3-4 幸せな一日
大学と英会話でくたくたに疲れていたはずなのに、駅からほど近い自然公園のそばにある平屋の『フーロン・デリ』の更衣室で、白いブラウスと黒いパンツスタイルに着替えるだけで、すっと意識が切り替わった。長い髪をポニーテールにまとめて三角巾をつけてから、私はロッカーの鏡に映った自分と見つめ合う。
扉の向こうから「
ちょっとした迷路か、誰かの夢の中の秘密基地みたいな街並みは、街路樹が枝葉を大きく伸ばしていて、真冬よりも逞しさを増した真夏の顔を見せている。世界が夜に包まれても、蝉がまだどこかの
巨大な滑り台のような坂道を下った先に、三日月をゆらゆらと映した海が拡がっている。光のネックレスを
少しだけ心を弾ませて歩き出すと、やがて家々の間隔が開いた区画にたどり着いた。古めかしい
小さな木製看板のプレートには、手書きで『
月明かりに青々と濡れた廊下を進むと、ステンドグラスが
金平糖みたいな星形のペンダントライトに、正面の壁から庭側へ大きく張り出したクッション張りの出窓。その出窓が落とす月明かりから左側にイーゼルを立てて、左手に絵筆を握る青年は、今日も椅子から少し身体を浮かせて、キャンバスに顔を近づけていた。つい最近、自然公園にサーカスの一座がやって来たので、お祭りの様相を呈した街の風景を描いているのだ。未完成の油彩画がイーゼルに一枚あるだけで、人々の生活の営みや熱気をアトリエじゅうに拡げる彗は、やっぱり
「今日は、『フーロン・デリ』の新作?」
突然に声を掛けられても、心臓が跳ねることはなくなった。振り向いた私は、襟ぐりが広いTシャツとゆったりとしたズボン、絵具まみれのエプロン姿でこちらを見ていた彗に、「うん」と頷いて微笑んだ。彗も、最近少しだけ短くなった髪を繊細に揺らして、私に微笑みかけてくる。
「おかえり、澪」
「ただいま、彗」
そう答えたものの、私はここで一時間ほど過ごしたら、自分のアパートへ帰ることになる。それでも、この挨拶に私は違和感を持たなかった。彗も、きっと同じ気持ちなのだと思う。『フーロン・デリ』のお惣菜の袋を、私は軽く掲げて見せた。
「店長が、新作の
「そっか。激辛麻婆豆腐は残念だけど、新作は楽しみだね。いつもありがとう」
「うん。すぐに温めても大丈夫?」
「もちろん。絵は区切りをつけたから。澪は座ってて」
彗が立ち上がってキッチンに来ると、ほんのりと夜風の匂いがした。開けたままにしている出窓も、ぬるい温度を連れてくる。触れ合わなくても肌に伝わる体温が、私を少しだけ落ち着かなくさせた。そんな自分に戸惑うことも、これから減っていくのだろう。記号であることを、やめたなら。生々しい、人間なら。すらりとした立ち姿を見上げていると、彗が視線に気づいた。
「澪、疲れてない?」
「彗まで……大丈夫だよ。無理はしてないから」
「澪の言葉を信じてるけど、僕に気を使ってあんまり頼ってくれないのは、ちょっとどうかと思っていたからね。英会話なら、僕に訊いてくれてもいいのに」
「気持ちは嬉しいけど、彗に頼りすぎると、私が
私は、正直に弁解した。秋口先生は、
「秋口先生は、澪の勉強には関係ないと思うけど」
彗は、表情を
「分かった。澪がそう言うなら、僕も考えてみるよ。澪が、僕と秋口先生に気を使わないで、無理をしないで済むように」
「本当に、無理はしてないよ。アリスとの勉強は、楽しいから」
話がひとまず収束に向かったので、私はホッとした。彗に『フーロン・デリ』の袋を取り上げられて「休んでて」と重ねて言われたので、先に洗面所へ手を洗いに行ってからアトリエに戻り、お言葉に甘えて二人掛けのソファに座った。ローテーブルには、お茶と箸がすでに用意されている。
電子レンジで炒飯を温めている彗は、また少し背が伸びた気がする。絵画の仕事をこなす
以前の私なら、自分だけが同じ場所で足踏みをしている気持ちになっただろうか。ぼんやりと過去を回想していると、彗が振り返ったからどきりとした。
「店長さん、また杏仁豆腐をおまけしてくれたんだ。澪の影響で、僕もこれがすっかり気に入ったから嬉しいよ」
杏仁豆腐のカップを持って、
「澪。そのワンピース、似合ってるよ」
「ありがとう。
「ああ、やっぱり。
「分かるの?」
「まあね。速水さんは、自分の衣服はシンプルなデザインを選ぶし、色味はモノトーンやビビッドなものが似合うけど、パステルカラーは似合わないって本人が断言してるからね。可愛い色は、澪みたいな可愛い子に着てもらうんだって息巻いてたよ」
「大学では、絢女先輩と、二人でそんな話をしてるの?」
中華料理を食べながら、私たちは緩やかな会話を楽しんだ。私は明日も一限の授業があるうえに、午後にはゼミも控えている。その後は『フーロン・デリ』で閉店時刻まで働くので、アトリエに着くのは夜遅くになる。彗も、絵の仕事で忙しいだろう。
それでも私たちは、二人で過ごす時間を作る。今週の予定に思いを巡らせていると、ふと――クッション張りの出窓のそばに置かれた、サイドテーブル代わりの椅子に、私の目は吸い寄せられた。
彗が、以前にココアを差し入れてくれた椅子の上には、くたびれた書籍が
視線をキッチンに逃がすと、飾り窓の向こう側で、
二人で
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