1-4 ヘレーネの眼差し
その日の昼休みも、空は
二日続けて寝不足の私は、クラスの友達に「用事があるから」と言って教室を出ると、図書室を訪れた。古書の匂いがぬるく漂い、
窓際の美術図書コーナーの
灰色の霧の中にそそり立つ船のマストと、明け方の海を照らす太陽を描いた『印象・日の出』は、モネの故郷だというフランス北西部のル・アーヴルの
他の印象派の画家たちは、『モンマルトル大通り、曇りの朝』のカミーユ・ピサロ、『草上の昼食』のエドゥアール・マネ、『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』のピエール・オーギュスト・ルノワール……どうして
――『
――まるで、私たちみたいだ。漠然と、そう思った。未明の世界に心を残して、午前四時の迷子になった私たちは、自他の境界が希薄なくらいに魂の形がそっくりで、このままではどこにも行けないと知っているのに、一緒にいることをやめられない。
続いて調べた『へレーネ・クリムトの
私は今朝も、両親に答えを出せなかった。明日も覚悟を決められないことを予感しながら、私はヘレーネの眼差しから逃げるように、本を閉じて席を立った。
*
雨上がりの夜空の下に、今日も
「彗。今日……ううん、昨日、彗が教えてくれた絵のことを調べてみたの。どういう絵なのか、もっと知りたくなったから」
挨拶もそこそこに、私は話を切り出した。彗は目を
「モネの絵は見たことがあったけど、クリムトの絵は初めてだった。彗が教えてくれた二つの絵は、雰囲気がそれぞれ違っていて、私は両方とも好き」
「クリムトは、愛と
「うん。私も、クリムトを知ることができて、よかった。絵を通して、たくさんのことが分かったから」
言葉を区切った私は、一呼吸を置いてから、言った。
「彗が、今も絵の世界のことが大好きなんだってことも」
彗は、私がこういうふうに話すことを、分かっていたようだった。観念したみたいに微笑むと、ずっと腰の横に下ろしていた右手を、初めてぎこちなく持ち上げた。
「
交通事故――すっと頭から血の気が引いたけれど、彗の
「歩道に車が乗り上げたときに、腕を
穏やかな告白を、澄んだ夜風が
「新しい進路は、決めたよ。でも、やり切れない思いもあって、寝つけない夜に外を散歩していたら、このミモザの木の下にたどり着いたんだ。ここだけは他の場所よりも明るい気がして、ぼんやりと居ついていたら……澪に、会えたんだ」
「いいんだ。違う生き方もできるから」
――諦めるの? そう言いかけた自分に気づいて、私はひどく驚いた。私だって、大切な決断から逃げ出して、ミモザの木の下に流れ着いた。私も彗のように、諦め方を探したほうがいいのだろうか。
「どうしたら、諦められるんだろう」
私の独り言を聞いた彗が、傷ついたような顔をした。ああ、やっぱり、と私は悲しい気持ちになる。私たちには、夜が明けたあとの世界へ踏み出していく勇気がないのに、互いが未来を諦める姿を見ていると、つらくて堪らなくなってしまう。
惹かれるのは、当然だった。傷つき方も、悲しみの受け止め方も、私たちはこんなにも似ている。クリムトが『接吻』で描いた恋人みたいに、二人で寄り添っていられたら他には何も要らないような心の強さが、私たちには足りていない。それなのに、欠落に折り合いをつけようとする姿を、瞳に映していたいと願ってしまう。
やがて風が
彗が一番好きな絵は、何なのか。訊きそびれたことに気づいたのは、青い闇が満ちる自宅に帰り着いたときだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます