オリーヴ山上のキリスト

ダイニング

第1話

3月の末のウィーンは、天候が荒れやすい。シュテファン・フォン・ブロイニングを乗せた馬車は、嵐の中を出発した。




 ルートヴィヒの家まで1キロほどの道のりである。彼を出迎えたのはアントン・シンドラーだった。よく見知った顔だ。ここ数年、自分がルートヴィヒと会ったとき、この子はいつもそばにいたなと思い返す。




「主人の遺品整理を手伝っていただけるとのご厚意、痛み入ります」




「遺言執行人を任せられているわけだからね。当たり前のことだ。それに私がこの手でやりたかったというのもある」




 アントンは数冊の手帳を抱えている。会話帳だ。ルートヴィヒは、いつも周りの人と会話するときにそれを使っていた。




「君は、会話帳から片づけているのかね? 床はまだ随分と散らかっているようだが」




 シュテファンに問われたアントンは、会話帳を移動させ終えると頭をかきながら答えた。




「どうも、床にあるものは動かす気になれないのですよ。分かってはいるのですがね。整頓したら、本当に主人が消えてしまうような気がしまして」




 そういうことか、とシュテファンは納得すると同時に少し驚いた。アントンにもそういう感情があったのか。彼は確かに有能な秘書ではある。現に、ルートヴィヒの葬儀が大掛かりなものとなりつつも、無事に挙行されたのは彼の手腕あってのことだった。




 ただ、冷徹に過ぎるきらいがあった。ルートヴィヒが彼のことをあまり好いていなかったのは、そのあたりが原因なのではないだろうかとつねづね思っていた。




「なるほどな、だがいつかは片づけなきゃいけないだろう? 君ができないのなら、私がやろうと思うがいいかね?」




「では、よろしくお願いいたします」




 アントンはいまいち感情のこもっているような、いないような声でそう言うと再び作業に戻っていった。




 シュテファンも自分の作業を始めたのだが、これがなかなか進まない。ついつい見入ってしまうのだ。優しさをたたえた手紙、怒りに波打つ手紙……全てがルートヴィヒの面影を想起させた。




「まずい」




 そうひとりごちて彼は便せんをよけた。気づかないうちに涙がこぼれていた。万が一にもこれらの手紙を汚してはならない。この大音楽家の貴重な資料は完全な形で後世に伝えられるべきなのだ。




「ああ、ピアノも、タクトも、メトロノームも、この足の踏み場もないほど散らかった部屋も何一つ変わらないというのに、ルイ兄さん、あなただけがいなくなってしまわれた」




 コートの袖で涙を拭い、シュテファンはまた床に散らかった手紙をまとめ、整理していく。今度は文面には目を通さず、宛名と日付だけを見ていく。




 そもそも、故人とはいえ自分に宛てられたわけでもない手紙の中身を覗くのは誉められたことではない。




 そうしていくうちに、シュテファンは45年前ルートヴィヒが初めて家に来たときのことを思い出していた。




 無口な人だった。ルートヴィヒの声を聞いたのは、彼が何度か家に来てからのことだったような気がする。とにかく、それほど彼は無口だった。ただ、バイオリンの練習中にふとしたことで言葉を交わしてからは、すぐに仲良くなった記憶がある。




 結局のところ、ルートヴィヒは全く暗い性格などではなかった。むしろ明るい、晴れ空のような性格だった。彼の冗談で食卓が笑いに包まれたことは幾度となくあった。




 ルートヴィヒは才能にも恵まれていた。本格的に作曲を始めて数年が経つ頃には、気鋭の作曲家として広く認められていった。ただ、彼はそれから段々と自分の殻の中へ閉じこもるようになっていってしまった。今思えばあの頃から耳が聞こえにくくなっていたのかもしれない。




 手紙のやり取りも減っていき、ついには途絶えた。その間じゅう、シュテファンはまさかルートヴィヒは大きな罪を犯してしまったのではないかと気が気ではなかった。




 そんな彼の心配は杞憂に終わった。年が明けて開かれた演奏会で、ルートヴィヒは「オリーヴ山上のキリスト」の初演を大成功させたのだ。




 シュテファンはもちろん劇場に駆け付け、心の底から親友ルイの復活と作曲家ベートーヴェンの成功を祝った。それから20年以上がたった今でも、この作品はヴァイオリン協奏曲と並んでシュテファンのお気に入りである。




 以来、多くの傑作を生みだしたルートヴィヒだが、彼の性格はかなり人を選ぶようになっていた。昔よりも粗暴で攻撃的、まるで嵐の日のような性格になって、しばしばシュテファンに送られてくる手紙にも、家政婦や使用人の愚痴が明らかに増えていた。




 ルートヴィヒの名声が増して彼のもとに集まる人間が増える一方、彼の親しい友人は減っていったが、ルートヴィヒとシュテファンの関係は変わらなかった。




 自分が結婚直後に妻を亡くして不安定になっていた時期には気づかいを求める手紙を書いて職場に送ってくれたり、自分にヴァイオリン協奏曲を献呈してくれたりするあたり、ルイ兄さんの根っこの部分はそんなに変わっていないのだ、とシュテファンはしっかり理解していた。




 さすがにルイ兄さんが捕まったと聞いたときは思わず椅子から立ち上がってしまったけどね、とシュテファンはそのときのことを思い出して少し笑みをこぼした。




「そろそろ食事の時間に致しませんか? よければ、私がお作りしますが」




「ああ、ありがとう。ぜひ、頼むよ」




 いつの間にか昼食をとるような時間になっていたことに驚きつつ、シュテファンは答えた。








 昼食はマカロニのグラタンだった。マカロニとチーズを買いためた分が残っていたらしい。ルートヴィヒは好んでこれを食べていた。小さい頃の記憶がよみがえりそうになり、あわてて目頭を押さえる。




「どうかなされましたか?」




「いや、大丈夫だ。ちょっと昔のことを思い出しただけだ」




 しばらく食事を続けたあと、シュテファンはおもむろに切り出した。 




「実は私、ルイ兄さんの伝記を書こうと思っているんだ。君にも手伝ってほしくてね」




「ええ、もちろん。私にできることならば何でも致します」




「それは心強い。義兄さんにもあとで会ってお願いしようとしてたところなんだ」




「かなりの大作になりそうですが、かなり正確にも書けそうですね。資料もたくさん残っていますし」




 アントンはそう言っているが、あまり喜んでいるようには見えない。もともと、アントンの声から感情を読み取るのは並大抵のことではなかった。




「どうだろうか。ルイ兄さんがハイリゲンシュタットで耳の療養をしていたときのことについては、あまり自信がないな。そこで、ルイ兄さんを大きく変える何かがあったんだろうがなあ」




 おそらくその場面が偉大なる作曲家ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの伝記で一番大事なところになるだろう、とシュテファンは思っている。




 当時のルートヴィヒが心境を劇的に変化させる様子を克明に描写することが、彼の伝記を編纂するうえで最も重要でかつ、最も難しいところだった。








 食事を終えると、アントンが食器を下げてくれた。そのあとシュテファンは席を立ち、窓から外の様子を眺めた。ここに来るときの嵐がまるで嘘だったかのように空はすっかり晴れわたっているが、油断はできない。




 3月の末のウィーンは、天候が荒れやすい。遠ざかっていく黒い雨雲を見つめながら、シュテファンは「またね、兄さん」とつぶやいた。


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