2-2 フーロン・デリ

「澪ちゃん。悪いんだけど、あと一時間だけお願いできる?」

 そう絢女あやめ先輩に打診だしんされたのは、二十時がせまったときだった。

 私はトングを持ったまま逡巡しゅんじゅんして、「分かりました」と短く答えた。沈黙の意味はすぐに気取けどられてしまい、「本当に?」と訊く絢女あやめ先輩は、チェシャ猫みたいににんまりした。白い三角巾の下で、すっきりと一つにまとめられた黒髪はつややかで、くっきりとしたメイクがよく似合う。赤い唇の左下にある黒子ほくろも色っぽい美女に見つめられると、私はいつもどきりとする。視線を斜め下に逃がすと、絢女あやめ先輩のほっそりとした左手の薬指で、銀色の指輪が照明をきらりと跳ね返した。

「今日は、彼の家に行く日なんだ?」

「……彗の所には、行きますけど」

「それなら、無理しないで。お客さんも減ってきたし、店長にもう一度相談してみる。元々、今日はヘルプで入ってもらったものね」

「お気遣いありがとうございます。でも、大丈夫です。彗もきっと、まだ集中してると思いますから」

 そう答えた私は、胡麻油の香りが漂う小さな店内を見回した。

 若鶏の唐揚げ、餃子、麻婆マーボー豆腐、炒飯チャーハン。色とりどりの中華料理が盛られたショーケース内のブースのいくつかは、すでに売り切れで空っぽだ。あと二時間で閉店なので、窓の向こうは夜色に染まっている。忘れていた寒さを思い出して、トングを置いた私は、制服の白いブラウスと青磁せいじ色のエプロンに袖を通した腕を抱いた。

「彼、今日もうちの学部で話題になっていたわよ。先日の個展、評判が良かったもの」

 耳元に唇を寄せて囁かれたので、私はそろりと半歩分の距離を取りながら「そうですか」と言い返す。きっと絢女先輩は面白がって、わざと私にこういう態度を取っている。その証拠に、相沢あいざわ彗を話題にするとき、私の表情を観察している。ちょっと意地悪なところがあるこの女性を、嫌いになれないのはなぜだろう。私は今日もその理由を、的確に表す言葉を探している。

「美大ではなく経済学部に在籍して、しかも利き腕を怪我した画家の卵。本人も変わり者だから、有名人にならないほうがおかしいわよね」

「やっぱり変わり者ですか、彗は」

「まあねえ」

「絢女先輩は、彗のどういうところが変わっていると思いますか」

「真面目すぎるところかしら。誰に誘われても、ぜーんぜん遊ばないもの」

 なるほど、と私は頷く。「澪ちゃんは、相沢くんのどういうところが変わっていると思うの?」と訊かれたから、私は不意打ちの質問に面食らい、少し考えてから答えた。

「秘密です」

「あら、私には訊いておいて?」

「じゃあ……実は辛いものが好きなところ」

「私、澪ちゃんのそういうところ、結構好きよ」

「そういうところ?」

「大切にしているものは、誰にも触らせないで守るところ」

 カラン、とベルが鳴ってドアが開き、絢女先輩の妖艶ようえんな笑みは、「いらっしゃいませ」という言葉と共に営業用スマイルに切り替わり、お客さんへ向けられた。私も、大学生になってから初めて身に着けた笑顔を作ると、あと一時間だけびた労働に励むために、くっと顔を上げて背筋を伸ばした。


     *


 電灯がまばらにとものぼり坂を、私は心持ち早足で歩いた。

 二年前から暮らしている街は、緩やかな坂道があちこちにあり、ちょっとした迷路か、誰かの夢の中の秘密基地みたいだ。古びたアパートや商店よりも、冬枯れの街路樹のほうがたくましく見える。振り返れば、巨大な滑り台のような坂道を下った先に、満月をゆらゆらと映した海が拡がっていた。光のネックレスを幾重いくえにもかけたようなこの街の夜景を、ひっそりと眺める時間が私は好きだ。

 家路を急ぐ私の手には、『フーロン・デリ』と店名が入ったレジ袋。はすの花のロゴをあしらった中華料理専門のお惣菜そうざい屋は、絢女あやめ先輩の紹介で働き始めたアルバイト先だ。二年前には、レジを打ったり、お惣菜の量り売りをする自分なんて、想像もできなかったのに、私の毎日は変わっていく。店長が持たせてくれたお惣菜は、二月の寒さで凍えた手を温めるのに、香辛料みたいにぴりぴりした焦りが、私を緩慢かんまんかした。

 こんな毎日が、ずっと続けばいいのに。

 取り留めもなく考えていると、家々の間隔が開いた区画にたどり着いた。古めかしいすみ色の街灯が、ダッフルコートとジーンズ姿の私に、だいだいの光を投げかけている。桜色のマフラーに押し込んだ長い髪を片手で払い、私は赤い屋根の平屋に近づいた。

 小さな木製看板のプレートには、手書きで『相沢あいざわ』と記した表札が留められている。インターホンは壊れているので、私は煉瓦の飛び石に沿って洋風扉へ進んだ。ポケットから取り出した鍵で中に入ると、ふわっと油絵具の匂いが漂った。

 いつしか、私の日常の一部になった匂い。彗の、生活の匂い。

 月明かりに青々と濡れた廊下を進むと、ステンドグラスがめられた木の扉から、虹色の輝きが漏れていた。そっと扉を開くと、アトリエの風景に出迎えられた。

 金平糖みたいな星形のペンダントライトに、正面の壁から庭側へ大きく張り出したクッション張りの出窓。その出窓が落とす月明かりから左側にイーゼルを立てて、左手に絵筆を握る青年は、椅子から少し身体を浮かせて、キャンバスに顔を近づけていた。

 年季の入った木製のパレットに並んだ油絵具は、さまざまなフレーバーのジャムみたいだ。リンゴ、キウイ、アプリコット。果物くだもののデッサンを見せてもらったときに、思わず美味おいしそうだと呟いたら、笑われてしまったことを思い出す。

 キャンバスにえがかれている風景は、澄み渡った青空に、赤い屋根を持つ平屋の木造建築。元は著名な画家の別荘で、のちに美大の教授の手に渡り、そして今は、ほんの一年ほど前から移り住んだ画家の卵の、仮住まい。

 私は、静かにアトリエに入った。どんな音も聞こえていないと知っていても、仕事の邪魔はしたくない。クッション張りの出窓の右側に移動して、キッチンに『フーロン・デリ』の包みを置いた。くしゃっとたわんだレジ袋にプリントされたはすの花が、もう少し丁重ていちょうに扱ってほしいと抗議の声を上げるように、私を恨めしげに見上げている。フーロンが外国語で蓮の花を指すことを、私は彗の言葉から知った。美しいものをえがく人は、モデルの生い立ちについても知っている。どうしたら求めるままに多くのことを学べるのだろう。絢女先輩の顔が、脳裏をかすめた。私の周りは、かしこくて優秀な人ばかりだ。

「……『フーロン・デリ』の、激辛麻婆豆腐?」

 突然の声を受けて、心臓が跳ねた。私が振り返ると、彗もキッチンを振り返っていた。黒いシンプルなシャツには、絵具まみれの麻のエプロンが掛かっている。彗は、以前より少し伸びた前髪を繊細に揺らして、私に微笑みかけてきた。

「澪が来てくれるときは、杏仁豆腐の甘い匂いのときと、激辛麻婆豆腐の辛い匂いのときがあるから、今日はどっちだろうって楽しみにしてるんだ」

「びっくりした。いつも私が来るたびに、そんなふうに思ってたの?」

「いつもじゃないよ。でも、速水はやみさんの所でバイトをするようになってから、澪は外から美味しそうな匂いを連れてきてくれるから。なんだか僕も楽しいんだ」

「私は食べられないけど、激辛麻婆豆腐って、そんなに美味しい?」

「うん。澪にはちょっと辛いかな」

「ちょっとどころじゃないよ。彗、遅くなったけど、今から食べる?」

「そうだね、こっちも区切りがついたし。バイト、お疲れさま」

「ありがとう。春巻きと炒飯も少しあるよ」

「休んでて。僕がやるよ」

 電子レンジに激辛麻婆豆腐を入れていると、彗がするりと隣にやって来た。暖を取りに来る猫のようだと、すらりとした立ち姿を見るたびに思う。絢女先輩の台詞せりふが、北風みたいに私の胸に吹き込んだ。大切にしているものは、誰にも触らせないで守るところ。その言葉が正しいなら、きっと彼もそうなのだ。どんなに日常が変わっても、私たちが似た者同士だという事実は、二年の月日が流れたところで、そう簡単には変わらない。

 だけど、本当にそうだろうか。絢女先輩の言葉ばかりを、今日は思い出してしまう。変わり者の、天才画家。平凡な学生として生きる私には、彗のような才能はない。

 小さな飾り窓の向こう側で、こずえの影がゆらゆらと揺れた。遠くの街の輝きが重なって、海から一つだけ光のネックレスを分けてもらえたみたいだ。

 この木が、自らの輝きを灯すまで、あと少しに違いない。

 互いに言葉にはしないけれど、私も、彗も、そのときを待っている。

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