第7話 公爵
「夫はいつも自分の操縦の腕を誇りにしていたわ。曲芸飛行の時はあっと言わせるスリリングな飛行、旅客機を操縦する時は地面に立っているのと寸分変わらないような安定した飛行、そして戦闘機に乗っている時は、命懸けのスポーツを全力で楽しむようにしていると言っていたの」
「殺し合いがスポーツ? その部分だけは、僕は彼とは馬が合わないかもしれません」
伯爵は戸惑いも露に言った。これは彼の心に、ナチスを信奉するような野蛮さへの傾倒が無いことの証明の一つと捉えられないわけではない。だけど、同じ
「それ以外は面白い話ができそうです。僕が元々曲芸飛行をしていたと言うと、旅客機一筋のパイロットからは危険な操縦をしでかすんじゃないかと疑われることがあります。もしかしたら彼にも、そんなことがあったかもしれませんね」
「夫は旅客機の操縦も、時々は背筋が凍るようなことがあると言っていたわ。私と彼が出会ったのも、激しい乱気流で墜落するんじゃないかって思うようなフライトの最中だった。私が新婚旅行中の乗客で、彼が機長だったの。公爵様でも人に頭を下げることがあるんだって、少し驚いてしまったわ」
俳優が伯爵に疑いをかける理由として挙げたのは、その家族だった。夫の爵位を口に出せば、彼も自分の家について語るのではないだろうか。
だけど私の思惑に反し、伯爵は無言で私から目を逸らした。何を思っているのだろう。
「……公爵?」
ややあって、そう尋ねる声には取ってつけたような様子があった。私が狙ったような対抗意識が生まれているようには思えない。
「ええ。彼はとんでもなく裕福で、由緒正しい家柄で、広大な土地を持っていたわ」
「僕とは大違いですね。僕は驚くほどお金が無くて、家柄にこそ由緒と名誉はありますが、自分の財産は精々我が家一軒です」
伯爵は冗談めかして言った。物陰にいる俳優はどう考えるだろう。本当に彼の信じるとおりなら、「その階級に反し意外にも慎ましい暮らしをしていた伯爵は、戦争を機に急に羽振りが良くなった」といった噂が流れていないか探すのだろうか。
「そうは言っても、貴方の一門も素晴らしい人を輩出してらっしゃるんじゃないの」
「それは……まず、従兄がオリンピックの選手でした。兄が犬を飼っていて、妹は勇気あるレディで、なにより可愛いです。彼女は誰が相手だろうと大人しくなんかしませんよ。きっと、僕より勇敢でしょうね」
伯爵はそこまで話して、再び口を慌てて閉ざした。お酒が回って、注意力が落ちているのかもしれない。
「それより、その公爵の話をもう少し聞かせてくれませんか」
「いいわ。彼が私を初めて見たのは、さっき話した新婚旅行の日よ。だけど、私の方ではもっと前から、彼の曲芸飛行を何度も見に行っていたの。その頃、ほんの少女だった私は、彼のハンサムな容姿と豪華絢爛な家柄、そしてあらゆる人を魅了するパフォーマンスに夢中になったわ。貴方もきっとそうしてたでしょうけど、逆さ向きで地面すれすれを飛んだり、宙返りを繰り返したり、兎に角凄かったの。実際に彼の愛人になって暫くは、そんなことを全然思い出さなかったのが少し不思議なくらいよ」
私がそう話すと、伯爵は興味深げに頷いた。もしかしたら、彼には私の話した光景が直ぐに想像できたのかもしれない。
「彼と是非一度腕比べをしてみたいものです。公爵は今もルーマニアで空軍か、航空会社の仕事をしているのですか」
「いいえ、私と同じく亡命したわ。共産党政権は彼から財産も名誉も何もかも取り上げて、挙句に亡命ついでに金の密輸出に加担した疑いまでかけたの」
私は最後の一言については、伯爵が自分に掛けられた疑いについて考えない筈がないと確信した上で話した。そして予想通り、伯爵は私の顔を真っ直ぐに見ながら尋ねた。
「彼はそのような事をする人ではないと信じていますか」
「勿論よ。幾ら貧しくなったところで、あの人は社会で恥と考えられていた事には決して手を染めない筈よ。何かにつけてプライドが高いんだもの」
私と別れたのも、多分彼の矜持が受け入れ難かったからなのだろう。戦争が終わり、私は堂々と街を歩けるようになり、やがて女優の仕事も得られた。反対に、彼は共産党の敵そのものだったから、社会から居場所を奪われていった。
その頃私はフランスかイタリアに行きたかった。もう一度映画に出演するチャンスを探したかったのだ。だけど、公爵の妻である限り私は国外への渡航を認められなかった。私達はお互い、直接言葉には出さなかったけれど、それを認識していた。
他に女ができた、君以上に素晴らしい人が。そんな風に言って、公爵は出て行った。私はその言葉を素直に信じて彼の身勝手さに腹を立て、意地でも成功する覚悟で持てる限りの財産を持って国を出た。だけど、五年も経った今は流石に彼の真意も理解できている心算だ。
私はユダヤ人なりに酷い目に遭ってはいたけれど、露骨に憐れまれるのは好きではなかった。公爵はそれを知っていたから、あんな行動に出たのだろう。いつか私に捨てられる前に捨ててやるという気持ちもあったのだろうけれど。
自分の心の中でそんな風に喋っていると、伯爵は安心したような表情を浮かべた。
「本当に彼とは話ができそうだ。もしよければ紹介していただきたいところですが……流石に難しいですかね」
「そうしたいのはやまやまよ、だけど彼が今何処に住んでいるかは知らないの。スペインで市民権が得られたとは聞いたけれど」
亡命先でも、公爵は有名人だった。同じく戦後の共産化で出国を余儀なくされた人達が、彼を放っておかなかった。その噂は探さなくても私の耳によく入ってきた。
「わかりました。それなら、貴方と彼の話をもう少し聞かせてくれませんか。プライベートな話ですから、話せる限りで構いませんが、例えば、どんな風に出会ったのか」
明らかに、伯爵は話を逸らそうとしている。お酒が程よく回って、隠し事が露呈する危険性を自覚しているのだろう。だけど、私は元々夫について話したいとも思っていたから、丁度いい。
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