3-15 芸術を殺す言葉
――『澪ちゃん! おはよう!』
――『こないだ友達に付き合って出掛けた個展、油絵の作者が澪ちゃんの彼氏さんと同じ名前だから、びっくりした! 大学に行きながら絵を描くなんて、すごいね!』
――『ねえねえ、彼氏さんとの
――『ええ、それでいいんだ? 澪ちゃんは、不安じゃないの? ……そっかぁ。むしろ相思相愛っていうか、すごい
一人で
短期大学部から大学の文学部に編入したばかりの頃、私は教室で一人ぼっちになるのではないかと、少しだけ怯えていた。けれど、実際には私みたいに編入試験に合格した知り合いがたくさんいて、クラスメイトも優しくて気さくな人たちばかりだったから、思った以上に早く新しい生活に
巴菜ちゃんも、そんなときに友達になれた一人だった。
そんな巴菜ちゃんが、私と彗のことを、
けれど、そもそも私がいなければ、巴菜ちゃんは
彗と会う約束は、していない。けれど、家に帰る前に顔を見たかった。それに、私は昨日の飲み会の一件で、彗に心配をかけている。今の私の顔を見せたら、もっと心配をかけるだけだと知っていても、彗と取り留めのない話をしたかった。
私は、扉をそっと開けた。けれど、彗にただいまは言えなかった。
「彗……寝てるの?」
星形のペンダントライトのそばにあるクッション張りの出窓で、彗は普段着にエプロンを身に着けた格好のまま、壁に備え付けの本棚に寄り掛かって目を閉じていた。私は小さく笑ってから、タオルケットも掛けずに寝ている彗に近づいた。
ベッド代わりの出窓には、外国の街並みを撮影した写真集や、油彩画の
眠る前にきちんと窓は閉めていたようで、室内は冷房が効いていた。遠い夜風と、彗の寝息と、本当に暖を取る猫みたいな私の身じろぎだけが、世界の音の全てだった。午前四時のあの頃の澄み切った冬の空気の冷たさが、なんだか懐かしくて堪らなかった。かつての
私は、何をしているのだろう。彗が今日アリスの家に行けなかったのは、絵の仕事があるからだと聞いていたのに、自分の都合ばかり考えて、彗の都合を忘れていた。今の私にもできることがあるはずなのに、思考を停止させて逃げていた。
――帰ろう。そう決めて、立ち上がったときだった。
心地良く流れる静寂を、インターホンの
――誰だろう。私は戸惑ったけれど、立ち上がった。今までも来客の対応をしてきたので、今回も
彗は休んでいると伝えるだけだ。そう軽く捉えていた私は、どうして考えが及ばなかったのだろう。玄関扉を開けて、門の前に立つ小柄な人物を目撃する瞬間まで、その可能性に思い至らなかったなんて、本当にどうかしていた。
「ああ、モデルの君か。……そう化け物でも見たような顔をしなさんな」
しゃがれた声には、からかうような含みがあった。かあっと頬が熱くなった私は、とにかく門の前まで急いで向かって、頭を深々と下げた。
「
――
「あの……
「いや、相沢くんに用があるわけじゃないんだよ。先日ここに来たときに、ちょっと忘れ物をしてね」
――忘れ物? そんなことを、彗は言っていただろうか? でも、私が彗のアトリエを訪ねたのは数日前だ。その間に、秋口先生がここに来たのだろうか。詳細を伺おうとする私をよそに、秋口先生は意地悪な笑みを深めると、「ちょいと邪魔するよ」とさらりと言って、私の横を素通りして、玄関扉に向かっていった。
「えっ……? あのっ、彗は……待ってくださいっ」
「私の忘れ物は、何だったかなぁ。手帳だったか、万年筆だったか」
鼻歌でも歌い出しそうな口ぶりで、秋口先生はスリッパを履いて、廊下を悠々と歩いていく。なすすべもなく追い
――忘れ物なんて、嘘だ。でも、それなら秋口先生は、何のためにここへ来たのだろう? 彗に用があるわけではないという
秋口先生を追ってアトリエに入ると、威圧感のある
「こういう無邪気な寝顔を見ると、彼が天才だということを忘れそうになるな」
星形のペンダントライトが照らした横顔は、孫を見守る祖父のような表情だったから、私は
「ああ、忘れ物のことだが。これのことだったよ」
秋口先生は、白々しい口調で言って、くるりと私を振り向いた。小脇に抱えた鞄から、おもむろに紙袋を取り出すと、私に向けて差し出してくる。
受け取れということだろうか。そろりと近寄って紙袋を受け取ると、書店のロゴが目に入った。中身は、どうやら書籍のようだ。秋口先生に「開けたまえ」と
思わず、視線を出窓の周辺に走らせた。サイドテーブル代わりの椅子の上には、今日も書籍が
「その辞典は、辞書としての用途だけでなく、会話表現や
「どうして秋口先生が、私に……参考書を、選んでくださるんですか? それに、私が大学で選択した、第二外国語のことも、どうして……」
――フランス語だと、知っているの? そんな疑問は、訊くまでもなかった。案の定、秋口先生は「相沢くんに相談されたからに決まっているじゃないか」と言ってのけた。
「私と相沢くんの手を
――『分かった。澪がそう言うなら、僕も考えてみるよ。澪が、僕と秋口先生に気を使わないで、無理をしないで済むように』
その『考え』が、まさか秋口先生本人に、直接相談することだなんて――いつだって彗の発想は
「君を援助する理由なら、いくつかある。努力の継続も才能であり、君の才能が本物か、見極めてみるのも
「彗の……」
「相沢くんには、以前に私からモデルを用意したこともあったが、彼から強い申し出があってね。モデルは君が務めるから、他のモデルは要らないと言われたよ」
二月のモデル事件にまで話が及び、私は新たな気まずさに襲われた。その後、確かに私は彗のモデルを務めてきた。けれど、彗の要望通りにポーズを取ったときよりも、キッチンで料理をしているときや、静かに本を読んでいるときに気づけば描かれていた絵のほうが、彗は出来上がりに満足していたような気がする。
「日々の営みに着目した絵も好ましいが、もっと大胆に冒険した絵も見てみたいものだがね。ともあれ、しっかり成果が出ているようだから、私としても異存はない。これからも、モデルとしての活躍を期待しているよ」
秋口先生は、品定めをするような目で私を見た。やっぱり私は、この人が苦手だ。
「それに、君にモデルを続けてもらうには、外国語の勉強は必須になる。相沢くんという天才の能力をこれからも磨くために、私も一肌脱ごうというわけさ」
「え?」
「英語もいいが、フランス語も勉強しなさい」
絶句した私の目を、秋口先生は真面目な顔で見つめ返した。さっきまで顔に貼りつけられていた笑みは、
「来年の春、相沢くんが留学する国は、フランスなのだから」
ついに、他者から言われてしまった。
「知っています……でも、彗は、日本に戻ってきますよね?」
「芸術を愛し、守り、育んできた歴史を持つフランスに渡った彼は、今まで以上にフランスに魅了されるだろう。留学を終えたあとで、活動の拠点を海外に移す可能性は十分にあり得る。だから君は、未来に備えようとしているのだろう? いつか相沢くんが、日本ではなく海外を選んだときに、彼の選択を受け入れるために。……違うかね?」
秋口先生の指摘は
秋口先生は、私の行動を笑わなかった。フランス語の習得を急ぐべきなのに、今は英語に力を入れている後ろ暗さを指摘しないで、真面目な眼差しもそのままだ。
「君たちが描く未来を、多くの者どもが笑うだろう。日本人の画家の青年と、青年が連れていく若いモデルの女が、異国で暮らしていけるわけがない。無茶だ、じきに努力に疲れ、
淡々と告げられる言葉には、
「だが、君たちが生きようとしている場所で、語学の習得は必須だ。無知なままで生きていけるほど世界は甘くない点については、私も彼らと同感だからね」
そこまで言い終えると、秋口先生の顔に笑みが戻った。いつも通りの人を食ったような笑い方に、
「もちろん、君の未来は、君のものだ。それでも、未来のために学びを極める意思があるなら、私に連絡しなさい。独学よりは効率のいい上達を約束しようじゃないか」
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