3-16 偽の友達
次の英会話教室のレッスンは、普段よりも早く切り上げることになった。いつもの個室で私の対面に座ったアリスは、幼い子どもみたいな
「今日は、あんまり集中できていなかったみたいね」
「すみません……」
私が肩を
「勉強にも
「どうして……」
訊ねかけた私は、ジーンズを履いた膝に視線を落とす。思えば、
「巴菜ちゃんのことも、悩んでいます。こないだ、いろいろあって……でも、それだけじゃないんです。アリス、時間は大丈夫ですか?」
「ええ。次の生徒のレッスンはまだ先だから。ミオのバイトはいいの?」
「はい。私も、今日はいつもより一時間遅いシフトなので」
私は
「なるほどね」
アリスは、話を聞き終えると頷いた。膨れっ面からレッスンのときの表情に戻ったけれど、返ってきた言葉は、土曜日に出会った翻訳家の
「フランス語を
当然の答えだ。だけど、二か国語を同時に学ぶことが、本当に可能なのだろうか。そんな私の不安を
「まず、英語とフランス語を同時に学ぶことは、可能よ。フランス語はラテン語の子孫だし、英語もラテン語起源の言葉をたくさん持っているから、この二つの言語には似ている言葉がたくさんあるわ」
アリスは席を立つと、ホワイトボードに向き合った。黒いマーカーのキャップを外して、英語とフランス語の単語を書き連ねていく。
「ただし、いくら言葉が似ているといっても、意味やニュアンス、それに発音が異なるものが少なくないわ。例えば、英語の『
アリスは、ホワイトボードのてっぺんに『
「『
「でも、今の勉強をただ続けるだけでは、海外で通用する会話力は……自分からもっと上達する努力をしないと、身につかないと思います。二か国語を話せるバイリンガルにだって、私はまだなれていないのに……三か国語のトリリンガルなんて」
バイリンガルは、二つの言語で話せる能力を持つ人のこと。そしてトリリンガルは――三つの言語で話せる能力を持つ人のこと。どれほどの時間をかけて努力すれば、外国語を自由自在に操れるようになるのだろう。想像するだけで気が遠くなった。
「ミオのフランス語の成績は、どんな感じ?」
「……普通です。悪くはないけど、良くもありません。フランス語で話しかけられたら、頭の中で文章を組み立てるのに精いっぱいで、受け答えはできないと思います」
「なるほどね」
アリスは再びそう言って、謎は全て解けたとでも言わんばかりに、笑みを深めた。
「今のミオは、『
「え?」
私が、『
「ミオ。あなたはハナと話すときに、日本語を頭の中で組み立ててから話しているわけではないでしょう?」
巴菜ちゃんの名前が
「でも、ミオはフランス語の会話には苦戦していて、英会話のような反射の感覚がまだ掴めていないのよね? その理由は、まだミオがフランス語を勉強中だから、ということに尽きるけれど、上達を妨げている原因なら、私は『発音』にあると思うの」
「発音、ですか?」
意外な指摘を受けた私は、復唱した。新しい着眼点を示したアリスは、ホワイトボードの『
「英語とフランス語を同時に学ぶ者にとって、二つの言語で『意味』と『発音』が異なる『
アリスに問われて、私は考える。言葉の
「そっか……英語で覚えた単語の発音とか、アルファベットの読み方が……同じ綴りのフランス語の単語……『
「そういうこと。フランス語で『本屋』を意味する『
「えっ、そうですか?」
「分かることが増えてくると、不安は薄れていくものよ。英会話でそれを実感してきたミオなら、分かるでしょう?」
「……アリス、ありがとうございます。おかげで、少し楽になりました。フランス語から逃げてきたみたいで、苦しかったから……」
「焦ることはないじゃない。学ぶことにタイムリミットはないんだから」
「でも……」
次の二月にアトリエのミモザが咲き誇り、私が大学四年生になる春が来れば――彗は、フランスに
そんなふうに考えたとき、学習の期間を在学中に限定していた自分に気づかされた。焦りが可視化された実感を得られたとき、「ねえ、ミオ」とアリスが言った。
「私はね、ミオが英語の勉強に力を入れてきたのは、フランス語から逃げていたからではないと思うの」
「アリス……」
「今までに、いろいろな生徒を見てきたもの。外国語を使ったコミュニケーションスキルを、わざわざお金を払って身につけようとしている人は、仕事で外国語を使うとか、転勤や転校で必要に迫られて教室に通う人が多いの。あとは、純粋に外国語を学ぶことが好きだから、という人たちね。私にとっては、ミオも間違いなくそんな一人で、英語を極めることでフランス語から逃げる
外国語を学ぶことが、好きだから。――そうだった。彗と出逢った夜明け前に、私は言葉が持つさまざまな色彩や思いに
「ここからは、英会話教室のアリス・ベネットとしての言葉ではなくて、あなたの友人の
「そんなふうに、自分に甘く考えてもいいんでしょうか」
まだ自信が足りなくて小声で訊ねると、アリスは爽やかに笑って「いいのよ! あなたは自分に厳しすぎるわ!」と言ってくれた。
「ミオの焦りと後ろめたさは、あなたが言うなら本物なんでしょうね。でも、英語を学び始めたときの純粋な気持ちだって、絶対に本物よ。あなたを見てきた私が保証するわ。それでも不安になって、あなたの『現在』の感情が、『過去』の行動の理由を、焦りと後ろめたさで上書きしそうになったときは――初心に帰って、楽しい気持ちと向き合ってみて。きっと『
アリスは花のように微笑むと、ふと思い出した様子で「話は戻るけど、ハナのことも悩んでいたのよね?」と訊いてくれた。私は唇を開いたけれど、壁掛け時計が視界に入り、タイムアップを悟った。私の視線を追ったアリスも、次のレッスンが迫っているのだろう。肩を
「今日はここまでみたいね。またいつでも相談してね」
「アリス。最後に一つだけ。アリスも、フランス語に詳しいですよね。フランス語に興味を持つようになったきっかけを、今度聞かせてくれますか?」
青色の目を細めたアリスは、心から楽しそうに「うふふ」と笑った。そして「お安い御用よ。いま聞かせてあげるわ」と続けると、学習の
「愛している人が、愛している国の言葉だもの。ヤスヒコが見ている景色を、私も一緒に見てみたかったからよ」
旦那さんを想うアリスの顔は、バーベキューの日の
この答えは、私の心の中にもあったはずだ。にもかかわらず、自力では見つけられなかったことが悔しくて、まだまだ学び足りないのだと思い知った。
「本当に、ありがとうございました。アリスと話せてよかったです」
頭を下げてから、アリスに見送られて個室を出た。廊下に出て扉を閉める
初心のようにまっさらな光景を目に焼きつけた私は、
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