2-4 ラ・ジャポネーズと緑衣の女
寝不足で気だるい身体を起こすと、ふわりと
出窓からの日差しを
午前四時の迷子だった頃みたいに、足音を忍ばせてアトリエを出る。
冷たい水で顔を洗いながら、一限目の講義について考える。学びの場に通っているのに、埋められない
パジャマ代わりに借りたぶかぶかのシャツを洗濯槽に入れてから、私は昨日の服を身に着けて、リビング兼アトリエに戻る。キッチンでトースターに食パンを二枚セットして、フライパンに油を引いたところで、「おはよう」と柔らかい声が掛かった。振り返った私を、
「目玉焼き、今から焼くね」
「僕がやるよ。澪、一限目の講義に遅れるよ」
「まだ大丈夫。彗も、一限目の日でしょ」
「そうだね。でも、僕のほうが、大学が近いから」
私の手から卵を
「今日は、涙目にならなかった」
「本当だ。腕、痛まない?」
「少しね。でも、年々気にならなくなってきたよ。これが、僕の普通になっていけばいい」
僕の、普通になっていけばいい。私は、彗の
「うん。そうだね」
私は、彗の左腕に寄り添って、頭を当てた。「僕の利き腕はこんなだし、左腕も塞がったし、調理の難易度が上がったね」と
キャンバスのアトリエを照らす日差しは、赤い屋根に新雪のような白い輝きを落としている。繊細でありながら大胆に配置された色彩は、高校二年生の冬に、図書室の資料を読んだ日の記憶を呼び覚ました。
「
「ああ、印象派の画家たちが使った技法だね。よく知っているね」
彗もキャンバスを振り返り、
「異なる色彩を分けて配置することで、人の
「一つ? 他にもあるの?」
「うん。ちょっと待ってて」
彗は、キッチンと私から離れると、クッション張りの出窓に向かった。出窓の壁に備え付けの本棚から、分厚い画集を取り出している。その間に、私は冷蔵庫から薄切りベーコンを用意して、熱したフライパンに二枚並べた。ジュッと季節外れの花火みたいな音がして、ベーコンの
「この絵だよ。あと、この絵も」
画集を開いた彗は、カラーで掲載された二つの油彩画を指さした。私は、少し驚いた。彗が選んだ絵画は、雰囲気がそれぞれ異なっていたからだ。
一つ目の
フランスの画家の手に掛かれば、日本の美はこんなふうに表現される。新鮮な気持ちで眺めていると、彗が解説してくれた。
「『ラ・ジャポネーズ』が描かれた頃、浮世絵などの日本美術が、ヨーロッパの芸術に大きな影響を与えていて、ジャポニスムと呼ばれた日本趣味が、フランスでも大流行していたんだ。そんな背景で生まれた『ラ・ジャポネーズ』の十年前に描かれた油彩画が、この『
二つ目の画題は、『緑衣の女』――深緑と黒のストライプ柄のロングスカートを履いた女性が、
「二つの絵は
モデル、という彗の言葉が、割れた鏡の
「彗。今度、何か食べたいものある?」
「どうしたの、急に?」
「何でもないけど……絵のお仕事の合間に、食べたいものがあれば教えて。私、作ってみる。辛いもの以外で」
一応念を押すと、彗は小さな笑い声を立てた。それから考え込むように天井を仰いで、ふと瞬きをした。横顔の笑みが、悪戯っ子みたいに柔らかくなる。
「それなら、スープがいい。澪が前に作ってくれた、真夜中に身体が温まるような」
「? どのスープのこと?」
コーンスープ。ほうれん草のポタージュ。今までに作ったいくつかのスープを思い浮かべていると、目覚ましにセットしていたスマホのアラームが、窓際でけたたましく鳴ったから、私は慌てて止めに走った。
*
アトリエを出た私は、庭をぐるりと一周した。
自由気ままに伸び放題の下草を、スニーカーで踏み分けながら、キッチンの裏手へ歩いていくと、白いガーデンテーブルと二脚の椅子が、朝の冷気にしっとりと濡れた枯葉を載せて、陽光の
以前の住人は、花を愛していたのだろう。煉瓦の塀に囲まれた庭は、小さいながらも四季折々の花が咲く。大きめの水溜まりみたいな池には
彗は、まだ家の中にいる。私は、先に大学へ行くけれど――その前に、この木の下で、済ませておきたいことがあった。
スマホを操作すると、月に一度ほどの頻度で会話する相手の連絡先を呼び出した。コール音が三回聞こえたところで、相手は通話に応じてくれた。
「もしもし、お母さん。……うん。元気だよ。こないだは、野菜を送ってくれてありがとう。……そうだよ。炒め物と、スープにしたの」
二月の風が、マフラーから零れた私の髪を
「あと……大学のこと、ありがとう。合格のことも、お祝いしてくれて、嬉しかった。学費のことも……ごめんね。ありがとう」
風が
「……うん。近いうちに、家に顔を出すね。お父さんにも、ちゃんと直接お礼を言いたいから。……うん。じゃあね」
通話を終えた私は、スマホをリュックに仕舞った。マフラーを巻き直してから、煉瓦の飛び石に沿って門を出ると、誰かの秘密基地みたいな街の坂道を下っていく。
冬の終わりの日差しが、青空に白い
ミモザの木の下で出逢った頃は、高校生だった私たちは、それぞれが親元を離れて一人暮らしを始めて、それなりに忙しい大学生になった。私は、在籍している短期大学で試験を受けて、もうすぐ同じ敷地内にある大学の三年生になる。あと二年、学生でいたかった。学び続けて何者になれるかすら分からないのに、まだ学びの場に居たかった。
彗は、画家としての才能を発揮して、交通事故で不自由になった右腕というハンデを左手で
一緒に食事をして、眠り、朝を迎えて、また夜が来る。出逢った頃は記号みたいだった私たちの関係は、一緒に過ごす時間が増えてゆくほどに、「生きる」ということの現実的な生々しさを持ち始めた。永遠に止まった時間の中で出逢った「ただの澪」ではなく、移ろいゆく時の中で生きる私を、彗はどう思っているのだろう。
アトリエのクッション張りの出窓で目を閉じるとき、心細さで眠れなくなる夜があるのは、いつからだろう。私が大学三年生になるように、彗は大学四年生になる。学生というモラトリアムの終わりが近づくにつれて、私は「ただの澪」ではなくなっていく。記号みたいな存在から、生々しい人間に変わっていく。
分かっていた。私が本当に怖いのは、秋口先生ではないことくらい。
私は、私が、怖いのだ。
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