3-8 黄色と青色

 アトリエに着いた私が、リュックから鍵を取り出そうとしていると、勢いよく玄関扉が開いたからびっくりした。出迎えてくれた家主の名を、私は上ずった声で呼んだ。

「彗?」

「……よかった。澪が遅かったから、迎えに行こうと思ったところだったんだ」

 彗は、ホッとした顔をしていた。驚いた私が腕時計を見ると、確かにいつもより到着が二十分ほど遅かった。星加ほしかくんが『フーロン・デリ』に来たときに、絢女あやめ先輩と話し込んでいたからだ。最近の私は、周囲の人たちに心配をかけてばかりいる。

「ごめんね。絢女あやめ先輩と話してた。遅くなったのに、連絡も忘れてた……」

 普段よりもアトリエに着くのが遅れたことも、スマホで彗に連絡を入れることも、完全に意識から逸れていた。しゅんと落ち込む私を、彗は家の中にいざなった。

「謝らないで。何もなくてよかった」

 ――何もなくて、よかった。その言葉を、私は噛みしめる。彗の言う通り、何もなかった。気持ちを乱すようなことは、何も。庭に出るときのサンダルを脱いだ彗は、スニーカーを履いたままの私を上がりかまちから見下ろして、困ったように微笑んだ。

「どうしたの?」

 午前四時の迷子だった頃の名残のような優しさが、私を少しだけ素直にした。自分でも驚くくらいに安心して「ちょっとだけ、今日は疲れちゃったみたい」と本音をこぼすと、骨ばった左手が頭をでてくれた。

「やっと、澪が正直になってくれた」

「私、前から嘘なんてついてないよ」

「知ってるよ。おかえり」

「ただいま。遅い時間まで、待っててくれてありがとう」

「うん。支度したくは僕がするから」

 私はおとなしく彗に『フーロン・デリ』の包みを渡すと、うるしのようなつやを照り返す廊下を進み、青とだいだいのモロッカンタイルが敷き詰められた洗面所で手を洗った。

 そのとき、鏡の前に飾られた透明な花瓶が、私の視線を繋ぎ止めた。クリーム色の数本の花は、たくさんの花びらが寄り集まって咲いていて、ポップコーンの一粒みたいに丸っこくて、ミモザの花に雰囲気が似ている。

「ヒメヒマワリだよ。絵を画廊がろうに納品したときに、いただいたんだ」

 近くから声が聞こえて振り向くと、絵具まみれのエプロンから料理をするとき用のエプロンに替えた彗がいた。悪戯いたずらっぽい笑みを浮かべて、フィンセント・ファン・ゴッホの名画『ひまわり』を小さくしたような花瓶を見つめている。

「僕も知らなかった花で、雰囲気がミモザに似ていて気になったから、調べたんだ。欧米では『ヴァニラ・アイス』という淡黄色たんこうしょくの品種が有名で、暑さに弱いから日本ではあまり栽培されていないんだって。オレンジやピンクの品種もあるよ」

「ヒマワリなのに、ピンクもあるんだ」

 既視感を覚えた私は、目を細めた。高校生だった頃の二月にも、彗はこんなふうに花の知識を分けてくれた。彗が授けてくれたものが、今の私のいしずえになっている。あの時間がなかったら、言葉に対する興味を海外にまで拡げた私は、このアトリエにはいなかった。彗も遠い目をしていたから、過去を懐かしんでいるのだろう。

「澪に見せたかったから、今日来てくれてよかったよ」

「うん。嬉しい。本当に、ゴッホの『ひまわり』みたい。……ゴッホの作品の中には、彗にとって印象的な油彩画はある?」

 私は、さぐりを入れてみた。彗の『一番好きな絵』を、私は今もまだ知らない。私の狙いをんだ彗は、ふわっと笑ってヒントをくれた。

「ゴッホの絵なら、やっぱり『ひまわり』が気に入っているかな。同じ画題がだいの油彩画で、ヒマワリを花瓶にした構図のものは、七点の作品が確認されているよ。うち一点は、戦争で焼失してしまったから、現存するものは六点だね。ヒマワリを花瓶に挿していない構図のものを含めたら、十一点か十二点あるとも言われているよ」

「その話、聞き覚えがあるかも。中学か、高校の授業で習った気がする」

「確かに、ゴッホについては学校でもじっくり教えてもらったね。『ひまわり』を始めとしたゴッホの絵の鑑賞かんしょうは、補色ほしょくについて学びやすいからかな」

補色ほしょく……色相環しきそうかんの話だっけ?」

「そうだよ。補色と色相環についても、おさらいしておこうか。色相環は、赤、橙、黄、緑、青、紫といった色相しきそうを、環状かんじょうに繋げて配置したもので、この色相環で正反対に位置する色の組み合わせが、補色ほしょくだね。補色には、互いの色を引き立たせる効果があって、黄色の補色は青なんだ。『ひまわり』の絵のいくつかは、花の黄色に対して背景が青く塗られているし、南フランスのアルルの風景を描いた『夜のカフェテラス』にも、黄色と青色が使われているよ。明るいカフェテラスと星空の油彩画で、夜空の青色を映した石畳いしだたみは、カフェの黄色いあかりを反射していて、どこまでも黄色と青色にいろどられた作品だよ」

「すごい。教科書で見たときは、石畳まで気にしてなかったかも」

「あとは、有名な油彩画の『星月夜ほしづきよ』も好きだけど……この気持ちは、好きというより、怖い、かな。僕は、ゴッホの絵が怖いんだと思う」

「怖い?」

 意外な言葉を受けた私は、覚えている限りのゴッホの人生を振り返る。確か、アトリエで同居していた画家・ゴーギャンとの関係に亀裂きれつが入り、のちに片耳を切り落としたこと。幻覚に悩まされながら、絵画を生み出し続けたこと。それから――最期さいごは。

「ああ、ゴッホの人生は波乱万丈はらんばんじょうで、身体に銃弾を受けるという最期を迎えたけれど、僕が彼の絵を怖いと感じるのは、彼の経歴が理由じゃないんだ」

 彗は、私の考えを読み取ったのだろう。落ち着いた声音で、話を続けた。

「正直な感情表現と、大胆で激しい色彩表現で知られるゴッホは、現在は有名な画家としての地位を確立したけれど、画家として活動して亡くなるまでの約十年間で売れた油彩画は、アルルで農作業に勤しむ人々を描いた『赤い葡萄畑ぶどうばたけ』一枚だけだと言われているんだ。ゴッホの絵の価値が高騰こうとうして、値打ちが認められるようになったのは、彼の没後ぼつごなんだよ」

 没後――画家としての才能を、生前に認められなかったのだ。他人事ではない重みを受け止めていると、儚げに微笑わらった彗は、ヒメヒマワリの花を見下ろした。

「そんな画家は、たくさんいる。分かっていても、寂しい話だね。『星月夜ほしづきよ』は、黒い枝葉を天に伸ばした糸杉いとすぎと、夜の街並みの油彩画だよ。青い夜空には、星と三日月が黄色く光っているけれど、輝きのあわいを流れる雲は、S字状にうずを巻いているんだ。黄色と青色がかたどる夜景と、夜空の中央でひずんだ雲には、見る者の精神を揺さぶるような、強い感情が塗り込められている気がして――心の中の小さな怒りや不安を引き出されるような、魔性の魅力を持った絵だと、僕は思う」

 語り終えた彗は、我に返った顔をした。少し申し訳なさそうに「ごめん。暗い話になったね。『星月夜』が怖くなった?」と訊いてくる。

「少し。でも、やっぱり怖くない」

 かぶりを振った私は、笑みを返した。彗の『星月夜』に対する『印象』を聞けて、嬉しかったから。――それに。

「彗に、そんなふうに思わせる油彩画って、すごいなって思ったから」

 私の返事を聞いた彗も、笑ってくれた。ヒメヒマワリの花瓶に背を向けて、二人で一緒に廊下に出ると、ふんわりとコンソメの匂いがした。

「スープを作ってくれたの?」

「澪ほど上手には作れないけどね」

 彗は謙遜けんそんしたけれど、ペンダントライトが明るい光を振りまくアトリエで、定位置の二人掛けソファに座って一口飲んだチキンスープは、バターと鶏肉とりにく旨味うまみ濃縮のうしゅくされて、二月よりも味わいの深みが増していた。隣で激辛麻婆豆腐をスプーンですくっている彗に、「そうだ、彗」と私は声を掛けた。

「今週の土曜日に、アリスの自宅にお呼ばれするの。庭でバーベキューをするんだって。彗もよかったら来てって言ってくれたんだけど、どう?」

「土曜か。せっかく誘ってくださったのに申し訳ないけど、今回は遠慮しておくよ」

「忙しい?」

「うん。新しい絵の依頼が入ったんだ。こないだの個展で絵を気に入ってくれた個人の方から。納期にはかなり余裕があるけど、新居の玄関に飾りたいって言われたことが嬉しかったし、できるだけ早く取り組みたいんだ」

「……そっか。彗にお願いしたお客さんも、楽しみにしてると思う」

 彗が来られないのは残念だけれど、画家の目をしている彗の横顔を見ていると、なんだか私まで絵を依頼したお客さんみたいに、完成が待ち遠しい気分になった。彗は、薄く笑って「僕もいつかアリスさんに会ってみたいから、次回があればまた声を掛けてくれる?」と言ったから、私は「うん」と力強く答えた。

「澪。アリスさんの家に招待されたのは、澪だけ?」

「ううん、巴菜はなちゃんも一緒。アリスも巴菜ちゃんも、人付き合いには慣れてるし、二人ともすごく明るいから、すぐに打ち解けると思う……」

 巴菜ちゃんの名前を挙げたことで、私は一つの可能性に初めて気づいた。

 ――星加ほしかくんは、私に彗という存在がいることを知らない?

 笑顔がまぶしい巴菜ちゃんは、授業中に注意されるくらいにお喋りが大好きで、星加ほしかくんに私の話をたくさん聞かせているようだった。だから私も当然のように、彗のことも巴菜ちゃんから伝わっているのだと、根拠もなく思い込んでいた。

 やっぱり自意識過剰だと怖がらないで、きちんと伝えたほうがいいのだろうか。だけど、この悩みは絢女あやめ先輩の憶測がたんはっしているのだ。食事の手が止まった私を、「澪?」と彗が不思議そうに呼んだ。はっとした私は、笑顔を取りつくろった。

「ねえ、激辛麻婆豆腐、一口もらっていい?」

「いいよ。澪には辛いと思うけど、どうぞ」

「……美味しい。でも、やっぱりすごく辛い」

 それでも、彗が好きな味を共有できた嬉しさが、スパイスの熱さを和らげてくれた。香辛料の刺激でぴりぴりと痛んだ舌を、滋味深じみぶかいスープの優しさでいやしていると、坂道に転がしたオレンジみたいな悩みから、今だけは距離を置ける気がした。

 ――こんな毎日が、ずっと続けばいいのに。いつかのように、けれどあの頃よりも満ち足りた気持ちで、そう思った。

「澪。今日は泊まれる?」

 食事を終えて、キッチンの洗い物も一段落すると、彗がおもむろに訊いてきた。アトリエで唐突に声を掛けられても、もう心臓が跳ねることはなくなったと思っていたけれど、その認識はあやまりだった。キッチンの飾り窓からミモザのこずえを眺めていた私は、隣で食器を片付けている彗を見上げた。

「うん、泊まれるけど……大丈夫? 忙しいんじゃない?」

「それを言い出すと、三百六十五日いつも忙しいことになるから、澪が永遠に泊まりに来なくなる」

「彗って、やっぱり変な人だと思う」

「もう言われ慣れたから、それが僕の普通だよ」

 エプロンを外した彗の腕が、胸板に私の頭を引き寄せた。温もりを伝える腕は動きが硬くて、玄関で私の頭を撫でた左手ではなく、今も病院で定期的に経過を観察中の右腕だ。いつもより強く抱きしめられたことが気になるけれど、油絵具の甘い匂いに包まれると、星加くんとの別れ際に感じた痛みが消えたから、今度こそ心から安心できた。

「ねえ、彗」

「ん?」

「……なんでもない」

 私は、彗が好き。そうささやいたら、彗はどんな顔をしただろう。絢女先輩には呆れられても、私は幸せだと胸を張って言えるなら、それでいいと今は思えた。

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