3 曇天の洗濯

 タケヒロは引き戸を開け、ベランダに置かれたサンダルに足を入れた。

 じめついた空気が顔に張りつく。

 今にも降り出しそうな、ネズミ色の空が一面に広がっていた。

 手にしていた煙草に火をつけ、ゆっくりと煙を味わう。

 休日にもかかわらず、タケヒロは月曜の会議に備えて資料を作っていた。さっさと片付けて出かけてしまいたいが、遅々として進まない。

 手すりに肘をつけ、溜め息混じりの煙を吐き出しながら、ぼんやりと外を眺めていた。

 突然声がした。

「あー、こりゃ乾かないわ」

 隣の二〇二号室のベランダから、女の顔が覗いていた。

「参ったな。干してもダメね、これは」

 一週間ほど前、夜中に帰宅するとドアのレバーに袋がかけてあった。二〇二号室に引っ越してきた入居者からの挨拶の品だった。

 名前は忘れた。

「あ、どうもこんにちは」

 女がこちらを向いた。五十くらいだろうか。軽く頭を下げ、根元が白くなった頭頂部を見せてきた。

「あ、どうも」

 タケヒロは曖昧な返事を返した。普段から隣人付き合いというものは一切なく、するつもりもない。この場で挨拶を交わす気も、全く起きなかった。

「すみません。煙草もう終わりますんで」

「あー、いえいえ。構いませんよ。ゆっくり吸ってください。夫が喫煙者で、全然気にしませんから」

「何か、でも、洗濯物干すんですよね」

 ほのかに洗剤の香りがしている。

「煙草の臭いついちゃいますから」

「いえいえ。この天気じゃねえ、外に干しても意味ないでしょう。だから、お気になさらず。天気予報だと、二時くらいから晴れマークなんですけどね。まあ、この時期の天気は読みにくいでしょうから、仕方ないですね」

 べらべらと話す隣人が、煩わしくなってきた。足下に置いてある空き缶に吸い殻を突っ込み、軽く会釈をして部屋に戻ろうとした。

「部屋干しと乾燥機」

 まるで会話の途中で席を立つのを非難するようにでかい声を出されたので、思わずビクッとした。

「はい?」

「 部屋干しと乾燥機、お兄さんならどっちにします?」

 そんなこと、なぜ俺に聞くんだ。

「乾燥機じゃないですか」

「本当に?」

「ええ」

「ファイナルアンサー?」

 なんだこいつ。面倒くせえ。

「はい」

 タケヒロの答えに納得したのか、気持ち悪いほどの笑顔を作りながら、女は顔を引っ込めた。

「キモッ……」

 そうつぶやきながら、タケヒロも部屋に入った。


 数日後、二〇二号室の女が逮捕された。

 部屋で夫を殺害し、死体をバラバラにしたらしい。

 犯行が行われたのは、タケヒロがベランダで話しかけられたその日だった。

 夫の遺体は、ほのかに洗剤の臭いを放ち、という。

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二〇二号室 【物件ホラー短編集】 がしゃむくろ @ydrago

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