2-8 この気持ちが愛なら
鳥の
しばらくの間、私はぼうっと目覚めの輝きを眺めていたけれど、空の青色が早朝のものよりずっと濃いことに気づいて、一気に目が覚めて跳ね起きた。
慌てて、辺りを見回した。枕元に置く習慣にしていたはずのスマホがない。そういえば、昨日は
どうしよう。顔が青ざめたのが、自分でも分かる。窓から見上げた太陽の高さが、私に絶望を突きつける。遅刻なんて、初めてだ。いや、まだ間に合うかもしれない。とにかく時間を確認したいのに、なぜか枕元の棚にあったはずの置時計まで見当たらない。イーゼルとキャンバスの周辺にも、備え付けの衣装箪笥の上にも、どこを見回しても時計がない。焦った私が、クッション張りの出窓から、急いで下りようとしたところで――彗に借りたスウェットの
「大丈夫?」
ちかちかする視界に、天井からぶら下がる星形のペンダントライトが映る。それから、差し伸べられた大きな手。軽く屈んで、私を見つめる彗の、困ったような笑顔。
「おはよう。澪」
「……おはよう。彗」
手を取っていいのか、迷った。だけど、ここで彗の手を取れなければ、私はこれからどんな未来に続く扉も、自分で閉ざしてしまう気がした。
おそるおそる手を掴むと、彗は私の身体を片手で
「彗、今は何時? 私……」
きっと酷い顔色をしているに違いない私へ、彗は「大丈夫だよ」と堂々と言った。
「澪はバイトのことを気にしてると思うけど、気にしなくて大丈夫」
「どういうこと? 私、早く行かなきゃ……」
「いいんだ。澪のシフトは、
「え……
びっくりした私は、目を瞬いた。しかも、「僕から速水さんにお願いしたんだけど、ごめん。昨夜は言いそびれた」と
「二人で話す時間が欲しかったから、
「でも……」
「こないだはちょっと意地悪な言い方をしたから、その罪滅ぼしだ、って付け足してたよ。僕がどういう意味か訊ねても、澪に言えば分かるからって、教えてもらえなかった。僕が知らない間に、澪は速水さんとずいぶん親しくなっていたんだね」
「……うん。私、絢女先輩に会えてよかった」
私は、俯いて囁いた。絢女先輩は、不安に押し潰されかけていた私に、笑顔しか見せなかった。自分の中の寂しさと折り合いをつけて進んでいける、絢女先輩のようになりたい。今の私は、あまりにも彼女から遠い所にいる。
「まさか彗が、そこまでするなんて思わなかった」
私の予定を勝手にキャンセルするなんて、彗にそんな行動力があったなんて初めて知った。彗は、少しだけ
「まだ作ってる途中だから、少し待ってて」
そう言い置いて、すらりとした長身痩躯はキッチンに向かった。とろ火にかけられたミント色の小鍋から、バターの温かい香りが流れている。甘さを含んだ香ばしさは、玉ねぎとブイヨンの匂いだ。懐かしさを覚えた私は、小鍋の中身を理解した。
「彗……」
「うん?」
振り返った彗は、
私は、私が、怖かった。だけど、私は、私から、逃げられない。たとえ彗と離れ離れになるのだとしても、その寂しさと向き合えるのは、私だけだ。私は唇を引き結んで、モロッカンタイルが敷き詰められた洗面所を出て、アトリエに戻った。
そして――鮮やかな黄色に、出迎えられた。
イーゼルの近く、二人掛けのソファの向こう、細長いローテーブルの上に、その色彩はあった。
「ミモザサラダ……」
「ああ、澪も知ってたんだ」
ミモザサラダの隣に、ことんとスープのカップが置かれた。湯気が柔らかく立ち上るスープは
「彗、これ……」
「絵を仕上げてたら、僕も朝ごはんが抜けたから、ブランチにしよう。澪がせっかく作ろうとしてくれたのに、その機会を昨日は台無しにしてごめん。僕も澪への罪滅ぼしのつもりで作ってみたけど、自信がないんだ。チキンスープは初めてだし。食べてみて」
彗に導かれてソファに座った私は、しばらくスープを見つめてから、スプーンを握った。ひと掬い分を唇に当てて流し込むと、小さく切り分けられた鶏肉と玉ねぎの旨味が、スープにぎゅっと溶けていて、昨日の昼から何も食べていなかった身体に染み渡る。温かさが涙腺まで緩めそうになったから、私はすっかり困ってしまった。
彗は、やっぱりずるいと思う。昨日のことで、まだ文句も言えていないのに。
「……私が大学生になってから、初めて彗に作った料理だね」
「うん」
彗も私の隣に座ると、スープを一口飲んで、首を傾げた。「悪くないけど、澪が作ったほうが
「あの頃の僕は、まだここに引っ越す前で、左手で絵を描くことが楽しくなって、がむしゃらに打ち込むようになって……自分の生活そっちのけだった」
「え?」
私は、スープのカップを持ったまま彗を見る。彗は苦笑の顔で、覚えたての手品の種を明かすように、白状した。
「実を言うと、澪が家に来るまで、すごくいい加減な生活をしてた。自炊は、簡単なことしかできなかった。出来合いのお惣菜とか、カップ麺とか、ゼリー飲料を買った日はまだいいほうで、絵に夢中で食事を忘れるときもあったんだ」
「うそ。時々、作ってくれるのに? 今だって、こんなに……」
「澪が来たから、このままじゃまずい、って焦って身に着けたんだよ。僕が一人のままだったら、今の僕になれていたか分からない」
その告白は、衝撃的だった。焦るという言葉が、これほど似合わない人もいないだろう。何でも器用にこなしそうな彗にも、苦手なものはあったのだ。彗はサラダを小皿に取り分けると、
「ミモザサラダ。澪も知っての通り、ゆで卵の白身と黄身を分けてから、それぞれをみじん切りにしたりザルで
私は、こくりと頷く。ミモザサラダのことは、以前から知っていた。その花は、私たちにとって特別な花だから。黄身の花びらに隠れた白身は、よく見れば形が
綺麗なサラダをフォークで一口食べると、塩胡椒で味を調えられたゆで卵と、火を通しても
「
深み――その台詞は、
「……スープは、お母さんがよく作ってくれたんだ」
短期大学への入学が決まり、初めての一人暮らしを始める前に、私は母から
「そっか。それなら、澪のほうが美味しく作れて当然だ」
「澪。本当は、明日の夜中に話したかったんだけど、やっぱり今、伝えたいことがあるんだ」
おもむろに、彗が言った。珍しいことに、しかつめらしい顔をしている。
「一緒に来てほしいって、言おうと思ってたんだ」
「来てほしいって……留学に? 海外に?」
「うん。離れたくないから」
私はびっくりして、平然と話す彗を凝視した。
「どうして? だって私は、モデルにだってなれてない」
「モデルであるか否かは、一緒にいたいと思う理由とは、特に関係ないと思うけど」
「それは……」
珍しく理詰めで
「本で知ったんだけど、画家とモデルって、恋愛関係に発展しやすいそうだよ。二人で長い時間を同じ空間で過ごすことが、画家とモデルという二人の関係性を、徐々に変えていくらしい」
「どうして今、そんな話をするの」
もう我慢できなかった。私が彗を睨みつけると、彗は驚いた顔をした。まさかと思ったら、そのまさかだった。私が小声で「彗は、昨日のあの人のことを言っているの?」とモデル事件のことを追及すると、顔に浮かぶ驚きの色が深まった。私がそれを気にするということを、初めて知ったような顔だった。もはや呆れで声も出ない。
「いや、昨日のモデルの話じゃなくて、僕は自分の将来の話をしてたんだけど……見てもらったほうが早いかな」
彗は立ち上がると、イーゼルの向こうに置かれた画材ケースの前で屈み、中からスケッチブックを取り出した。ソファに戻ってきた彗が、それを私に差し出してくる。
ここには、あのモデルの女性が描かれているに違いない。私は小さな覚悟を決めてからスケッチブックを受け取ると、
最初のほうのページは、このアトリエの
ソファにしなだれかかった女性は、
――自分を見ているのだ。
「彼女は、
「酷くなんかない。でも」
残酷かもしれない。そんな言葉を、私は静かに呑み込んだ。彗がどうして、秋口先生に認められたのか。その理由の本質に、私の手も届いた気がした。
「澪。後ろのページから捲ってみて」
言われるままに、私はスケッチブックを後ろのページから捲り、息を詰めた。信じられない気持ちで絵を眺めて、彗を見る。ばつが悪そうに微笑んだ彗が、目で合図をしたから、私はさらにページを
「いつの間に……?」
「ごめん。いつか白状しないとって思ってたけど、怒られる気がして」
「怒らないよ」
私は少しだけ
彗という画家の卵を拒絶する自分は、私には想像できない。けれど、このスケッチブックに描かれた昨日のモデルが、私に教えてくれている。
――全部、見られてしまうのだ。
彗と一緒にいるということは、そういうことなのだ。
「僕が画家としてきちんと成功したときに、また改めて言うよ。だから、澪。これからも、そばにいてほしい。画家とモデルの関係じゃなくて、ただの彗と澪として」
声が、頭上から花びらのように降ってくる。私は顔を上げて、彗は私を見下ろして、二人であの頃みたいに見つめ合った。
「不安だったんだ。澪も、僕と一緒にいることを選んでくれるか。僕らはもう、出逢った頃の僕らではないから」
――彗も、私と同じだったのだ。最初から、知っていたはずだった。だって、私たちが似た者同士だという事実は、二年の月日が流れたところで、そう簡単には変わらない。私の答えは、決まっていた。
「うん。私は、彗と一緒にいる」
この気持ちが愛なら、また時々濁るかもしれない。彗の
だけど、それでも。
私は、彗と、生きていきたい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます