2-9 二人の居場所

 薄目を開けたときには、隣にいたはずのぬくもりが消えていた。彗はいつも、私より先に目を覚まして、私を置いて行ってしまう。青い月明かりが、クッション張りの出窓で寝ていた私と、一人分の空白を照らしていた。

 一緒に食事をして、眠り、朝を迎えて、また夜が来る。出逢った頃は記号みたいだった私たちの関係は、共に過ごす時間が増えてゆくほどに、「生きる」ということの現実的な生々しさを持ち始めた。けれど、どんなに私たちが変わっても、私たちが互いの隣にいることを選んだときは、どんな肩書かたがきも生々しさも持っていない、ただの二人の人間でいられるはずだ。眠りに落ちる前に、彗と一つの毛布に包まって、夢うつつのまま交わした言葉を、頬にじんわりと宿った熱を意識しながら、振り返る。

 ――『澪。頼みがあるんだ』

 月光を浴びた私の長い髪を、右手でぎこちなくくしけずっていた彗は、少しだけ決まりが悪そうに微笑むと、私の耳元で囁いた。

 ――『画家とモデルの関係じゃなくて、ただの彗と澪として、そばにいてほしい……って、僕は言ったけど。やっぱり僕は、これからも、澪の絵を描かせてほしいんだ』

 優しい右手が、私の髪から頬に移った。骨ばった指先に絡んだ私の髪も、月影つきかげの一滴を落としたような、深い瑠璃紺るりこんに染まっている。彗の髪と、同じ色になる。

 ――『だから、澪。今さらだけど、僕のモデルになってくれる?』

 本当に、今さらだ。彗のこういうところは、高校生の頃から変わらない。あのときみたいに私も返事をしたいのに、クリムトが『接吻せっぷん』で描いた恋人みたいに抱き合う時間が、切ないのに温かくて、永遠になってほしくて、でもいつか夜が明けることを、私はもう知っていて、上手く頭が回らなかったから、ただ頷くだけで精一杯だった。

 うつらうつらしながら、私は彗に、クロード・モネの話をせがんだ。『ラ・ジャポネーズ』と『緑衣りょくいの女』の話を、もっと詳しく聞いていたかったのに、モデルという言葉に怖気おじけづいて、話題を変えた日のことを、本当は後悔していたから。目を細めた彗は、今にも眠りにからめ取られそうな私に、子守唄のような柔らかさで語ってくれた。

 ――『モネの『緑衣の女』は、サロンという展覧会に出品するために描かれた絵なんだけど、元々は『草上の昼食』というエドゥアール・マネの作品と同じタイトルの油彩画を完成させて、サロンに出品する予定だったんだ。モネの『草上そうじょうの昼食』は、日差しが明るい森の中で、紳士しんし淑女しゅくじょが昼食を満喫まんきつしている、おおらかな雰囲気の作品だよ』

 その絵を、私は美術の教科書で見たことがある。日向ひなたの絵画について知る機会は、きっと他にもあったはずだ。芸術は、いつだって、私たちのすぐそばにある。

 ――『でも、モネの『草上の昼食』は、縦が四メートル強、横が六メートルを超える大作で、期日までに描き上げられなかったんだ。だから、代わりの作品をサロンに出品するために、四日間という短い制作期間で完成した油彩画が、その四年後にモネの妻となるモデル、カミーユ・ドンシューの肖像しょうぞうえがいた『緑衣の女』なんだよ』

 ――『じゃあ……もし『草上の昼食』の完成が、サロンの出品に間に合っていたら、『緑衣の女』はかれなかったかもしれないの?』

 ――『そうだね。『緑衣の女』のついとなる絵としてかれた『ラ・ジャポネーズ』も、ひょっとしたら生まれていなかったかもしれない』

 世界にはきっと、奇跡みたいなめぐり合わせで生まれた光と影が、綺羅星きらぼしみたいに散りばめられている。私と彗だって、あの午前四時に出逢わなければ、こうして一緒にいる未来は生まれなかった。彗の腕の中で目を閉じた私は、二つの絵画でモデルを務めたカミーユのことを考えた。彼女はどんな気持ちで、画家の妻になることを選んだのだろう。私が感じた葛藤かっとう懊悩おうのうを、彼女もかかえていたのだろうか。美しい油彩画をかたどる絵筆は、光と影だけではなく、愛の歴史もえがいているのかもしれない。

 身体を起こした私が、パジャマのえりを整えていると、出窓にぴったりと立てかけられたクッションの影に、銀色の置時計がちらりと見えた。こんな所に隠されていたのだ。手を伸ばして引っ張り出すと、時刻は午前三時五十分。私は彗の言葉を思い出して、得心した。やっぱり彗も、私と同じ理由で、庭を気に掛けていたのだ。

 そうと決まれば、行き先は一つだ。画家としての彗が、絵画の世界に無限の奥行きを与えているとき、ただの澪でしかない私は、その最果てにまではついて行けない。今はまだ、ただの彗に寄り添うことしかできなくても、まもなく午前四時を迎えるあの場所へ、一人で向かった彗の背中を、追い駆けることならできる。

 桃色のカーディガンを肩に羽織はおって、あの頃みたいに足音を忍ばせてアトリエを出る前に、キッチンの小窓で揺れる光を見つけた。街のあかりだ。こんな夜更けにも、灯りを絶やさない場所がある。日々の営みを連ねた光のネックレスに、庭のこずえの影が重なった。黄色の真珠みたいな光も見えたから、予感は確信に変わった。

 もう、冬が終わるのだ。新しい出会いと別れの季節が、すぐそこまで迫っている。

 玄関扉から外に出ると、夜風はほんのりと甘い匂いがして、例年よりも暖かい。白いガーデンテーブルと椅子のそばには、季節が一回りして見慣れた樹木が、枝葉をつつましく伸ばしている。り卵のような黄色の花が、ふわふわと丸く寄り集まって咲いていた。柔らかそうな花びらの下、月明かりにぼんやりと包み込まれたその場所で、一人で佇む青年を見つけた私は、安堵あんどの息をそっと吐いた。

 きっと、ここにいると思っていた。月光が落とす花の影を踏んで、木の下にたどり着いた私を、相手は朗らかに迎えてくれた。

「こんばんは。澪」

「こんばんは。彗」

「起きてくると思ってたよ」

 二年前よりも背が伸びた彗は、大人びた顔で微笑むと、私にマグカップを差し出した。私は長い髪を耳にかけると、湯気が立つマグカップを受け取った。少し粉っぽくて青い甘さに混じって、温かいチョコレートの香りがする。

「ホットチョコレート。澪が、以前に紅茶を淹れてくれたから、真似てみた」

「私も、何か用意したらよかった」

「じゃあ、明日も二人で起きようか?」

「朝、起きられなくなるよ。一限、講義が入ってるのに」

 ささやかな言の葉と、ホットチョコレートの湯気を揺蕩たゆたわせる私たちの頭上には、シナプスみたいな細枝が拡がっている。銀色がかった葉に交じって、小さな黄色の花が揺れていた。

 再会の日から二年たった今も、私たちは二人でミモザを見上げている。それが少しだけ不思議で、くすぐったい。椅子に座った私たちは、真夜中に咲く花を見上げた。

「朝が来たら、もっと咲いてるのかな」

「そうだね。こんなふうに、未明に花見をするのは僕らくらいだ」

 ミモザの花は、まだ咲き始めたばかりだった。風にふんわりとそよぐ可憐かれんな黄色は、夜空を見上げる私たちの世界を、これからも淡い輝きで照らすのだろう。

秋口あきぐち先生から、このアトリエを紹介されたとき。家賃がちょっとだけ高くてもここにしようって決めた理由は、この木があったからなんだ」

 彗が、そっと打ち明けてくれた。吐息は、もう白くない。「知ってたよ」と答えた私の声は、思った以上にしっかりとしていた。世界中でたった二人だけになったみたいなこの場所が、紛れもない現実で、朝が必ず訪れることを、もう知っている人間の声だった。そんな達観たっかんの響きを、自分の声から聞き取れたことが嬉しかった。

 私は、毎日、変わっていく。記号ではない生身の心で、これからも生きていくことが怖かった。そんな恐れが、全てなくなったわけではないけれど。

「彗がいなくなったら、ここはまた空き家になるのかな」

「じゃあ、澪が引っ越してくる?」

「えっ?」

 私は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしたに違いない。彗は、小さく笑った。

「留学についてきてほしいけど、僕が日本をつとき、澪は大学四年生だし。僕が帰るまで、この家で待っていてもらうのもいいかもしれないなって、いま思いついた」

「彗って時々、突拍子もないことを言うよね」

 どきどきした私は、未明の庭を一望する。無作為に葉を伸ばす水仙すいせんの一つが、明日にでも咲きそうだ。小さな池には丸い月が、水鏡すいきょうにしっとりと映っている。

 考えもしなかった未来に、思いをせたら――なんだかすごく、わくわくした。

「ここに、まだ居られるかもしれないんだ」

 温かいマグカップを包む私の両手に、大きな両手が添えられた。

「ゆっくり考えていこう。これからも、二人で。居場所は、どこにだって作れるから」

 二人で――安心したら力が抜けて、泣き笑いみたいな顔をしてしまった。

 私はまだ弱いままで、急に強くなんてなれはしない。私の周りの人たちみたいに、自分の気持ちをしっかりと言葉に変える力だって、まだまだつたなくて未熟だ。でも、二人なら、生きていける。そう考えたら、これからやりたいことが見えてきた。

「彗。私、もっと勉強をがんばりたい」

 夜風が、ミモザのこずえをさわさわと揺らした。なんだか励まされた気分になって、私は訥々とつとつと言葉を繋いでいった。

「大学は、二年通えるだけで十分だって思ってた。でも、学費のことで、両親に申し訳ない気持ちはあるけど、私……もっと、勉強したいんだと思う。編入試験を受けて、大学生を続ける選択に、迷いはなかったから」

「うん。知っていたよ。澪も、勉強が好きだってこと」

 互いの正体を明かしたときのように、彗は微笑わらった。「他には、何かやりたいことはある?」と訊いてくれたから、私は嬉しくなって、頷いた。

「私も、彗と一緒にミモザサラダとチキンスープを作りたい。そのときには、このミモザも満開だと思うから、今度は午前四時じゃなくて、昨日みたいな昼下がりに、この庭で食事をしたい」

「ピクニックみたいでいいね。いや、モネの『草上の昼食』のほうがぴったりかな」

「本当だね。ねえ、目が冴えちゃったね」

「じゃあ、このまま起きていようか。夜明けのミモザを見上げるまで」

「一限はいいの?」

「今日は、特別」

 朝が来たら、彗が作ってくれたチキンスープの残りを温めよう。それから、昼下がりにはモネの庭で、ミモザサラダとチキンスープを並べて、二人で満開のミモザを見上げよう。『フーロン・デリ』にも早く行って、絢女あやめ先輩にきちんとお礼を伝えたい。私が大切にしているものは、一人ではなく二人で守っていくのだと、私も幸せになるのだと伝えたい。このミモザの花が、来年また花を咲かせて、その翌年に私は一人でこの木を見上げるのだとしても、二人でやりたいことがたくさんあった。

 夜明けまで、あと少し。

 朝が来るのが、少しだけ待ち遠しかった。



― 第2章 昼下がりにはモネの庭で、ミモザサラダとチキンスープ <了> ―

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