第9話 パイロット

「喋り過ぎたかしら。ごめんなさいね、別に夫と別れた事を後悔してはいないけれど、彼の事を話せる機会が中々にないから、ついつい熱が入っちゃった」

 私は戸惑っている風を装って言った。伯爵の顔はやや赤らんでいる。

「いえ、僕からしてほしいと頼んだ話です。歳を取っていく度、全くしがらみのない人と出会うことは珍しくなりますからね。何より、子供じみているかもしれませんが、彼と一度勝負をしてみたくなります。彼のような人物となら、お互い躊躇いなく、純粋に腕を競えるでしょう。それと……」

 伯爵は口を閉じ額に指を当てた。明らかに、思う所があるのだ。だけど彼は私の夫について、どのような想像をしたのだろう。私達の関係が法的な婚姻で始まらなかったと明言した時も、伯爵は嫌悪している風ではなかったけれど、同じ表情を浮かべていた。

「その公爵の話を聞いているうちに、ある人の事を想い出してしまったんです。彼は僕に、どうしようもないものを押し付けて去っていった」

 今この瞬間、きっとどこかで俳優は息を呑んでいる。伯爵は一瞬、周囲を軽く見まわし、そして話を始めた。

「僕がパイロットを目指したのは、ある男がきっかけでした。十歳の頃の話ですので、今から実に三十年以上前の出来事です。彼は外国から来たエアタクシーのパイロットで、僕の父がその客でした。それで僕も、ついでに彼の飛行機に乗せてもらえたんです。その男は貴方の夫と同じように、戦争中はエースパイロットとして名を馳せ、曲芸飛行も得意としていました。僕は初めての飛行でいきなり一流のパイロットの縦横無尽な芸当を堪能できたというわけです。途轍もなく楽しくて、自分の手で飛行機を動かしたいと思うのは当然のことながら、彼という人物にも大きな尊敬と愛を抱きました」

 もしかするとその男が、俳優の言っている空軍元帥だろうか。次は私が遮らずに聞く番だ。

「いわば洗礼者のようなものです。たかが一回きりの出来事だというのに、彼が僕の道を真っ直ぐに開き、僕は全力でそれを走り始めた」

 そういえば、夫は何がきっかけでパイロットになろうとしたのだろう。彼はそんな話を私にはしなかったし、私はバイクや車や飛行機が常に彼の傍にあるものだと思い込んでいた。

「一部の男にとって友人とは、敬意を持ちながらも同時に奇妙に張り合ってしまうものでありますが、彼はまさにそうでした。曲芸飛行をやっていた時期は僕の方が長いですが、腕が彼に勝るかどうかは別です。彼と同じ飛行機で飛んだら、僕の負けかもしれない。それでもいい、一度僕と腕比べをして欲しかった」

 伯爵は寂しげな表情を浮かべた。

「……それなのに彼は、ある時から、パイロットであることを辞めてしまったんです。彼の向かった先は、目も当てられないものだった。それが僕の心を重くしただけでなく、僕から一番の友人達を遠ざけた」

 その男の向かった先については知っている。国家規模での自己愛に満ちた集団の中だ。伯爵は酔いが醒めているようには見えない。今話している言葉は、彼の本音だ。

「友人達の故郷はナチスに侵略され、亡命先となったこの国の人々はそれがどういう事かを理解していなかった。そして彼らは、僕とその男の縁を肯定的に語る人を見て、僕から離れていった。彼らの事を想うと、最早その男を友とは呼べません。最高の思い出に向かって、『押し付けられた』なんて、身勝手な態度かもしれませんがね。憤ってしまうのは、きっと飲みすぎでしょう」

 伯爵は液体の残っていないグラスを掴んで軽く傾けた。追加の注文はせず、軽く振ってそのままテーブルに戻した。

「そうして、貴方の公爵にもし会えたらとを考えてしまいました。ひょっとすると、公爵の飛行を見てパイロットを目指す少年が、スペインにいるかもしれません。いえ、きっといるはずです。……だから、もし彼に会う予定があるなら、貴方は絶対に曲芸飛行を続けるべきだと、ある男が言っていたと伝えてください」

「わかったわ。約束する」

 私は最後に会った時の、居場所をまた一つ失ったといった有様の公爵の姿を思い返した。大貴族の生活に未練は無いが、ともかく早く飛行機を手に入れたいものだ、と彼は言っていた。自分には空がある、一介のパイロットとして生きるのも身軽で良いだろうと、別れ際に随分大袈裟な仕草で語るものだから、あまり本心には見えなかったけれど。

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