2-3 アトリエと画家の卵
クッション張りの
「今日は、何を読んでいるの?」
「次のレジュメ作りに必要な資料。近代日本の
「うん。ちょっと見せて」
私の隣に座った彗は、積み上げた本の一冊を手に取ると、やがて熱心に目を通し始めた。きっと、私の存在を忘れかけている。知識を求めることに
「あの絵、完成したらどこかに飾るの?」
訊いてみたが、返事がない。やっぱり私の存在は忘れられている。特に気にしないでココアの甘さを楽しんでいると、だいぶ時間がたってから「たぶんね」と穏やかな声が返ってきた。隣を見上げると、彗はまだ本に視線を落としている。
「たぶん?」
「
その名前が、私の時間だけを止めた気がした。一秒だけ世界が寸断されて、一秒後の世界に時間が繋がる。私はどちらにしても彗に忘れられていたようなものだから、存在しない一秒間に私が居た事実なんて、私も忘れたら消し去れる。私は「そっか」と答えると、ココアの残りを飲み干してから、マグカップを洗うために、立ち上がった。
「澪」
キッチンでカランを
「今日はもう遅いから、泊っていって」
こういうとき、彗はずるいと思う。シンクを叩く水音に
*
月光のミストが、クッション張りの出窓から柔らかく降り注ぐ。夜空は漆黒ではなく、多様な色彩に満ち溢れていることを、私はとうに知っていたけれど、見上げる場所が違うだけで、新しい色彩を見つけたような気分になる。
窓のそばで寝返りを打った私は、毛布の中で膝を抱えた。
彗は、隣にある元応接室のソファで眠っている。ベッドを置いていないアトリエで、彗はいつも、このクッション張りの出窓を
去年の春、彗の引っ越しを手伝いに来た私は、この出窓の前で秋口先生と対面した。すらりとした長身の彗よりも背の低い秋口先生は、瞳にぎらぎらと精力的な輝きを宿した画家だった。彗が世界の最も清らかな部分を見つける画家なら、秋口先生はきっと、世界の最も
――『モデルかね。相沢くんの。君も、いつでもここに来なさい』
相沢くんの絵に深みが出る、と。唇の片側を吊り上げて笑った秋口先生は、別の部屋にいた彗に呼ばれて去っていった。
「澪」
はっとして、私は目を開けた。月光の青色に
「起こしてごめん。なんだか寝苦しそうだったから」
「ううん」
「水でも飲む? 待ってて」
「彗」
私は、彗の
「今日は、ここで眠って」
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