1-2 彗星と澪標
私が
あと一か月で高校三年生になる私は、大学受験に備えて書店で参考書を買ってから家に帰り、会社から珍しく早めに帰宅した父と、その隣で沈痛な面持ちをした母の二人から、平凡な未来に
『
物心ついた時から、父と母の関係は冷えていた。私という幼い子どもに気を使った
『大学は、諦めてほしい』
永遠に明けない夜のような父の声を、私はどんな顔で聞いただろう。
『父さんと母さん、どちらについてくるか、選んでほしい』
父さんなら、大学に行かせてやれるかもしれない。父がそんな言葉を呑み込んだことを、私はあとで母から聞いた。すすり泣く母の声にも、明けない夜の気配があった。その夜、私は夕飯に手をつけずに、部屋着からパジャマに着替えもしないで、新品の参考書を床に放り出したまま、ベッドに潜り込んで静かに泣いた。
一年後、私はどこに行くのだろう? 将来の夢なんて、何もなかった。それでもいつかは時の流れに急き立てられるように進路を定めて、高校の同級生たちと足並みを揃えるように、月並みな大学生になるのだろう。そう漠然と信じていた。
そんなありふれた未来が、崩れていった。横たえた身体がどこまでも闇に落ちていくような、深い孤独で心が
月光の青色に沈んだ街は、深い眠りについていて、出歩く人間なんて誰もいない。通学路の桜並木は、
もう走ることをやめて、ついでに生きることもやめてしまいたい。白い息を吐いた私が、高校の敷地を仕切るフェンスのそばで、両手に膝をついたときだった。
――午前四時を迎えた満月の夜に、青年の穏やかな声が聞こえたのは。
「こんばんは」
顔を上げた私の視界を、蛍の光に似た黄色が
この樹木の
そんな仲間外れの木の下に、一人の青年が
高校生か、大学生だろうか。体格は細身で背が高く、濃紺のダッフルコートが似合っていた。左手には文庫本を持っていて、空っぽの右手は腰の横に下ろしている。私を見つめる眼差しは、今日の月明かりみたいに優しくて、迷子に名前を訊ねるような声が、
「こんな夜明け前に、どうしたの?」
「……分からない」
私も、途方に暮れた迷子みたいに答えた。年上かもしれない相手なのに、私は敬語を使わなくて、普段なら考えられない話し方をしたことが、自分でも不思議だった。一睡もしていなかったから、この出逢いを夢のように感じた所為かもしれない。
「帰らないの?」
「帰るよ。でも」
もうすぐ、居場所を失ってしまう。そんな
「夜が明ける前に、僕は帰るよ。もしよければ、それまでの間だけ、僕と話をしよう」
「話って、どんな?」
「何だっていいんだ。たとえば、この花のこととか」
青年が枝葉を見上げたから、私も
「ミモザ、という花だよ」
青年が、優しい声音で教えてくれた。
「私、この花の名前を知らなかった」
「僕もだよ。桜に交じって黄色い花が咲いていたから、気になって調べたんだ」
「どうして、私と話をしようって言ってくれるの?」
「月が綺麗な夜に、泣いている女の子と出会ったから」
歯が浮くような
「僕の名前は、
私に微笑みかけた青年は、フルネームを明かさなかった。欠けた自己紹介を聞いた私は、すとんと腑に落ちていた。こんな時刻にミモザの木の下に現れた彼も、きっと私みたいにどこかから逃げてきたに違いなくて、私たちは未明の孤独に酔っている。分かっていても、今はまだ現実を夢のままにしておきたくて、私も下の名前だけを名乗った。
「私の名前は、
「
「何の話?」
「名前のことだよ」
このときの
漢字の表記や、意味の複雑さを指摘しただけの、なんてことない
「私も……彗と、話したい」
この居場所は
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