◇
学舎にも新入生が入ってくる。
主に清香の出身ではなく外からの人たちだ。
医学を学ぶため、わざわざ清香に入門してくる。
彼、彼女らは清香の洗練された雰囲気と不釣り合いでどこか野暮ったく、最初のころは存在が目立った。
いつものように駆は冬摩と昼に食堂へ来ていた。
長い列のすぐ前に駆たちと同年代の、でも見かけない顔があった。
講義でも一緒になったことがないため、級は駆より下なのであろう。
声を潜めているようだが、こうも近いと会話が意識しなくとも耳に入ってくる。
「あの部屋覗いたか?あれが噂の御当主の長女なんだと」
「あんなに綺麗な人が?御当主の怖い顔とちっとも似てなかったぞ。
そりゃあ婚約がかかってたら誰でも当主目指すわな」
結のことを話しているのだと駆も冬摩もすぐに分かった。
男たちはにやにやと笑っていていい印象は持てないが、避難するほどでもないため黙っていた。
しかし、冬摩の頭が冷静でいられたのはここまでだった。
「もう一人、一緒にいた人のこと知ってるか?」
「あぁ。紫苑さんだろ。綺麗すぎで驚いたな」
「そうそう。聞いてはいたが、あんなに美人だとは思っていなかった。男なのがもったいないよなー」
ここで男たちは同意を示すようにけらけらと下品に笑う。
冬摩は、心の中の黒く細い糸が独りでにぐじゃぐじゃとうごめくのを感じた。
一人が「でも」と続ける。
「あんだけ美人だと俺、男でもいけるかも」
ぐちゃぐちゃに絡まった黒い糸が大きく成長して冬摩の視界を塞いだ。
「…俺、昼はもういいわ。部屋に戻る」
低く、暗い声で冬摩が言った。
目の前にいる男たちの会話が冬摩の気分を損ねたことに違いなかったが、駆からすればそこまで腹を立てることではないように感じられた。
「おい、待てよ。冬摩」
冬摩の背中はもう遠く、駆は仕方なくそのまま列が進むのを待った。
腹の虫が鳴いてたのを聞いていたから、冬摩が腹が減っているのは確かなはずだった。
駆は食堂で握り飯を作ってもらい、冬摩の自室へ向かった。
「冬摩。ほら昼飯、持って来てやったぞ」
散らかる部屋の奥、冬摩は机に向かっていた。
なにか考え込んでいるようだったが筆は動いていない。
いつも駆を迎え入れてくれる花畑も襖が締め切られていて見えない。
より一層窮屈な空気を閉じ込めているように感じた。
駆は気に留めない風を装って冬摩に話しかける。
「あいつら、下らなかったが別にお前がそこまで怒る必要ないだろ」
「……」
「『人を悪く言うのは、羨ましくて憧れてるだけ』なんだから気にすることないって。あぁ、でも今日は悪く言ってたわけでもないか」
「は…お前、その言葉どこで」
「ん?あぁ、紫苑に前言われたんだ」
駆が清香にきて間もないころ、訳も分からず怪我を負わされたところを紫苑に助けてもらった時だ。
駆はそんなこともあったと思い出し、照れくさくなって鼻の下を掻いた。
「そうか、紫苑が」
「そうだ。いいからほら食えよ。せっかく俺が持ってきたんだから」
冬摩が駆に反応を示している内に握り飯を渡した。
冬摩はもそもそゆっくり、でも美味しそうにすべてを腹に収めた。
食事の力とは凄まじいもので、満腹になった冬摩の機嫌は随分よくなった。
気難しそうで、深い思考のもつ冬摩でも自分と同じ年ごろのただの食べ盛じゃないか、と駆は思った。
その後は部屋を追い出されることもなく、最近進めている研究の意見を交わしあっていたらいつの間にか暗くなっていた。
「冬摩。俺、出かけてくるよ。
泊まりになるから、明日は一人でちゃんと起きるようにね」
襖の向こうから紫苑の声が聞こえた。
駆が襖を開けると見慣れない外行の着物を纏った紫苑がいた。
「こんな遅くにどこ行くんだ?」
「今日はこれから隣町で宴会。列車に乗ってね」
紫苑が17か18歳くらいから当主は医者の集まる会に紫苑を同席させ、連れまわしはじめた。
そして二十歳を超え、酒が解禁となると一人で宴会によく借り出されていた。
当主がこの手の宴会を毛嫌いしていたからだ。
他の医者と比べるとまだ若い分類に入る現当主は、集まる老人たちの説教を聞かされるだけの宴会は苦痛らしい。
その点、紫苑であればうまいこと聞き流したり、心地よい言葉で喜ばせられる。
そしてなにより美人の御酌にご満悦なのだ。
それにもし仮に間違いがあったとしても男の紫苑なら罪に問われないという保証付きだった。
紫苑はそこまでを理解した上で清香代表として酒宴に参加する。
器用な奴だが、器用だからこそ不憫で、冬摩はこのことについてあまり良くは思っていない。
どうにかして早く紫苑を…。
冬摩の苛立ちが駆にも伝わってくる。
「一人で起きれるっての」
「そう。じゃあ行ってくるね」
紫苑はいつもと違う、深い藍色の羽織をはためかし玄関へ向かう。
「おい。紫苑一人で行かせて大丈夫なのか」
「別に何も問題ないだろ」
「こんなに暗い夜に。冬摩、駅まででも送ってやらないのか?」
「しつこいな。大丈夫だって言ってるだろ」
頑固な冬摩に呆れ「はあ」と駆はため息を付き、ふとこの間目にした新聞の見出しを思い出す。
冬摩は新聞を読む習慣がないため、最近のこの辺りの治安の悪さを知らない。
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