(5)

『桜の満開予想』『夜道で女性へ暴行。手籠めにする』


そんな見出しが並ぶ朝刊を駆は眠い目をなんとか開けて眺めた。

「新聞は世間を知る機会になるし、言葉の勉強になるから毎日読みなさい」父の言いつけ通り駆は朝食前に必ず新聞を読む。

父は駆が物心ついた時から教育熱心だった。

ドイツにいるときから医学を教え、ドイツ語の他に英語と日本語が不自由なく使えるように学ばせた。

箸の使い方まで丁寧に教え、駆が日本に戻ってから困らないようにしていたのだと思う。

よく考えると『駆』という名前を付けていることからも父は日本に戻るつもりだったことが分かる。

そのお陰で駆は暮らしにすぐに馴染めたため感謝はしている。

しかし父の教育に対する熱は清香にきてから上がるばかりだった。

駆はというと、父がどうしてそこまで当主の座に執着があるのか謎であったし、今は冬摩と研究しているのが楽しく薬学を極めたいと気持ちが傾いてきてもいる。

父は駆が冬摩とつるんでいることをどう思っているか知らないが、駆の成績は常に良くあり続けたため特に咎めはなかった。


それに加え、最近塞ぎがちな母の後ろ姿に目をやる。

いつも笑顔で見送ってくれるが確実にため息が増え、顔や髪に張りもなくなった。

駆も本意ではないが小さくため息をつく。

しかし考えないように頭を振った。


桜の満開予想は外れ、清香の木にはすでに花が凛と咲き誇っていた。


駆が清香に来て1年が経った。

花見という文化があることを冬摩たちから教えてもらい、今年は結を誘って桜を見ようと思っていた。


「夜だからきっと、結ちゃんは浴衣を着てくるよ。駆、浴衣着たことある?」


「ない」と紫苑に答えると「じゃあ冬摩のを貸してあげるから着てみなよ。特別な気分になるよ」

そう言われたため結に会う前に紫苑のところで着付けてもらった。

恰好なんてどうでもいいと思っていたが、いざ着てみるとなかなか良い。

背筋が伸びるような気がするし、落ち着いた大人な雰囲気が出ると思った。


「駆。お待たせしました。…浴衣を着ているのね。良く似合っています」


結が風呂後の石鹸の匂いを纏って駆の隣へ座った。

同じ石鹸を駆も冬摩も使っているのに結が使うと極上の甘さが加わるのは何故か。

ふわりとした笑顔に駆も幸せの笑みが零れる。


「結は今日も綺麗だ。いつもより力が抜けた感じがあってなんだか新鮮」


「日中は勉強であったり仕事であったり、気を張っているのだと思います。

たくさんの人に見られていますし。でも今は駆だけですから」


結はそう言って少し顔を赤らめる。


「寒くないか?これ、膝にかけて使って」


これも紫苑に借りた冬摩のほとんど着ない羽織だった。

しっかり者の結は夜が冷えることは承知の上、羽織は着てくるからいらないのではと紫苑に言うと「お馬鹿。これは膝にでもかけてあげて。あなたを気遣ってますって気持ちが大事なんだよ」と言われ、この人はなんでこう次々に女性の喜ばせ方が出てくるのかと驚いた。


「ありがとう。ふふ、紫苑さんに助言でも頂いたのですか?

それでも嬉しいです」


紫苑の入れ知恵だということはすぐに見破られてしまったが、これで結は温かいし、結の笑顔がまた見れて駆の心は温かくなった。


「去年ここに来た時、この花はアーモンドの花だと思ってたんだ」


「アーモンド」


「あぁ。菓子作りに使ったり、油を絞ったりするんだ。花の色や形もよく似ている」


「いつか見てみたいです」


駆は返事の代わりに、にっと笑ってみせた。


「この花、結にも似てる。白く光ってて優しい匂いがして。遠くから見ると綺麗さに圧倒するけど、一輪一輪はふわっと笑うように咲いてる」


結は駆があまりに愛おしそうに桜を見上げるため、自分のこともそのように見ているのかと考えていると反応に遅れた。


「そ、そんなに恥ずかしげもなく、よく誉め言葉が出てきますね」


「本当に思ったことを言っただけだ」


駆の清らかな笑顔が何より結の胸を温かくした。


「…ありがとうございます。駆」


「俺、初めての花見が結と一緒ですごい嬉しんだ。

結は花見なんてもう何度もしているだろうけど」


「そんなことないです。男の人と二人きりなんて、私も初めてです」


「そうなのか」と駆は意外に思った。

冬摩が言うに、結との婚姻が目当てで当主を目指す男がたくさんいることを聞いていた。

花見など大勢に誘われているのだと思っていた。


「あの方たちは当主になれさえすれば私との婚姻が約束されることを知っていますのでそれしか考えていない。私と何かしようなど思いもしないのでしょう」


結の瞳にすっと影が入り駆は”他人を見る目”になった、と思った。


「俺は、今の結といろいろなことがしたい。

これからのこととか、当主のこととかどうなるか分からないけど。少なくとも、それまでは」


「冬摩や紫苑だって一緒に」と駆が付け足すと、「そこは二人きりと言わないのね」と心の中でくすりと笑い、だからこそ駆は特別なんだと結は感じた。


「冬摩からは花見、誘われたことなかったのか?」


駆は今の話を聞いて、結が気兼ねなく接することができるのが冬摩くらいなのではないかと思い尋ねた。


「ええ。紫苑さんや葵も一緒に何度か。

でも冬摩は私より葵を気に掛けているようでしたから。

葵は自分では全く気にしていませんけど、あの活発さが父と反りが合わず邪険にされることがあったので。心配だったのでしょう」


それはなんとなく駆でも分かる気がした。

でも今の葵がのびのびとしているのは結や冬摩など理解のある人が味方についてくれているお陰だと思った。

それに今は自分もそうでありたいと思っている。


「結。来年も誘っていいか?花見」


「はい。もちろんです。何度でも誘ってください。

今日は本当に楽しかったです」


あなたとなら、どこでだって、何をしたってきっと楽しいに違いない、と結は出かかった言葉をいつか言えるようになる日まで心の中に仕舞った。



昼過ぎ、駆が冬摩の研究室に着くと、すでに先客がいた。

葵だ。

葵は最近、用もないのにここによく来る。

そんなに広くない場所にこう人が集まると余計に狭く感じる。


葵はあれから、父と和解したとまではいかないが、自分の気持ちを伝えることはできたようだ。

さらに武術に打ち込み、逞しくなっていった。

駆はそのうち当主の方が太刀打ちできないくらいに強くなるのではないかと思った。


その葵は今、ご機嫌で紫苑に髪を梳いてもらっている。


「そんなの、自分でできないのかよ」


「紫苑にやってもらうと髪がつやつやになるんだ」


「いや、誰がやっても同じだろ。なぁ」


冬摩に同意を求めたが興味のなさそうに「さぁ」とあしらわれてしまう。

葵は紫苑にやってもらうのが余程嬉しいのかにこにこと楽しそうだった。


「お前も紫苑によく懐いているよな」


『お前も』の『も』に反応した冬摩のぴりっとした視線を感じたが駆は気にしないことにした。


「あぁ。私は紫苑のことが大すきだ!」


櫛を動かす紫苑を見上げ、満面の笑みで葵が言う。

素直な言い方と偽りない葵の気持ちが満開の桜が弾け舞うように部屋中に広がった。

ひらひらと余韻を残すかのように。


「…うん。ありがとう」


紫苑は目を細め、頬は綺麗に桃色に染まっていた。

口元は照れたように袖でちょっと隠す。

気を抜くと涙が零れ落ちそうなくらい瞳は潤っていた。

こんなに心の底から嬉しそうに笑う紫苑を駆は初めて見た気がした。

整った顔の目元や口元を緩ませて、込み上げてきた気持ちを隠し切れず漏れた美しい笑み。

紫苑は基本的に人当たり良く穏やかに笑っている印象があるが、これが本当の彼の表情なのだと思った。

本心はいつでも殻に閉じ込めておいて時々に見せるこの綺麗な顔が奥ゆかしい、紫苑の本性。

冬摩は離れたところから優しく見守るように、でもどこかこの温かで光溢れる空間を羨むような笑みで紫苑を見ていた。


「葵ちゃんはこれから道場へ行くの?」


「先に講義を受けなければならない。道場はその後だ」


「じゃあ、髪は邪魔にならないようにまとめた方がいいね」と紫苑が髪を編んでいく。


「そうだ。俺、お蕎麦が食べたい気分だったんだ。

夕飯に葵ちゃんの帰りに寄って食べようよ」


「おお!私は天ぷら蕎麦が食べたい。

遅くなるが待っててくれるのか?」


「うん、大丈夫だよ。一緒に行こう。

俺たち外で食べてくるけど、お二人さんはどうする」


紫苑のいつも使っている丸テーブルには新聞が積み重なっていた。

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