3-4 幸せな一日

 大学と英会話でくたくたに疲れていたはずなのに、駅からほど近い自然公園のそばにある平屋の『フーロン・デリ』の更衣室で、白いブラウスと黒いパンツスタイルに着替えるだけで、すっと意識が切り替わった。長い髪をポニーテールにまとめて三角巾をつけてから、私はロッカーの鏡に映った自分と見つめ合う。

 青磁せいじ色のエプロン姿の私は、今は中華料理専門のお惣菜そうざい屋の店員で、さっきは英会話教室に通う学生で、その前は文学部の大学三年生で、そして今朝は、似た者同士の存在と、電話でささやかな言の葉を交わし合う、ありきたりな一人の女だった。私は、何者なのだろう。そんなふうに自問自答した冬の日々が、遠い昔のように感じられた。

 扉の向こうから「倉田くらたさん、早速で悪いけど、ヘルプお願いできる?」と店長の声が聞こえたので、「はい」と応じた私は、ロッカーを閉めた。さまざまな顔を持つ私を映した鏡が、ロッカーの暗闇に閉じ込められる。明るい店内に続く扉を開けると、小さな空間に満ちる活気と、胡麻油の香ばしさが、私に疲労を忘れさせた。

 若鶏わかどりの唐揚げが売り切れて、餃子ぎょうざ麻婆マーボー豆腐と続けてブースがからになり、定番の人気商品の炒飯チャーハンがあとわずかになった頃、退勤の二十一時になっていた。店長に炒飯の残りと試作の青椒肉絲チンジャオロースー、それから杏仁豆腐をおまけで二つ頂いてから『フーロン・デリ』を出た私は、はすの花のロゴをあしらったレジ袋をげて、紺青こんじょうの空の下で電灯がまばらに灯る坂道を、心持ち早足で歩いた。

 ちょっとした迷路か、誰かの夢の中の秘密基地みたいな街並みは、街路樹が枝葉を大きく伸ばしていて、真冬よりも逞しさを増した真夏の顔を見せている。世界が夜に包まれても、蝉がまだどこかのこずえで鳴いていた。古びたアパートと商店街のそばを通過して、街灯が作るワンピースの影を見ていた私は、足を止めて振り返った。

 巨大な滑り台のような坂道を下った先に、三日月をゆらゆらと映した海が拡がっている。光のネックレスを幾重いくえにもかけたこの街の夜を、ひっそりと眺める時間が、私はやっぱり好きだ。あの頃から日常が変わっても、変わらないものもここにある。

 少しだけ心を弾ませて歩き出すと、やがて家々の間隔が開いた区画にたどり着いた。古めかしいすみ色の街灯が、今日も舗道にだいだいの光を投げかけている。重たいリュックを背負い直した私は、赤い屋根の平屋に近づいた。

 小さな木製看板のプレートには、手書きで『相沢あいざわ』と記した表札が留められている。壊れていたインターホンの修理は済んだけれど、私は煉瓦の飛び石に沿って洋風扉へ進んだ。ポケットから取り出した鍵で中に入ると、ふわっとお馴染みの油絵具の匂いが漂った。私の生活が激変しても、彗の生活の匂いは変わらない。それだけのことが、なんとなく嬉しい。ここにいる間は、記号のようだった頃の自分を思い出せる気がした。

 月明かりに青々と濡れた廊下を進むと、ステンドグラスがめられた木の扉から、虹色の輝きが漏れていた。そっと扉を開くと、書籍が増えて色彩がより賑やかになったアトリエの風景に出迎えられた。

 金平糖みたいな星形のペンダントライトに、正面の壁から庭側へ大きく張り出したクッション張りの出窓。その出窓が落とす月明かりから左側にイーゼルを立てて、左手に絵筆を握る青年は、今日も椅子から少し身体を浮かせて、キャンバスに顔を近づけていた。つい最近、自然公園にサーカスの一座がやって来たので、お祭りの様相を呈した街の風景を描いているのだ。未完成の油彩画がイーゼルに一枚あるだけで、人々の生活の営みや熱気をアトリエじゅうに拡げる彗は、やっぱり希代きだいの画家なのだと実感した。私はクッション張りの出窓の右側に移動して、忍び足でキッチンに向かった。

「今日は、『フーロン・デリ』の新作?」

 突然に声を掛けられても、心臓が跳ねることはなくなった。振り向いた私は、襟ぐりが広いTシャツとゆったりとしたズボン、絵具まみれのエプロン姿でこちらを見ていた彗に、「うん」と頷いて微笑んだ。彗も、最近少しだけ短くなった髪を繊細に揺らして、私に微笑みかけてくる。

「おかえり、澪」

「ただいま、彗」

 そう答えたものの、私はここで一時間ほど過ごしたら、自分のアパートへ帰ることになる。それでも、この挨拶に私は違和感を持たなかった。彗も、きっと同じ気持ちなのだと思う。『フーロン・デリ』のお惣菜の袋を、私は軽く掲げて見せた。

「店長が、新作の青椒肉絲チンジャオロースーを持たせてくれたの。激辛麻婆豆腐は売り切れ」

「そっか。激辛麻婆豆腐は残念だけど、新作は楽しみだね。いつもありがとう」

「うん。すぐに温めても大丈夫?」

「もちろん。絵は区切りをつけたから。澪は座ってて」

 彗が立ち上がってキッチンに来ると、ほんのりと夜風の匂いがした。開けたままにしている出窓も、ぬるい温度を連れてくる。触れ合わなくても肌に伝わる体温が、私を少しだけ落ち着かなくさせた。そんな自分に戸惑うことも、これから減っていくのだろう。記号であることを、やめたなら。生々しい、人間なら。すらりとした立ち姿を見上げていると、彗が視線に気づいた。

「澪、疲れてない?」

「彗まで……大丈夫だよ。無理はしてないから」

「澪の言葉を信じてるけど、僕に気を使ってあんまり頼ってくれないのは、ちょっとどうかと思っていたからね。英会話なら、僕に訊いてくれてもいいのに」

「気持ちは嬉しいけど、彗に頼りすぎると、私が秋口あきぐち先生に怒られちゃう」

 私は、正直に弁解した。秋口先生は、画壇がだんで強い影響力を持つ偉人であり、相沢彗の才能を見出した画家であり、このアトリエを紹介してくれた老人だ。秋口先生は私のことを、彗のモデルとして一目置いているみたいだけれど、本当のところは分からない。彗の未来を切りひらいた恩人は、私の勉強に彗を巻き込んだと知ったとき、どんな反応をするだろう。獰猛どうもうな目をした秋口先生のことが、私は今も少し苦手だ。

「秋口先生は、澪の勉強には関係ないと思うけど」

 彗は、表情をくもらせた。こんな顔をした彗を見たのは、庭に入ってきた野良猫によって、窓辺で乾かしていた水彩画に、泥の足跡を付けられてしまったとき以来だ。肉球にくきゅうのスタンプを好き放題に押された画用紙を眺めた彗は、すぐに鷹揚おうような笑い声を立てたけれど、今回は妙に真面目な顔で考え込んでいる。

「分かった。澪がそう言うなら、僕も考えてみるよ。澪が、僕と秋口先生に気を使わないで、無理をしないで済むように」

「本当に、無理はしてないよ。アリスとの勉強は、楽しいから」

 話がひとまず収束に向かったので、私はホッとした。彗に『フーロン・デリ』の袋を取り上げられて「休んでて」と重ねて言われたので、先に洗面所へ手を洗いに行ってからアトリエに戻り、お言葉に甘えて二人掛けのソファに座った。ローテーブルには、お茶と箸がすでに用意されている。

 電子レンジで炒飯を温めている彗は、また少し背が伸びた気がする。絵画の仕事をこなすかたわら、海外留学の準備も早めに進めて、かつ大学の経済学部の勉強も手抜かりなくこなしている彗は、本当は私とは比較にならないほど多忙だ。怒涛どとうの日々に食らいついていけるように、身体つきも精悍せいかんになっている。

 以前の私なら、自分だけが同じ場所で足踏みをしている気持ちになっただろうか。ぼんやりと過去を回想していると、彗が振り返ったからどきりとした。

「店長さん、また杏仁豆腐をおまけしてくれたんだ。澪の影響で、僕もこれがすっかり気に入ったから嬉しいよ」

 杏仁豆腐のカップを持って、相好そうごうを崩す無邪気な姿は、どこにでもいる男子大学生そのものだったから、私も小さく笑ってしまった。「やっぱり手伝う」と言ってソファから立ち上がると、彗の隣に行って食器を用意する。今の彗の目には、私のほうが暖を取りに来る猫のように見えるのだろうか。双眸そうぼうを細めた彗の隣で、私は取り留めもなく考えた。二人でソファに座ったとき、彗がおもむろに言った。

「澪。そのワンピース、似合ってるよ」

「ありがとう。絢女あやめ先輩が選んでくれたんだ」

「ああ、やっぱり。速水はやみさんのセンスだなって思った」

「分かるの?」

「まあね。速水さんは、自分の衣服はシンプルなデザインを選ぶし、色味はモノトーンやビビッドなものが似合うけど、パステルカラーは似合わないって本人が断言してるからね。可愛い色は、澪みたいな可愛い子に着てもらうんだって息巻いてたよ」

「大学では、絢女先輩と、二人でそんな話をしてるの?」

 中華料理を食べながら、私たちは緩やかな会話を楽しんだ。私は明日も一限の授業があるうえに、午後にはゼミも控えている。その後は『フーロン・デリ』で閉店時刻まで働くので、アトリエに着くのは夜遅くになる。彗も、絵の仕事で忙しいだろう。

 それでも私たちは、二人で過ごす時間を作る。今週の予定に思いを巡らせていると、ふと――クッション張りの出窓のそばに置かれた、サイドテーブル代わりの椅子に、私の目は吸い寄せられた。

 彗が、以前にココアを差し入れてくれた椅子の上には、くたびれた書籍がうずたかく積まれている。美術の本に、英語の参考書に、それから……フランス語の辞典。

 視線をキッチンに逃がすと、飾り窓の向こう側で、こずえの影が夜風にそよいだ。遠くの街の輝きを、一人で眺める日々の始まりまで、また一日近づいた。けれど、もう不安には囚われない。さっき感じた息苦しさも、次第に薄らいで夜気やきに溶けた。

 二人でえがいた未来のために、私たちは正しい道を歩いているのだと信じていた。

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