3-9 確かめたいこと
水曜日の二限目の講義を終えたあとは、
ただし、一人ではなかった。巴菜ちゃんと元気に言い争いをしている男の子を見た私は、思わず足を止めた。二人の声が、離れた私の所まで聞こえてくる。
「お前な、いい加減に酔っ払いの客に言い返すのはやめろよな! 危ないだろ!」
「あたしだって、好きで喧嘩してるわけじゃないもん! やらしい言葉をぶつけてくるほうが悪いんですー」
「あのな、いつか痛い目を見るからな? もう絶対にやめろよ。人を呼んで対処しろよ。いいな?」
「はーい。あたしのこと、心配してくれたんだ?」
「ガキのお
「何よ、そんな嫌味を言うために、あたしをわざわざ呼び止めたわけぇ?」
「……なあ、巴菜。これから、時間あるか?」
「どうしたの? 急に改まっちゃって」
「ちょっと、相談したいっていうか……巴菜に、話しておきたいことがあるんだ」
「やだ、なんで真面目な顔になるの? 似合わないよ、
「茶化すなよ。……真面目なんだから」
巴菜ちゃんの笑顔が、少し揺らいだ。けれど、それは一瞬だけだ。太陽みたいな明るさを取り戻して、軽い口調で答えている。
「分かった。でも、これから澪ちゃんと学食に行くんだ。
「いや。それなら、また今度にする。悪かったな」
「何それ? 今日の
「別に、いつも通りだし。じゃあな」
トパーズ色の髪の男の子は、講堂の雑踏に紛れて見えなくなった。一人残された巴菜ちゃんは、怪訝そうな顔をしていたけれど、立ち尽くしていた私に気づき、
どうしよう――見てはいけないものを見た気がして、私は「巴菜ちゃん、お待たせ」と言って手を振ると、何も聞かなかったふりをした。そうするべきだと、自分に強く言い聞かせた。
「ううん、あたしもさっき着いたところ。教職課程の講義、疲れたぁ」
「お疲れさま。教育実習先は、もう決まってるの?」
「うん。来年、母校に行くよ。打ち合わせを始めた二年生のときは、準備するの早いよーって思ってたけど、来年なんてすぐだろうなぁ。あっ、澪ちゃんは第二外国語の講義だよね? おつかれー」
「うん……ありがとう」
不意打ちの
「巴菜ちゃん。……もしかして、今日は忙しかった?」
「え? どうしたの、急に」
「ううん、なんでもないんだけど……巴菜ちゃんも、教職のことで忙しいし、毎週の待ち合わせで無理をさせてないかな、って心配で」
「やだあ、そんなこと言わないでよ。澪ちゃんと学食に行く時間を、あたしは毎週楽しみにしてるのにー」
巴菜ちゃんは、大げさな悲しみの顔を作っている。巴菜ちゃんがそう言うなら、落ち着かない気持ちは残るけれど、今は
「ごめんね、変なことを言って。巴菜ちゃん、今週の土曜日は空いてる? 英会話教室のアリスから、バーベキューに誘われて、巴菜ちゃんもぜひって言ってくれたの」
「えっ、ほんとに? あたしも行っていいの? 行く!」
瞳を輝かせた巴菜ちゃんを見て、私はホッとした。新婚のアリスの旦那さんとも初めて会うので、知り合いが一緒のほうが心強い。巴菜ちゃんの
「巴菜ちゃんが来てくれたら、私も嬉しい。待ち合わせ場所と時間も、お昼ごはんを食べながら決めようか」
それに、他にも――巴菜ちゃんには、確かめたいことがある。
「あたし、行かなきゃ。用事ができちゃった」
「用事? うん、私のことは気にしないでね」
「ありがとう、ドタキャンで本当にごめん。実は、
大祐――
「大祐、あたしに相談したいことがあるんだって。今日の放課後に話を聞いてほしいって連絡が来たけど、本当は、今すぐ聞いてほしいんだと思う。あたしが大祐に話を聞いてほしくて呼び出すことは、幼い頃からたくさんあったけど、逆は全然なかったんだ。だから、あいつに何か悩みがあるなら、あたしが聞いてあげなくちゃ」
「星加くんに、悩み……?」
「うん。実は、さっき大祐に会ったんだ。そのときに話してくれたらよかったのに、あたしが澪ちゃんと約束してるって言ったから、遠慮しちゃったのかなぁ」
なぜか心がざわついたとき、背後から落ち着いたアルトの声で「澪ちゃん?」と呼ばれたから驚いた。振り向いた私は、スーツ姿の美女と見つめ合う。
「
「就活の面接がこの近くだったから、寄ってみたの。もしかしたら澪ちゃんに会えるかもと思っていたら、本当に会えたから驚いたわ」
いつもは鎖骨に垂らしている黒髪を一つに結った絢女先輩は、
「こんにちは! あたし、澪ちゃんの友達の
「こんにちは。
「いえいえ。わー、こないだも思いましたけど、ほんとにすごく美人さん!」
ミーハーなはしゃぎ方をする巴菜ちゃんに、絢女先輩は優雅に微笑みかけた。そんな所作もエレガントで、私とは一歳しか違わないはずなのに、さまざまな人と関わりを持つことで生まれる余裕が感じられた。巴菜ちゃんはハッとした顔で「いけない、あたしもう行かなきゃ!」と名残惜しそうに言って、券売機の列から離れた。
「澪ちゃん、土曜日のことはあとで決めようね!」
「うん、連絡するね」
巴菜ちゃんは私に手を振ると、絢女先輩には頭を下げて、元気よく学食を出ていった。地上に繋がる階段を駆け上がっていく後ろ姿を見送ると、絢女先輩は私に向き直った。
「楽しそうに走っていったわね。あの子とランチの予定だったんじゃないの?」
「はい。でも、巴菜ちゃんは用事ができたんです。昨日『フーロン・デリ』に来てくれた
――巴菜ちゃんは、星加くんに、
「私、安心しました。星加くんが悩みを
「……そうね」
それだけを呟いた絢女先輩の顔は、思いのほか真面目で表情がなかった。どきりとした私の視線に気づくと、絢女先輩はなぜか
「本当に、そうだといいわね」
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