第8話 愛人
「彼の愛人として暮らしている間は、きっと幸せそのものだったわ。だけど、彼の心をどうやって射止めたのか、自分でもよくわからなくて。いつの間にかそうなっていたとしか言いようがないの」
伯爵には何一つ話さない心算でいるけれど、実際には初めて私達が結ばれた日の事はよく覚えていた。その日、鉄衛団が大規模な暴動を起こした。そして私は偶々朝から一人で外出していた。つまり、周りに頼れる男はいないまま、ユダヤ人だと知られた瞬間に獣と化した連中にあらゆる無道を働かれた上に殺される可能性があったということだ。
それに気づいた瞬間、私はパニックに陥った。家に帰る道ではなく、漠然と逃げ道を探し始めてしまった。判断力の無いまま市街地を離れようと彷徨い、そうしているうちに、暴動に辟易した様子の公爵に出会った……のだと思う。
ここから話すことは、全てお芝居みたいなものだ。私は内心で呟いた。
「公爵には、他に幾らでも女性がいたはずよ。だけど、わざわざ私の為に家を買って一緒に暮らすと決めてくれたの。私は確かにとびきり可愛かったかもしれないけれど、同じくらい飛び抜けて運がよかったのね」
本当はずっと、彼の心を占めていたのは愛情ではなく憐れみだっただろう。私は、公爵を認識した後、自分が何を言ったか全く覚えていない。ただ命だけは助かりたい一心で、一晩だけでも愛を交わしたいなんて話をした気もする。彼の目から見たら、まるで売春婦だったかもしれない。そして、気が付いたらホテルのベッドにいた。
「家を?」
伯爵は私の言葉に当惑したようだった。
「ええ、彼の家には住めなかった。彼には妻子がいたの。貴方の国では不道徳かもしれないけれど、私の生まれた国では愛が道理を捻じ曲げるのはおかしなことじゃないわ」
世間から見れば公爵の行動は「罪深い行為」だった。勿論、家庭を裏切ったことではなく、「国家の敵」であるユダヤ人を囲い、それも空軍基地の近くに家を買い与えたことについて。秘密警察が私にスパイの嫌疑を掛け、彼は空軍から除隊された。
それを知った私は震え上がった。もし、公爵の気が変わったら? 彼にとって戦闘機パイロットの任務は極めて魅力的だったし、若く美しい女は幾らでもいた。公爵に捨てられたら、私はまた死の恐怖に怯えながら生きていかなくてはいけない。
その程度で愛が冷めると思ったら大間違いだ、と公爵は言っていた。彼は自分について、愛国者ではあるけれど、政府の誤った政策にまで服従するつもりはないのだと何度も口に出した。結局、他に人材がいないという理由で、私を捨てることなく公爵はなんとか戦闘機部隊に復帰できた。
「悪い事をしているとは、少し感じたわ。だけど、シンデレラのような幸せは手にした瞬間からもう私のものだと思ったし、彼とは別れたくなかった」
公爵はまるで、少し歪な御伽話の
「……」
伯爵は何かを考えているようだった。この国の道徳観については知らないけれど、私はきっと、彼の歩んできた人生からすれば信じられないことを平気で話しているように見えるのだろう。
「戦争が終わるまで、ずっとそんな風に暮らしたわ。私はその間も女優への夢を持ち続けていたけれど、戦争中だもの、撮影自体が随分減って、募集に名乗りを上げるのも難しかった。だからさっき話した『白の飛行中隊』に出演できるとわかった時は、公爵に心から感謝したわ」
いつでもそうだった。公爵は私にとても優しくて、夢を叶える為に力になれることはあるか考えてくれた。私にイタリア語とフランス語を学ぶよう勧めて、喋り方の練習をしてくれた。
だけど、彼の優しさもきっと、義務感から生まれていた。仮に自分が見捨てたら、政府当局や反ユダヤ主義者に目をつけられた私がどれ程悍ましい目に遭わされるかをよく認識していたから、ずっとあの夢の鳥籠の中に囲ってくれただけ。若さや美しさ、その他のどんな魅力的な要素も、彼が私と一緒に暮らした理由ではなかった。贅沢な望みかもしれないけれど、私はそれが少し悔しかった。
そもそも、私が自分を「ユダヤ人」だと認識するようになったのだって、世間が親や祖父母がユダヤ人である人間のことをそう呼んだからだ。私は小学校卒業以来シナゴーグに行ったこともないし、ずっとルーマニア語で喋ってきた。最初の夫は確かにユダヤ人だったけれど、それは親が決めた相手だった。私は同じ年頃の多くの女の子や婦人と同じように格好いい男の人やお洒落な服が好きな、ただの市民であって、ソ連のスパイの共産主義者でも、労働者の生き血を啜る冷酷な資本家でもなかった。
この反発が、私の意思をより強固なものにしたのだろう。女優として、私はどんなヒロインにだってなる気でいる。オーストリアの歌姫、フランスの公爵夫人、ドイツのスパイの悪女、北欧の先住民族、それから自分そっくりな人生を歩んだ田舎町のウェイトレス……そのうち、女王様にもなってしまいたい。
先程まで考えていた事とは少し矛盾するかもしれないけれど、ファシストも共産主義者も、自分を普通の市民だと信じる人々も、ユダヤ人に対して言いたい放題を言ってきた。私はシオニストではないけれど、そんな世界に何処か反発を感じているのだと思う。だから、私は全力を尽くして、私の演技で世界に言い返したい。彼らが何も知らないまま、私の演技に代えがたい価値があると声を上げて讃えるように。
そろそろ、思考を伯爵とのお喋りに戻さなければいけない。私は寂しそうな表情を作った。
「だけど、知ってのとおり私達の国は共産化してしまった。名声も財産も失った公爵は、漸く舞台女優として仕事ができるようになった私とは、一緒にいるのが嫌になったの。徹底して私の前では慈悲深いご主人様でいたい、自分が落ちていく姿を見せたくない、そんな風だった」
私は一度、イタリアに亡命して間もない頃の公爵と会った。私が映画の撮影は順調で、生活も不自由していないと告げると、彼はほんの少しの間、表情を失った。自分はもう必要ないのだと認識してしまったのだ。私にだって恩を返させてほしいという思いはあったのに、彼はそれ以上何も言わせず、適当な理由を作って去っていった。
「それで、別れたんですか。僕にはそこまで意固地にならなくても良いように思います。少し考え方が古いというか……しかし、僕の父や兄なら彼に共感するのかもしれませんね」
伯爵はそう言うと、グラスのウィスキーを勢いをつけて飲んだ。そして、苦そうな表情を浮かべ深い溜息を吐いた。
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