3-3 アリス・ベネット
三限目の授業を終えた私は、
目的のフロアに降り立つと、さっきまで過ごしていた大学とよく似た匂いが、エアコンの冷えた風に乗って、私の長い髪を微かに揺らした。使い込んだ教科書と、本を守るために温度を調整された空気と、そこで学びを追求する人たちの意思と努力が、
「Excuse me. May I come in?(失礼します。入ってもいいですか?)」
すぐに応答があり、「Yes, please come in(はい、どうぞお入りください)」と
「Hi Mio(こんにちは、ミオ)」
「Hello Alice(こんにちは、アリス)」
「How was your day?(今日は一日どうだった?)」
ハスキーなソプラノが、私に質問を投げかける。大学の一限目の講義よりもピリリとした緊張感が、私の
――アリス・ベネット先生は、私より六歳年上のアメリカ人で、日本人の旦那さんと
――『それじゃあ、ミオ。実際のレッスンを軽く体験してもらうわね。――My name is Alice Bennett .(私の名前はアリス・ベネットです)I am a teacher in an English conversation class(私は英会話教室の先生です)』
――『My name is Mio Kurata.(私の名前は倉田澪です)I am a third year college student(私は大学三年生です)』
――『What do you like to do in your free time?(時間があるときに何をしますか?)』
すなわち、趣味を問われている。想定していた質問なのに、言葉に詰まった。私の趣味とは、何だろう。考えてきたものはどれも、高校二年生の冬の出逢いの影響で、私の世界を
――『learning. I love learning(勉強です。私は学ぶことが好きです)』
アリスの青い目が、見開かれた。この町の
――『What kind of study do you like?(あなたはどんな勉強が好きですか?)』
――『I like to learn the language(私は言葉を学ぶのが好きです)』
文学部の学生だから。日本語だけでなく、外国語にも興味を持ったから。どうしても、会話力を身に着けたいから――言いたい
――『I should have studied harder(もっと勉強しておけばよかった)』
――『You can do it from now on(これからできるわ)』
意表を
――『What should I call you?(あなたを、どう呼べばいいですか?)』
――『Please call me Alice.(アリスと呼んでね)――ここの先生たちのことは、ファーストネームやニックネームの呼び捨てで大丈夫よ』
言語が日本語に切り替わると、私は露骨にホッとした。先が思いやられたけれど、アリスは慣れているようで、『今の段階でそれだけ喋れたら、上等よ。もっと磨きをかければ、自信を持てるようになるわ』と言って、ニッと楽しげに笑った。
――『ミオは、勉強が好きなのよね? 私の〝アリス〟という名前は、国によってさまざまな呼ばれ方をするって知ってた?』
突然の問いかけに、私は面食らった。首を横に振ると、アリスは説明してくれた。
――『ドイツ語で「高貴」を意味する「
異国の知識を受け取った私の脳裏に、
――『他国にも同じ
迷宮のような歴史を名に
――『学習は、国境を越えて、どこまでも突き詰めることができるのよ』
その言葉が、私に英会話の習得を決意させた。決して安くはないレッスン料は、『フーロン・デリ』のアルバイト代の貯金を
「Let’s call it a day(今日はここまでにしましょう)」
アリスの台詞で、私は腕時計が午後五時を示していることに気づいた。礼を言ってから手早く帰り支度を済ませた私を、アリスは微笑ましげに見守っている。
「これからバイト?」
「はい。すみません、いつもバタバタしてしまって」
「構わないわ。それよりも、ちゃんと身体を労わってる?」
「大学の友達にも、同じ心配をされました」
「ああ、前に話してたハナね」
「
「あら、本当に? 週末の土曜日に、自宅の庭でバーベキューをするんだけど、ミオもハナを連れていらっしゃいよ! もちろん、手ぶらでいいからね」
「いいんですか?」
「ええ。ぜひ、ケイも連れてきてね。一度会ってみたいもの。大学とバイトで忙しくても、英語を話せるようになりたいって、あなたに一大決心をさせた彼にね」
「だから、私が勉強する理由は、彗だけが理由じゃなくて……」
こんな追及の仕方まで、アリスは巴菜ちゃんに似ているのだ。エアコンが利いているはずなのに、体感温度が上がった気がして、私は「ありがとうございました!」と改めて日本語で言ってから、にこにこしているアリスに見送られて個室を出た。
急いで乗り込んだエレベーターから見下ろした街並みは、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます