2-2 フーロン・デリ
「澪ちゃん。悪いんだけど、あと一時間だけお願いできる?」
そう
私はトングを持ったまま
「今日は、彼の家に行く日なんだ?」
「……彗の所には、行きますけど」
「それなら、無理しないで。お客さんも減ってきたし、店長にもう一度相談してみる。元々、今日はヘルプで入ってもらったものね」
「お気遣いありがとうございます。でも、大丈夫です。彗もきっと、まだ集中してると思いますから」
そう答えた私は、胡麻油の香りが漂う小さな店内を見回した。
若鶏の唐揚げ、餃子、
「彼、今日もうちの学部で話題になっていたわよ。先日の個展、評判が良かったもの」
耳元に唇を寄せて囁かれたので、私はそろりと半歩分の距離を取りながら「そうですか」と言い返す。きっと絢女先輩は面白がって、わざと私にこういう態度を取っている。その証拠に、
「美大ではなく経済学部に在籍して、しかも利き腕を怪我した画家の卵。本人も変わり者だから、有名人にならないほうがおかしいわよね」
「やっぱり変わり者ですか、彗は」
「まあねえ」
「絢女先輩は、彗のどういうところが変わっていると思いますか」
「真面目すぎるところかしら。誰に誘われても、ぜーんぜん遊ばないもの」
なるほど、と私は頷く。「澪ちゃんは、相沢くんのどういうところが変わっていると思うの?」と訊かれたから、私は不意打ちの質問に面食らい、少し考えてから答えた。
「秘密です」
「あら、私には訊いておいて?」
「じゃあ……実は辛いものが好きなところ」
「私、澪ちゃんのそういうところ、結構好きよ」
「そういうところ?」
「大切にしているものは、誰にも触らせないで守るところ」
カラン、とベルが鳴ってドアが開き、絢女先輩の
*
電灯が
二年前から暮らしている街は、緩やかな坂道があちこちにあり、ちょっとした迷路か、誰かの夢の中の秘密基地みたいだ。古びたアパートや商店よりも、冬枯れの街路樹のほうが
家路を急ぐ私の手には、『フーロン・デリ』と店名が入ったレジ袋。
こんな毎日が、ずっと続けばいいのに。
取り留めもなく考えていると、家々の間隔が開いた区画にたどり着いた。古めかしい
小さな木製看板のプレートには、手書きで『
いつしか、私の日常の一部になった匂い。彗の、生活の匂い。
月明かりに青々と濡れた廊下を進むと、ステンドグラスが
金平糖みたいな星形のペンダントライトに、正面の壁から庭側へ大きく張り出したクッション張りの出窓。その出窓が落とす月明かりから左側にイーゼルを立てて、左手に絵筆を握る青年は、椅子から少し身体を浮かせて、キャンバスに顔を近づけていた。
年季の入った木製のパレットに並んだ油絵具は、さまざまなフレーバーのジャムみたいだ。リンゴ、キウイ、アプリコット。
キャンバスに
私は、静かにアトリエに入った。どんな音も聞こえていないと知っていても、仕事の邪魔はしたくない。クッション張りの出窓の右側に移動して、キッチンに『フーロン・デリ』の包みを置いた。くしゃっと
「……『フーロン・デリ』の、激辛麻婆豆腐?」
突然の声を受けて、心臓が跳ねた。私が振り返ると、彗もキッチンを振り返っていた。黒いシンプルなシャツには、絵具まみれの麻のエプロンが掛かっている。彗は、以前より少し伸びた前髪を繊細に揺らして、私に微笑みかけてきた。
「澪が来てくれるときは、杏仁豆腐の甘い匂いのときと、激辛麻婆豆腐の辛い匂いのときがあるから、今日はどっちだろうって楽しみにしてるんだ」
「びっくりした。いつも私が来るたびに、そんなふうに思ってたの?」
「いつもじゃないよ。でも、
「私は食べられないけど、激辛麻婆豆腐って、そんなに美味しい?」
「うん。澪にはちょっと辛いかな」
「ちょっとどころじゃないよ。彗、遅くなったけど、今から食べる?」
「そうだね、こっちも区切りがついたし。バイト、お疲れさま」
「ありがとう。春巻きと炒飯も少しあるよ」
「休んでて。僕がやるよ」
電子レンジに激辛麻婆豆腐を入れていると、彗がするりと隣にやって来た。暖を取りに来る猫のようだと、すらりとした立ち姿を見るたびに思う。絢女先輩の
だけど、本当にそうだろうか。絢女先輩の言葉ばかりを、今日は思い出してしまう。変わり者の、天才画家。平凡な学生として生きる私には、彗のような才能はない。
小さな飾り窓の向こう側で、
この木が、自らの輝きを灯すまで、あと少しに違いない。
互いに言葉にはしないけれど、私も、彗も、そのときを待っている。
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