2 妨害訪問者

 駅から車で五分くらい走ったところにそのアパートはある。

 瓦屋根の古びた家屋と、角張った現代的な家屋とが入り交じった、簡素な住宅街の中にそれはある。

 駅前から延びる幹線を進み、ギリギリ車がすれ違えるほどの狭い道に入って、間もなくするとアパートの駐車場の入り口に至る。

 電球に傘を取りつけただけのような、古い街灯の薄ぼんやりした光が、この駐車場の闇をわずかに和らげている。

 そこへカズヤが運転する新緑色の軽自動車が入ってきた。アパートの手前のスペースに停め、下車した。続いて、助手席からフミカが外へ出た。

「荷物は俺が持ってくから、先に入ってて」

「はーい」と返事をするフミカに鍵を渡して、カズヤは後部座席のドアを開けた。

 段ボールで梱包された、組み立て式の家具が重なっている。背後からは、アパートの外階段を昇る靴音が聞こえた。

 この日、二人はここに越してきたばかりだった。およそ一ヵ月後、フミカの誕生日である十月十日に籍を入れる予定で、同棲を始めるのだ。

 午前中に引っ越しを済ませ、午後は不足している家具を購入し、ファミレスで夕飯を食べ帰宅したところだった。

 このアパートを不動産屋から紹介されたとき、フミカは木造という点に難色を示したが、担当者の「木材ならではの温もり」という話が効いたのか、結局は納得した。それに建物自体は古いが、リフォームされており清潔感がある。こぢんまりとしていて、落ち着いたイメージも派手好きでない二人の嗜好に合っていた。

 一番上に積まれた細長い段ボールを引きずり出して、部屋に向かおうとすると、フミカが階段を降りて来た。

「何? 忘れ物?」

 顔が強張っている。

「えっ、どうした?」

「誰かいる」フミカは声を潜めて言った。

「はっ?」

「ドアの前に、知らない男の人が立ってる」

「どういうこと?」

「知らないよ。とにかく変な人が立ってるの」

 カズヤは手にした荷物を車に戻し、下から二階の方をうかがった。階段をあがってすぐ目の前が、二人が入居した二〇二号室である。

 たしかにそこには誰かの背中が見えた。

 黒いジャージを着た坊主頭を、ポーチライトが照らしている。その男は玄関ドアに向かってじっと立ちすくんでいる。

 カズヤはフミカに合図して、車の中へ戻った。

「どうする? とりあえず、ここで少し待ってみようか」

「え。カズ君、声かけてきてよ」

「俺が?」

「そうだよ。私に行かせるの?」

「いや、そんなつもりはないけど……。何て話しかければいい?」

「そんなのわかんないよ」

「どちら様ですか、みたいな?」

「うん、それでいいよ」

 カズヤは不承不承車を降り、ゆっくりと階段を上がった。階下からフミカの視線を浴びながら。

 男は小柄で、痩せているように見える。

 その背後から、咳払いでこちらの存在を知らせた。

「あのーすみません。どちら様でしょう?」

 何かあればいつでも駆け下りるつもりで、恐る恐る話しかけた。

「私はこの部屋に住んでいる者ですが、何か御用ですか?」

 男はこちらを見向きもしなかった。しかし──

「やぶんにすみませんがここをあけてくれませんか」

 ドアの方を向いたまま喋った。まるで抑揚がなく、平板な調子で。

「はい? あの、どういうことでしょう?」

「よばれているんです だからここをあけてほしいんです おねがいです」

「呼ばれているって……誰に?」

「ここのじゅうにんにです」

「いや、私がその住人なのですが……」

「いえ あなたではありません」

「いや、だから──」

「どうしてもはいらなければならないのです」

 ほとほと困り果てたカズヤの背後に、いつの間にかフミカが迫っていた。

 彼女はカズヤを押しのけ、いきなり捲し立てた。

「あの、失礼ですが、用がないならそこをどいていただけませんか。困るんです」

 かなりの剣幕だったが、男はこちらに顔を向けるどころか、ピクリとも動かなかった。ドアにぴったりと張り付いた虫のように。

「なかにはいらなければならないんです」

「いい加減にしてください! 見ず知らずの他人を入れるわけないじゃないですか。これ以上邪魔するなら、警察を呼びます」

 彼女の気迫に、カズヤは黙って見守るしかできなかった。

 と、その時、男はズルズルと足を動かし、横方向にずれていった。ようやくドアの前からどいたが、一メートルほど横移動したところで、壁を向いたまま制止してしまった。

 カズヤはあまりにも薄気味悪く、ドアに近づくのを躊躇していたが、フミカは構わず鍵を取り出し、解錠してドアを開けた。

 その瞬間、男が飛び込もうとしてくるのではないかと警戒したが、その気配はなかったので、カズヤもそそくさと中へ入り、ドアを閉めた。

 即、鍵を閉める。

 廊下の照明を点けたフミカが、苛立った声を上げた。

「何なの、いったい。マジで気色悪い!」

「ちょっと、聞こえるぞ……」

「いいよ、聞こえたって。本当に警察に言ってやろうかな」

「このくらいのことで、来てくれるもんなのかな。別に被害はないわけだし」

「だって、どっからどう見ても不審者じゃん」

「そうだけどさ……。まだいるのかな?」

「自分で確かめてよ」

「え、また俺……?」

 有無を言わさない様子だったので、カズヤは仕方なくドアスコープから外の様子をうかがおうとした。

 小さな丸穴を片目で覗く。

 思わず「うわっ!」と悲鳴を上げて後ずさった。

 すぐ目の前に、男の顔があった。青白く血の気のない肌に、カッと目を見開いた男の顔が。今にもこぼれ落ちそうなほど飛び出た、血走る目玉が。

「やぶんにすみませんがここをあけてくれませんか」

 ドアの向こうから、ブツブツとつぶやくのが聞こえた。

「またドアの前に立ってるんだけど。てか、顔が尋常じゃないよ。やばい人だよ」

「……カズ君、警察に電話してよ」

「えっ。でもさ、これくらいのことで電話したら、怒られないかな?」

「平気だよ。これだけでも何かの罪になるでしょ」

「そうかな……。もうちょっと様子見ない? その、ガンガン叩いてきたら、とかさ」

「……わかった。じゃあ、チェーンかけて」

「あっ、そうだね。かけよう」

 これで男が化け物でない限り、部屋に侵入してくることはできないはずだ。もし深夜まで……いや、一晩経ってもまだドアに張りついているようなら、そのときは本当に通報しよう。もちろん、暴力を振るってきたなら、そのときは即通報する。

 カズヤはそう決めた。

 その決意は、すぐ無意味と化した。

 ピンポーン。

 廊下を進んだ先にあるリビングから、呼び鈴が聞こえる。

 カメラ付きインターホンが、来訪者の顔を映し出していた。今にも眼孔から飛び出しそうな目が、二人をまっすぐ見据えていた。

 だらしなく開いた口からは、舌がだらりと垂れていた。

「何なの、この顔……」

 フミカは黙っている。黙って、インターホンを見つめいてる。

 応答ボタンを押さずにいると、また呼び鈴が鳴った。

 間髪入れずにもう一回。もう一回。さらにもう一回。

 耐えきれなくなったフミカが、怒りにまかせて応答ボタンを押した。

「いい加減にしてよ! もう警察呼びます。本当に呼ぶから!」

 スマホを手に取り、一一〇番を押した。

「お、おい……」

「──すみません、あの──あ、ええと、事故ではないです。なんか不審者が尋ねてきて、全然ドアの前から立ち去ってくれないんです──住所? はい、住所はX市四丁目の■番地です。そこの二〇二号室です。名前はマキタといいます──ええ、知らない人です──いえ、そういうことはないんですけど、とにかくずっと居座ってて。すごく怖くて──いや、口論とかはないです。でも、ほら聞こえませんか? ずっとインターホンを鳴らされて。部屋に入れろって。もうずっとですよ。来てもらえませんか? はい──はい──」

 フミカが必死で事情を説明している間、呼び鈴が鳴り続ける中、カズヤはモニターに映る男から目が離せなかった。

「やぶんにすみませんがここをあけてくれませんか」

「よばれているんです はやくはいらなくてはいけないんです」

「だいじなものがあるんです」

 いったい何が、この男を呼び寄せているのだろうか。

 男の言う通り、この部屋には彼を招く何かがいるのだろうか。

 そこまで考えが及ぶと、総毛立った。

 フミカとの新生活を始めるこの場所が、忌まわしい何かに思えてならなかった。

 電話が終わってからも、男はインターホンを鳴らし続けた。

 そのまま十分ほど経っただろうか。外からかすかにパトカーのサイレンが聞こえる。

 そこで呼び鈴は止んだ。

 怯えながら寄り添っていたカズヤとフミカは、ハッと目を合わせた。

 モニターから男の姿が消えたのだ。

 

 間もなく到着した二人の警官に、インターホンに記録された男の画像を証拠として示しながら、フミカは状況を説明した。

 既に男は立ち去っており、直接的な被害がないことから、「今晩は戸締まりを徹底して外に出ないように。異常があれば、すぐに知らせてください」と言い残し、彼らは去っていった。

 同棲最初の夜をどう楽しもうか、期待を膨らませていたカズヤだったが、そんな気は全く失せてしまった。

 車から荷物を取ってくるのも躊躇われ、荷解きをする気もおきない。

 昼から窓もカーテンも閉めっぱなしにしていた部屋は、残暑の熱を溜めこんでいた。

「暑いから窓開けて」

 フミカにそう言われ、カズヤはリビングの南側にあるカーテンを開けた。

 部屋の照明が、引き戸からベランダの暗がりに差し込んだ。

 一瞬、カズヤはなぜ洗濯物が干してあるのだろうと思った。

 黒い上下のジャージなど、持っていないのに。

 それは風に吹かれて、静かに揺れていた。

 少し顔を上げると、洗濯物ではないとわかった。

 突き出た目玉と、垂れ下がる舌。青白い顔色。

 あの男だった。

 物干し竿に巻き付けられた針金が、首に食い込み男の身体を支えていた。

 針金が皮膚に抉り込み、そこから流れ出た血液がベランダに黒い水たまりを作っていた。

 先ほどの警官達は、すぐにここへ戻ることになった。

 彼らが調べた結果、男は以前この二〇二号室に住んでいた人物だった。

 カズヤとフミカが外出している間、男はどうにかしてベランダに侵入し、首を吊ったのである。

 そこで絶命し、夜になって二人が帰宅した。

 であるならば、二人が部屋に入るのを邪魔した男は、ドアスコープから見えた男は、インターホンを何度も押した男は、いったい何だったのか。

 カズヤとフミカは、翌日部屋を解約した。

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