容赦ようしゃがなくて、私が誰にも打ち明けなかった備えを見逃さずに、言葉であやまたずに撃ち抜いていく。私が学んでいる『外国語』について、彗が相談を持ち掛けたのは『英語』で間違いないはずなのに、『フランス語』の教材を持ってきた秋口先生は、私の目標を見抜いているのだ。心がひりひりするほど痛いのに、一つだけ予想外なことがあった。

 秋口先生は、私の行動を笑わなかった。フランス語の習得を急ぐべきなのに、今は英語に力を入れている後ろ暗さを指摘しないで、真面目な眼差しもそのままだ。

「君たちが描く未来を、多くの者どもが笑うだろう。日本人の画家の青年と、青年が連れていく若いモデルの女が、異国で暮らしていけるわけがない。無茶だ、じきに努力に疲れ、貧困ひんこんあえぎ、きっと今にを上げる。夢を見るな、他の生き方を選べ、諦めろ、と。――芸術を殺す言葉だ。天才が天才であり続けようとする、才能の原石を死に物狂いで研磨けんまし続ける人間の、血がにじむような努力を想像できない、忌々いまいましいおろか者たちの戯言たわごとだ。そんな唾棄だきすべきものが、後世こうせいに残すべき芸術の炎を、無責任な振る舞いで吹き消すことが、私には到底とうてい許せない」

 淡々と告げられる言葉には、憎悪ぞうおすら感じる重さがあった。以前に見た秋口先生の絵の一つに、絢爛豪華けんらんごうかに咲き乱れる花々が、無惨むざん手折たおられた油彩画があったことを思い出す。ほんの数秒前には瑞々みずみずしい生命を感じ取れたはずのくきは折れて、誰かに無理やり俯かされた花の首は、あおい死の影に沈められて、二度と天を見上げることはない。あの絵を見たときに心を引っいた重苦しい感情の片鱗へんりんに、初めて手が届いた気がした。

 秋口柳生あきぐちりゅうせいの創作の根底には、きっと激しい怒りのほのお渦巻うずまいている。

「だが、君たちが生きようとしている場所で、語学の習得は必須だ。無知なままで生きていけるほど世界は甘くない点については、私も彼らと同感だからね」

 そこまで言い終えると、秋口先生の顔に笑みが戻った。いつも通りの人を食ったような笑い方に、ねぶるような眼差しも健在だ。秋口先生は、さっきの演説でたかぶった感情の残滓ざんしさえも感じさせずに、フランス語の辞典をかかえて茫然としている私の肩を、ぽんと軽く叩いてから、悠々と歩き去っていく。

「もちろん、君の未来は、君のものだ。それでも、未来のために学びを極める意思があるなら、私に連絡しなさい。独学よりは効率のいい上達を約束しようじゃないか」

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