2-4 ラ・ジャポネーズと緑衣の女

 まぶたに射し込む朝日がまぶしくて、薄く目を開けたときには、重ね合っていた手のひらが離れていることに気づいていた。

 寝不足で気だるい身体を起こすと、ふわりと鼻腔びこうを抜けた匂いが甘くて苦い。油絵具の匂いに、珈琲コーヒー馥郁ふくいくたる香りが融和ゆうわしている。切り揃えた前髪の乱れを手櫛てぐしで直した私は、椅子に座ってイーゼルに向き合っている彗を見つけた。

 出窓からの日差しを燦々さんさんと浴びた黒髪は、もう夜色の瑠璃紺るりこんまとっていない。真夜中の名残のようなからすの濡れ羽色の髪が、日の光をつややかにはじいている。絵を描いている彗は、誰より美しい。私は毛布を畳むと、冷えた床に素足をつけた。

 午前四時の迷子だった頃みたいに、足音を忍ばせてアトリエを出る。うるしのようなつやを照り返す廊下を進んで洗面所に入り、青とだいだいのモロッカンタイルが敷き詰められた洗面所の鏡と向き合うと、晴れた朝には似合わない、えない顔色の私がいた。

 冷たい水で顔を洗いながら、一限目の講義について考える。学びの場に通っているのに、埋められない隔絶かくぜつ感は、どうして拡がっていくのだろう。私は、何者なのだろう。自分の力で見つけた道を、平均台を歩くように覚束おぼつかなく進んでみて、立ち止まったままではたどり着けなかった場所までたどり着いたはずなのに、どうして自分の立った足元に、自信をいだけないでいるのだろう。女だから? モデルだから? 秋口あきぐち先生の言うように? けれど、彗は私の絵を描いたことなんて、一度もない。

 パジャマ代わりに借りたぶかぶかのシャツを洗濯槽に入れてから、私は昨日の服を身に着けて、リビング兼アトリエに戻る。キッチンでトースターに食パンを二枚セットして、フライパンに油を引いたところで、「おはよう」と柔らかい声が掛かった。振り返った私を、んだ琥珀こはく色の瞳がとらえる。私も「おはよう」と返しながら、夢を見ている気分になった。彗と朝の挨拶を交わすようになって、もう二年になるのに。未明みめいの時刻に待ち合わせていた頃の名残が、今も私を時々まどわせる。私は、何が不安なのだろう?

「目玉焼き、今から焼くね」

「僕がやるよ。澪、一限目の講義に遅れるよ」

「まだ大丈夫。彗も、一限目の日でしょ」

「そうだね。でも、僕のほうが、大学が近いから」

 私の手から卵をさらった彗の左手は、骨ばっていて大きかった。故障を抱えた右手に代わって、絵筆を握り続けた左手だ。彗は卵を右手に持ち替えてから、殻をぎこちない動作でまな板にぶつけて、銀色のボウルへ割り入れる。つるりと綺麗に中身が零れ落ちると、唇の端がほんのりと得意げに持ち上がった。

「今日は、涙目にならなかった」

「本当だ。腕、痛まない?」

「少しね。でも、年々気にならなくなってきたよ。これが、僕の普通になっていけばいい」

 僕の、普通になっていけばいい。私は、彗の台詞せりふ反芻はんすうする。美しい人が紡ぐものは、絵画だけではなく、言葉だって美しい。

「うん。そうだね」

 私は、彗の左腕に寄り添って、頭を当てた。「僕の利き腕はこんなだし、左腕も塞がったし、調理の難易度が上がったね」と長閑のどかに言って微笑む彗は、やっぱり変な人だと思う。心を覆うもやが晴れた気がして、私はイーゼルの油彩画を振り返った。

 キャンバスのアトリエを照らす日差しは、赤い屋根に新雪のような白い輝きを落としている。繊細でありながら大胆に配置された色彩は、高校二年生の冬に、図書室の資料を読んだ日の記憶を呼び覚ました。

筆触分割ひっしょくぶんかつ……」

「ああ、印象派の画家たちが使った技法だね。よく知っているね」

 彗もキャンバスを振り返り、いつくしむような眼差しになった。美術を愛する画家の目だ。彗は、もう一つの卵をボウルへ慎重に割り入れると、二度目の成功を確認してから、透明な卵白とオレンジの卵黄に、塩を満遍まんべんなく振りかけた。

「異なる色彩を分けて配置することで、人の網膜もうまく上で色彩を混ぜ合わせる技術は、モネの『印象・日の出』にも、海面に映る朝日などに使われているね。僕が、モネの絵にかれるきっかけになった作品の一つだよ」

「一つ? 他にもあるの?」

「うん。ちょっと待ってて」

 彗は、キッチンと私から離れると、クッション張りの出窓に向かった。出窓の壁に備え付けの本棚から、分厚い画集を取り出している。その間に、私は冷蔵庫から薄切りベーコンを用意して、熱したフライパンに二枚並べた。ジュッと季節外れの花火みたいな音がして、ベーコンのふちり返る。先達せんだつあとを追うように二つの卵を流し入れると、キラキラした油が跳ねる賑やかな音を、フライパンのふたをかぶせて閉じ込めた。そのタイミングで、彗が画集を抱えて戻ってきた。

「この絵だよ。あと、この絵も」

 画集を開いた彗は、カラーで掲載された二つの油彩画を指さした。私は、少し驚いた。彗が選んだ絵画は、雰囲気がそれぞれ異なっていたからだ。

 一つ目の画題がだいは、『ラ・ジャポネーズ』――和室の畳で、赤い着物を身にまとう金髪の女性が、扇子せんすかかげている艶姿あですがたえがき上げた、はなやかな見返みかえり美人図だ。絢爛豪華な着物には、刀を差した凛々りりしい武者むしゃと、金色の紅葉もみじ刺繍ししゅうされている。背後の壁には、団扇うちわを小さなキャンバスに見立てたような日本画が、溢れんばかりに飾られていて、武者むしゃの頭上から降る紅葉もみじのように、いくつかは畳に散っていた。

 フランスの画家の手に掛かれば、日本の美はこんなふうに表現される。新鮮な気持ちで眺めていると、彗が解説してくれた。

「『ラ・ジャポネーズ』が描かれた頃、浮世絵などの日本美術が、ヨーロッパの芸術に大きな影響を与えていて、ジャポニスムと呼ばれた日本趣味が、フランスでも大流行していたんだ。そんな背景で生まれた『ラ・ジャポネーズ』の十年前に描かれた油彩画が、この『緑衣りょくいの女』だよ」

 二つ目の画題は、『緑衣の女』――深緑と黒のストライプ柄のロングスカートを履いた女性が、褐色かっしょくの髪を結うリボンを気にするように、ひかえめな仕草で振り返っている。ファッションは異国のものなのに、浮世絵の美人画を彷彿ほうふつとさせる構図は、先ほど見た『ラ・ジャポネーズ』と、どことなく重なるものがあった。

「二つの絵はついとなっていて、モデルの女性は同一人物なんだ。モネの妻の、カミーユ・ドンシュー。『ラ・ジャポネーズ』の金髪は、かつらをかぶっているんだよ」

 モデル、という彗の言葉が、割れた鏡の破片はへんみたいに、私の心臓に刺さった気がした。そのとき、トースターが止まったから、この話はおしまいになった。私は食パンを皿に移して、彗も画集を閉じてから、コンロの火を止めた。朝食の支度したくに戻りながら、私は自分にできることを見つけたくて、何気ない調子で訊ねた。

「彗。今度、何か食べたいものある?」

「どうしたの、急に?」

「何でもないけど……絵のお仕事の合間に、食べたいものがあれば教えて。私、作ってみる。辛いもの以外で」

 一応念を押すと、彗は小さな笑い声を立てた。それから考え込むように天井を仰いで、ふと瞬きをした。横顔の笑みが、悪戯っ子みたいに柔らかくなる。

「それなら、スープがいい。澪が前に作ってくれた、真夜中に身体が温まるような」

「? どのスープのこと?」

 コーンスープ。ほうれん草のポタージュ。今までに作ったいくつかのスープを思い浮かべていると、目覚ましにセットしていたスマホのアラームが、窓際でけたたましく鳴ったから、私は慌てて止めに走った。


     *


 アトリエを出た私は、庭をぐるりと一周した。

 自由気ままに伸び放題の下草を、スニーカーで踏み分けながら、キッチンの裏手へ歩いていくと、白いガーデンテーブルと二脚の椅子が、朝の冷気にしっとりと濡れた枯葉を載せて、陽光の欠片かけらきらめかせた。すぐそばには一列に植えられた水仙すいせんが、緑の葉を瑞々みずみずしく伸ばしている。

 以前の住人は、花を愛していたのだろう。煉瓦の塀に囲まれた庭は、小さいながらも四季折々の花が咲く。大きめの水溜まりみたいな池には睡蓮すいれんも咲くので、昨年の夏は、彗が庭にイーゼルを立てて動かなくなった。懐かしい気持ちになった私は、水仙すいせんの葉を見下ろした。一斉に開花するまで、あと少しに違いない。次に、背筋を伸ばして頭上を仰ぎ、吐息をついた。こちらの開花も、もう少しだ。

 彗は、まだ家の中にいる。私は、先に大学へ行くけれど――その前に、この木の下で、済ませておきたいことがあった。

 スマホを操作すると、月に一度ほどの頻度で会話する相手の連絡先を呼び出した。コール音が三回聞こえたところで、相手は通話に応じてくれた。

「もしもし、お母さん。……うん。元気だよ。こないだは、野菜を送ってくれてありがとう。……そうだよ。炒め物と、スープにしたの」

 二月の風が、マフラーから零れた私の髪をなびかせる。頭上のこずえも、さわさわと乾いた音を立てた。深呼吸してから、私は言った。

「あと……大学のこと、ありがとう。合格のことも、お祝いしてくれて、嬉しかった。学費のことも……ごめんね。ありがとう」

 風がんで、アトリエの庭に静寂が流れた。まだ揺れている細枝だけは、梢がこすれる小波さざなみのような音を止めないで、私に寄り添い続けてくれた。

「……うん。近いうちに、家に顔を出すね。お父さんにも、ちゃんと直接お礼を言いたいから。……うん。じゃあね」

 通話を終えた私は、スマホをリュックに仕舞った。マフラーを巻き直してから、煉瓦の飛び石に沿って門を出ると、誰かの秘密基地みたいな街の坂道を下っていく。

 冬の終わりの日差しが、青空に白いかすみをかけている。大学に行く前に、自分のアパートに寄って着替えなければならない。春の足音と足並みを揃えるように、坂道の力を借りた小走りでアスファルトを蹴る私は、冷えた潮風を真正面から受け止めた。

 ミモザの木の下で出逢った頃は、高校生だった私たちは、それぞれが親元を離れて一人暮らしを始めて、それなりに忙しい大学生になった。私は、在籍している短期大学で試験を受けて、もうすぐ同じ敷地内にある大学の三年生になる。あと二年、学生でいたかった。学び続けて何者になれるかすら分からないのに、まだ学びの場に居たかった。

 彗は、画家としての才能を発揮して、交通事故で不自由になった右腕というハンデを左手でくつがえし、めきめきと頭角を現していった。秋口あきぐち先生と出会ってアトリエを得た彗は、あの古民家でさまざまな油彩画を生み出して、私はそんな彗の生活に寄り添った。

 一緒に食事をして、眠り、朝を迎えて、また夜が来る。出逢った頃は記号みたいだった私たちの関係は、一緒に過ごす時間が増えてゆくほどに、「生きる」ということの現実的な生々しさを持ち始めた。永遠に止まった時間の中で出逢った「ただの澪」ではなく、移ろいゆく時の中で生きる私を、彗はどう思っているのだろう。

 アトリエのクッション張りの出窓で目を閉じるとき、心細さで眠れなくなる夜があるのは、いつからだろう。私が大学三年生になるように、彗は大学四年生になる。学生というモラトリアムの終わりが近づくにつれて、私は「ただの澪」ではなくなっていく。記号みたいな存在から、生々しい人間に変わっていく。

 分かっていた。私が本当に怖いのは、秋口先生ではないことくらい。

 私は、私が、怖いのだ。

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