(3)

駆は冬摩と級が違うため、いくら駆が清香に不慣れであってもずっと一緒にいられるわけではない。

講義は自分の級で受け、部屋移動も一人でしなければならないことがあった。

さすがにいつも使っている部屋までは迷いなく行けるようにはなった。


この日受けるべき講義をすべて終え、冬摩たちと初めて会ったあの洋館、冬摩が研究室として使っている場所に手伝いに行く予定だった。


最近駆はすっかり冬摩の研究室に入り浸っていた。

講義では教えてもらえない薬品の知識や、自分で考えて試してみること、そこから得られた新しい発見など、魅力的なことがたくさんあった。

部屋に詰められて受ける講義より、よっぽど夢中になれた。

意見を交わす同士ができたことが嬉しいのか冬摩も駆を頼り、いろいろと任されるのが楽しくてしょうがなかった。


あの洋館はほんの数ヶ月前に建てられたものらしく、本家の人間はやっぱり融通が利くのだなと思っていたが、建築許可の交渉は紫苑が行ったらしい。


以前までは冬摩の自室で湯を沸かしたり、葉を炙ったりして実験をしていたようだが、いつだったか火事未遂が起きたとかで当主から咎めを受けたことがあった。

そうならと紫苑が専用の部屋を一つくれないかということであの洋館が建てられた。


どのような交渉をしたか気になるところだったが冬摩も詳しくは教えられてないと言った。


駆はつくづく紫苑は不思議なやつだと思った。



きっと、多分、いや絶対、道は間違っていなかったと思った。

なのに何故かここで倒れている。

駆は口の端がひりひりするのを感じた。

じんわりと熱くなってくるのも。

次第に血の味がして、「あぁ、切れたんだ」と理解した。


一瞬の、それも予想もしてなかった出来事で、駆は抵抗する間もなく殴られていた。

頭が冷静になってくるとだんだん体のあちこちに痛みが走った。

倒れ込んだ時の衝撃で膝を擦りむいているし、体を地面に打ち付けた、突いたような痛みもあった。


動けないほどの怪我ではなかったが、ぼうっと空を見つめていた。

どうしてこんなことになったのか。


目の端に覚えのある藤色が横切った。

「やっぱり、研究室の近くまで来てたんだな」と自分の記憶が正しいことを確認し、少し安堵する。

籠に摘んだ花をたんまりと入れ、冬摩に届ける紫苑の姿だった。

日よけの帽子を被った紫苑は花嫁のベールを思わせ、こんな時なのに何考えてるんだろうと駆は笑った。


駆に気づいた紫苑は籠を置いて大急ぎで駆け寄る。

紫苑も走ることできたんだな、と普段の品のある所作からは想像つかない姿に駆はまた笑った。

駆の側までくると冷たい手を額に載せ、心配そうにこちらを見ていた、いつもの綺麗な顔があった。

あんなに急いで走ってもその顔には汗もかかず、今度はいつも通りの姿に安心感を覚える。

迷子になっていた魂が体に納まっていくように、現実に引き戻される気がした。


「駆。大丈夫?起き上がれる?」


「紫苑」


紫苑に会ってとうとう頭が冴えてきた駆は今度は苛立ちを覚えた。

なぜ殴られなければならなかったのか。

誰がそんなことしたのか。

抵抗も、逃げることもできなかった自分自身にも腹が立った。


「くそぉ。どうして俺が。あいつら、まだいる?」


「ここには誰もいないよ。知ってる人だった?」


「いや、知らないと思う。でも正直自信ない」


「何か言われた?」


「…調子乗んなって」


油断してた、と思った。

冬摩や紫苑、葵、結、みんなに親切にしてもらって。

自分は余所者だったことを忘れてしまっていた。


「駆、やり返したの」


駆は首を横に振った。


「俺は何もできなかった。やり返すことも、逃げることも」


力が入らないはずの手に感情を込めるように拳を握った。

いつも誰かが助けてくれるわけじゃない。

駆の怒りが沸々と湧いてくるのが紫苑にも分かった。


「偉いね。ここは人を治すところであって、傷つける場所ではないから。

それに、駆がこんなことで腹を立てる必要はないよ」


冬摩に薬をもらおう、とよろめきながら立ち上がり紫苑の肩を借りてゆっくり歩く。

紫苑からは優しい花の匂いが香った。

穏やかな声に少しだけ泣きそうになった。


「人を悪く言ったり、苛立ちの捌け口にするのは、本当はその人に憧れてて羨ましいだけ。自分を保つために逆の行動をとってしまう」


こんなに近くにいても紫苑の顔に汗の一粒も見当たらず、着物の乱れもなければ履物に土のかけらも付いてない。


「駆の綺麗な髪や瞳を羨ましく思ったんだよ。絶対に手に入れることのできないものを持ってるから。それに、駆は頭もいいしね。だからそんな奴ら気にしなければいいの。今回は初めてだから、一発だけ受けてやったと思って」


紫苑の優しい言葉が傷にしみた。

傷だけじゃなく、怒りで凝り固まっていた心にも。


駆はふと気が付いた。

紫苑は自分の母親に似ていると。


毎日ご馳走を準備して駆と父の帰りを待つ母。

母が日中どう過ごしているのか駆は知らなかったが、そうしなければいけないかのように毎日毎日夕食は豪勢だった。

誰かに喜んでもらえている、役に立っている、そう自分自身を信じ込ませて、心の底の部分は殻で覆い隠しているかのように。


紫苑もそうだ。

紫苑は出会ってから、どんな時でも隙をみせることがなかった。

気を許してないからかと思ったが、冬摩や葵に対してもそうだった。

身なりや仕草に一切乱れを見せないことで殻を作り自分を堅く覆っている。


しかし、駆は知っていた。

今は理由があって殻に閉じこもっているとしても、開けてみると本当はただの優しい人なんだと。


紫苑に抱えられた駆の姿に驚いたものの、冬摩は理由も聞かずに傷の手当をしてくれた。

その優しさと消毒の液がまたしみた。

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