1-4 ヘレーネの眼差し

 その日の昼休みも、空は薄曇うすぐもりだった。小雨こさめが時折ぱらぱらと教室の窓を濡らしたけれど、両親の顔色を気にしながらリビングで朝食を取ったときに、テレビの天気予報が夕方には晴れると告げていたから、次の午前四時も月を見つけられるだろう。

 二日続けて寝不足の私は、クラスの友達に「用事があるから」と言って教室を出ると、図書室を訪れた。古書の匂いがぬるく漂い、だいだいのカーテン越しに入るくすんだ日差しが、テーブルの空席を浮き彫りにする。大学受験を控えた三年生は、自由登校の時期だから、一学年分の生徒が欠けた高校は、火が消えたように静かだった。

 窓際の美術図書コーナーの書架しょかから、私は数冊の資料を選んだ。テーブル席に着いてページをめくると、『印象・日の出』について書かれた項目を見つけられた。

 灰色の霧の中にそそり立つ船のマストと、明け方の海を照らす太陽を描いた『印象・日の出』は、モネの故郷だというフランス北西部のル・アーヴルのみなとの絵で、筆触分割ひっしょくぶんかつという技法を用いているらしい。二つの絵具を隣接して配置することで、見る者の網膜もうまく上で色彩を溶け合わせるという技術を、けい会得えとくしているのだろうか。

 他の印象派の画家たちは、『モンマルトル大通り、曇りの朝』のカミーユ・ピサロ、『草上の昼食』のエドゥアール・マネ、『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』のピエール・オーギュスト・ルノワール……どうしてけいは、多くの美術家たちの中から、グスタフ・クリムトを挙げたのだろう。素朴そぼくな疑問は、クリムトの『接吻せっぷん』がったページを探し当てたときに、氷解ひょうかいした。

 ――『接吻せっぷん』は、正方形のキャンバスで抱き合う男女の油彩画だった。金箔きんぱくきらびやかなのに薄暗い空間で、花畑の崖っぷちのような地面に膝をついた女性の身体を、男性がまとう金色のローブが包んでいる。ローブに織り込まれた白と黒の長方形は、生物の細胞のように有機的で、ドレスに咲いたカラフルな水玉模様の花々は、二人で一つの命のような男女の姿と、最果ての大地の境目さかいめ曖昧あいまいにした。

 ――まるで、私たちみたいだ。漠然と、そう思った。未明の世界に心を残して、午前四時の迷子になった私たちは、自他の境界が希薄なくらいに魂の形がそっくりで、このままではどこにも行けないと知っているのに、一緒にいることをやめられない。

 続いて調べた『へレーネ・クリムトの肖像しょうぞう』は、金色を基調とした『接吻』とはおもむきが異なり、背景は柔らかなピンクベージュに塗られていた。クリムトのめいだという六歳の少女・ヘレーネは、清楚せいそな白いドレスに身を包み、背筋を伸ばして左側を向いている。硬質でありながら淡い美しさの表現は、印象派の技法を取り入れているのだろうか。哀切を感じる眼差しが、幼い頃の自分と重なった。

 私は今朝も、両親に答えを出せなかった。明日も覚悟を決められないことを予感しながら、私はヘレーネの眼差しから逃げるように、本を閉じて席を立った。


     *


 雨上がりの夜空の下に、今日もけいは立っていた。月光の雫がしたたるミモザのこずえを、興味深そうに見上げている。左手にはもう文庫本を持っていなくて、到着した私を振り返って微笑わらってくれた。

「彗。今日……ううん、昨日、彗が教えてくれた絵のことを調べてみたの。どういう絵なのか、もっと知りたくなったから」

 挨拶もそこそこに、私は話を切り出した。彗は目をみはってから、ほんのりと嬉しそうに「そっか」と答えて、視線を斜め下に落とした。横顔がうれいを帯びている気がして、絵の中のヘレーネと向き合っている気持ちになる。

「モネの絵は見たことがあったけど、クリムトの絵は初めてだった。彗が教えてくれた二つの絵は、雰囲気がそれぞれ違っていて、私は両方とも好き」

「クリムトは、愛と官能かんのうえがく一方で、硬派で禁欲的な絵画も残しているね。前者の『接吻』はクリムトの代表作で、後者の『へレーネ・クリムトの肖像』には、めいの女の子に向けた親愛が、真摯な筆致ひっちえがかれているんだ。甘さときよさが同居した、尊敬している美術家だよ」

「うん。私も、クリムトを知ることができて、よかった。絵を通して、たくさんのことが分かったから」

 言葉を区切った私は、一呼吸を置いてから、言った。

「彗が、今も絵の世界のことが大好きなんだってことも」

 彗は、私がこういうふうに話すことを、分かっていたようだった。観念したみたいに微笑むと、ずっと腰の横に下ろしていた右手を、初めてぎこちなく持ち上げた。

みおは、気づいていたよね。僕が、左手しか使っていなかったことを。利き腕は右なんだけれど、今は動かしづらいんだ。交通事故の後遺症で」

 交通事故――すっと頭から血の気が引いたけれど、彗の台詞せりふを予感していた自分もいた。絵描きが利き腕を負傷するということが、どんなに致命的で絶望的なことなのか、美術に関して付け焼刃の知識しか持たない私でも、容易に想像できた。

「歩道に車が乗り上げたときに、腕をかばいたかったんだけどね。一番傷つけたくなかった右腕が、こうなって……僕よりも家族のほうがショックを受けていたことが、思いのほかこたえたかな。美大に行って、画家として生きたかった僕を、僕以上に応援してくれていたことを、そのときに知ったから」

 穏やかな告白を、澄んだ夜風がさらっていく。こずえで揺れるミモザのつぼみがさんざめき、さやさやと泣いているみたいだった。

「新しい進路は、決めたよ。でも、やり切れない思いもあって、寝つけない夜に外を散歩していたら、このミモザの木の下にたどり着いたんだ。ここだけは他の場所よりも明るい気がして、ぼんやりと居ついていたら……澪に、会えたんだ」

 愁眉しゅうびを開いていたに違いない私へ、彗は優しい笑みを向けてくれた。

「いいんだ。違う生き方もできるから」

 ――諦めるの? そう言いかけた自分に気づいて、私はひどく驚いた。私だって、大切な決断から逃げ出して、ミモザの木の下に流れ着いた。私も彗のように、諦め方を探したほうがいいのだろうか。

「どうしたら、諦められるんだろう」

 私の独り言を聞いた彗が、傷ついたような顔をした。ああ、やっぱり、と私は悲しい気持ちになる。私たちには、夜が明けたあとの世界へ踏み出していく勇気がないのに、互いが未来を諦める姿を見ていると、つらくて堪らなくなってしまう。

 惹かれるのは、当然だった。傷つき方も、悲しみの受け止め方も、私たちはこんなにも似ている。クリムトが『接吻』で描いた恋人みたいに、二人で寄り添っていられたら他には何も要らないような心の強さが、私たちには足りていない。それなのに、欠落に折り合いをつけようとする姿を、瞳に映していたいと願ってしまう。

 やがて風がんでも、月影つきかげに照らされた細枝は、しばらくのあいだ揺れ続けた。青白く照らされたミモザのつぼみは、いつしか開花したものが増えていた。

 彗が一番好きな絵は、何なのか。訊きそびれたことに気づいたのは、青い闇が満ちる自宅に帰り着いたときだった。

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