3-9 確かめたいこと

 水曜日の二限目の講義を終えたあとは、巴菜はなちゃんと昼食を取るのが慣例だ。待ち合わせ場所の講堂に着くと、巴菜はなちゃんはもう地下に続く階段のそばにいた。袖が短めのトップスに紺色のジャンパースカートが、可愛くまとめられたお団子だんご頭に似合っている。

 ただし、一人ではなかった。巴菜ちゃんと元気に言い争いをしている男の子を見た私は、思わず足を止めた。二人の声が、離れた私の所まで聞こえてくる。

「お前な、いい加減に酔っ払いの客に言い返すのはやめろよな! 危ないだろ!」

「あたしだって、好きで喧嘩してるわけじゃないもん! やらしい言葉をぶつけてくるほうが悪いんですー」

「あのな、いつか痛い目を見るからな? もう絶対にやめろよ。人を呼んで対処しろよ。いいな?」

「はーい。あたしのこと、心配してくれたんだ?」

「ガキのおりに手を焼いてる気分のことを、心配って言うんだな」

「何よ、そんな嫌味を言うために、あたしをわざわざ呼び止めたわけぇ?」

「……なあ、巴菜。これから、時間あるか?」

「どうしたの? 急に改まっちゃって」

「ちょっと、相談したいっていうか……巴菜に、話しておきたいことがあるんだ」

「やだ、なんで真面目な顔になるの? 似合わないよ、大祐だいすけ

「茶化すなよ。……真面目なんだから」

 巴菜ちゃんの笑顔が、少し揺らいだ。けれど、それは一瞬だけだ。太陽みたいな明るさを取り戻して、軽い口調で答えている。

「分かった。でも、これから澪ちゃんと学食に行くんだ。大祐だいすけも来る?」

「いや。それなら、また今度にする。悪かったな」

「何それ? 今日の大祐だいすけ、なんか変」

「別に、いつも通りだし。じゃあな」

 トパーズ色の髪の男の子は、講堂の雑踏に紛れて見えなくなった。一人残された巴菜ちゃんは、怪訝そうな顔をしていたけれど、立ち尽くしていた私に気づき、はなやいだ表情で「澪ちゃーん」と呼んでくれた。

 どうしよう――見てはいけないものを見た気がして、私は「巴菜ちゃん、お待たせ」と言って手を振ると、何も聞かなかったふりをした。そうするべきだと、自分に強く言い聞かせた。

「ううん、あたしもさっき着いたところ。教職課程の講義、疲れたぁ」

「お疲れさま。教育実習先は、もう決まってるの?」

「うん。来年、母校に行くよ。打ち合わせを始めた二年生のときは、準備するの早いよーって思ってたけど、来年なんてすぐだろうなぁ。あっ、澪ちゃんは第二外国語の講義だよね? おつかれー」

「うん……ありがとう」

 不意打ちのねぎらいが、リュックに入れた小さな辞典の重みを意識させた。講堂の窓ガラスに映る私の顔も、ほんの少し強張っている。そんな表情さえ見なければ、白いブラウスにサロペットスカート姿の私は、どこにでもいる平凡な大学生に過ぎないはずだ。地下の学食に向かった私は、話題を変えた。

「巴菜ちゃん。……もしかして、今日は忙しかった?」

「え? どうしたの、急に」

「ううん、なんでもないんだけど……巴菜ちゃんも、教職のことで忙しいし、毎週の待ち合わせで無理をさせてないかな、って心配で」

「やだあ、そんなこと言わないでよ。澪ちゃんと学食に行く時間を、あたしは毎週楽しみにしてるのにー」

 巴菜ちゃんは、大げさな悲しみの顔を作っている。巴菜ちゃんがそう言うなら、落ち着かない気持ちは残るけれど、今は幼馴染おさななじみの男の子に気兼きがねしないことにした。

「ごめんね、変なことを言って。巴菜ちゃん、今週の土曜日は空いてる? 英会話教室のアリスから、バーベキューに誘われて、巴菜ちゃんもぜひって言ってくれたの」

「えっ、ほんとに? あたしも行っていいの? 行く!」

 瞳を輝かせた巴菜ちゃんを見て、私はホッとした。新婚のアリスの旦那さんとも初めて会うので、知り合いが一緒のほうが心強い。巴菜ちゃんの快諾かいだくは有難かった。

「巴菜ちゃんが来てくれたら、私も嬉しい。待ち合わせ場所と時間も、お昼ごはんを食べながら決めようか」

 それに、他にも――巴菜ちゃんには、確かめたいことがある。ひそかに緊張しながら学食に入り、券売機の列に並んだときだった。巴菜ちゃんは、バッグからスマホを取り出すと、画面を見つめてから息を吐き、「ごめん、澪ちゃん!」と謝ってきた。

「あたし、行かなきゃ。用事ができちゃった」

「用事? うん、私のことは気にしないでね」

「ありがとう、ドタキャンで本当にごめん。実は、大祐だいすけから呼び出されちゃって」

 大祐――星加ほしかくん。静かに息を詰めた私に気づかずに、巴菜ちゃんは照れ笑いの顔になって、スマホの画面を見下ろしている。

「大祐、あたしに相談したいことがあるんだって。今日の放課後に話を聞いてほしいって連絡が来たけど、本当は、今すぐ聞いてほしいんだと思う。あたしが大祐に話を聞いてほしくて呼び出すことは、幼い頃からたくさんあったけど、逆は全然なかったんだ。だから、あいつに何か悩みがあるなら、あたしが聞いてあげなくちゃ」

「星加くんに、悩み……?」

「うん。実は、さっき大祐に会ったんだ。そのときに話してくれたらよかったのに、あたしが澪ちゃんと約束してるって言ったから、遠慮しちゃったのかなぁ」

 なぜか心がざわついたとき、背後から落ち着いたアルトの声で「澪ちゃん?」と呼ばれたから驚いた。振り向いた私は、スーツ姿の美女と見つめ合う。

絢女あやめ先輩? どうしてここに?」

「就活の面接がこの近くだったから、寄ってみたの。もしかしたら澪ちゃんに会えるかもと思っていたら、本当に会えたから驚いたわ」

 いつもは鎖骨に垂らしている黒髪を一つに結った絢女先輩は、すきのないメイクが施された美貌びぼうを巴菜ちゃんに向けた。巴菜ちゃんはどぎまぎした様子で会釈えしゃくして、すぐに『フーロン・デリ』の店員だと気づいたらしい。「ああ!」と驚きの声を上げてから、笑みの質をやわらげて挨拶した。

「こんにちは! あたし、澪ちゃんの友達の西村にしむら巴菜です。こないだのお惣菜そうざい、とっても美味おいしかったです!」

「こんにちは。速水はやみ絢女です。先日はお店に来てくれてありがとう。そう言ってもらえると、店長も喜ぶわ」

「いえいえ。わー、こないだも思いましたけど、ほんとにすごく美人さん!」

 ミーハーなはしゃぎ方をする巴菜ちゃんに、絢女先輩は優雅に微笑みかけた。そんな所作もエレガントで、私とは一歳しか違わないはずなのに、さまざまな人と関わりを持つことで生まれる余裕が感じられた。巴菜ちゃんはハッとした顔で「いけない、あたしもう行かなきゃ!」と名残惜しそうに言って、券売機の列から離れた。

「澪ちゃん、土曜日のことはあとで決めようね!」

「うん、連絡するね」

 巴菜ちゃんは私に手を振ると、絢女先輩には頭を下げて、元気よく学食を出ていった。地上に繋がる階段を駆け上がっていく後ろ姿を見送ると、絢女先輩は私に向き直った。

「楽しそうに走っていったわね。あの子とランチの予定だったんじゃないの?」

「はい。でも、巴菜ちゃんは用事ができたんです。昨日『フーロン・デリ』に来てくれた星加ほしかくんが……巴菜ちゃんに、相談したいことがあるみたいで」

 ――巴菜ちゃんは、星加くんに、相沢あいざわ彗の話をしたのだろうか。意気込んでいたのに、訊きそびれてしまった。次に巴菜ちゃんと顔を合わせるのは、バーベキューの当日だ。しばらく真相を確かめられないけれど、今はまだ謎のままにできて安堵あんどしている自分もいて、私は小さな声で言った。

「私、安心しました。星加くんが悩みをかかえたときに、誰よりも頼りたい女の子は、やっぱり幼馴染おさななじみの巴菜ちゃんです。巴菜ちゃんも、頼られて嬉しそうでしたし……今から二人で、じっくり話せていたらいいな」

「……そうね」

 それだけを呟いた絢女先輩の顔は、思いのほか真面目で表情がなかった。どきりとした私の視線に気づくと、絢女先輩はなぜかはかなげな笑みを作った。

「本当に、そうだといいわね」

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