1-3 印象・日の出
放課後の空は
早く自室のベッドで横になりたいほど眠いのに、真っ直ぐ帰る気にはなれなかった。かといって、昼夜を問わず行く当てもない私の足は、高校の敷地を囲うフェンスに沿って進んでいき、桜並木の仲間外れの前に到着した。
――『ミモザ、という花だよ』
午前四時に出逢った青年の声が、脳裏で柔らかくエコーする。
この現実は、まだ夢の続きだ。私の夜は、昨日から明けていない。孤独の象徴のような木の下にいた
でも、
家に着くと、リビングにいた母は「おかえり」と小声で言った。私に気を使った微笑のぎこちなさが、胸をぎゅっと締めつける。私も「ただいま」と返事をしてから、普段通りの足取りを意識して自室に引っ込み、息を吐いた。
今朝の両親は、いつも通りの顔をしていた。真面目な表情で新聞を読んでいた父は、私に挨拶をしてから会社に向かった。朝食を作ってくれた母は、泣き
私が
*
午前四時が近づく夜中に、私は再び家を抜け出した。
日中は太陽が照らしていた通学路を、今は月明かりが照らしている。蛍光灯が暗闇を切り
放課後にも訪れたミモザの木の下に、
「こんばんは。
「こんばんは。
私もミモザの木の下に立つと、彗を見上げた。
「また明日、ここで出会えたら。話の続きをしよう、って」
「うん。僕は、そう言ったね」
睫毛を伏せた彗の目元に、月光が青い影を落とす。こんな時間に家を抜け出してきた私のことを、この人は心配してくれている。それでも私をすぐには帰さないで、居場所を分けてくれたのは、私たちが似た者同士だからだろう。そんな予感は、ぽつりぽつりと身の上話を交わすうちに、ゆっくりと確信に変わっていった。
「大学に行きたいの。でも、両親が離婚を考えていて、私も進学を諦めてほしいって言われて……どうして大学に行きたいのか、ちゃんと考えてこなかったことに気づいたの。私が大学に行きたい理由は、ただ居場所がほしいだけかもしれない」
私は、今夜も名字を明かさなかった。このミモザの木の隣に建つ高校の生徒だとも言わなかった。夜の間だけ会える夢の人との間に、そんな現実の情報は必要なかった。
「澪は、真面目だね」
「真面目かな。よく言われる。融通が利かなくて不器用、のほうが近いと思う」
「ああ、それは僕もかもしれない。気取っているみたいだから、あまり言わないようにしているけど、勉強が好きなんだ」
「じゃあ、何か教えて。何でもいいから、私が知らないようなことを」
「それは、難しい注文だね」
彗は、夜空を仰いだ。
「ミモザは、別名『
「ミモザって、この黄色以外の色もあるの?」
「そうだよ。オレンジのミモザもあるんだ。花言葉は、エレガント」
「オレンジ。
「秘密の恋」
私たちの会話は、まるで頭上で咲き始めたミモザの花びらや、誰かが夜明け前に見た夢みたいにふわふわしていて、地に足がついていなかった。おぼろげな浮遊感に
「それはきっと、僕が絵描きだったから、かな」
「絵描き?」
「うん。幼い頃から
彗は、文庫本を私に差し出す前に、右手から左手に持ち替えた。さっきも彗がこの動作を挟んだことが気になるけれど、今は疑問を挟まずに、私は文庫本を受け取った。海外の画家に
「印象派、あるいは印象主義は、学校の美術の授業でも扱うテーマだね。その名前が示す通り、画家の目が捉えた人物や風景の『印象』を描画する、フランス発祥の芸術運動だよ。時の流れによって変わる日差しの色や温度、
「モネは、
「そうだね。
「その絵、私も好き。草原で日傘をさした女性の白いドレスが、日差しの逆光で青く見えて、綺麗だから……」
油絵具の草原で、こちらを振り返る女性の顔は、白いベールに
「澪は、着眼点が鋭いね。モネは、光の描き方が
彗は、私から文庫本を左手で受け取ると、ページを片手でぱらぱらと
「風景を通して
――幼い頃から
絵画について豊富な知識を持っているのに、彗は絵描きとしての自分について、過去形の
「彗の一番好きな絵を、教えて」
夜風と、互いの息遣いしか聞こえない静寂が流れた。不意を打たれたような顔をしていた彗は、ミモザの
「一つに絞るのは難しいけど、たった一つしか選べないなら、この絵を選ぶしかないってくらいに大切に思っている絵なら、あるよ」
彗が、私に向き直った。月光の青いミストの中で、穏やかな微笑を取り戻した青年は、問いの答えを明かすときを、少しだけ未来へ先延ばしにした。
「続きは、また明日、ここで出会えたら」
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