二〇二号室 【物件ホラー短編集】
がしゃむくろ
1 スピーカー
「ウェーイ! お疲れ!」
カチン、カチンとグラスを当てる音が続き、各々が酒をあおる。
2DKの一室は、アルコールを含んだ若者達の汗の臭いと、煙草の香りで充満していた。一応近隣に気を遣い、窓は閉めていたのだが、その内堪らなくなって開けた。
スピーカーからダンスミュージックのベース音が、ズンズンと響いている。その心地よいグルーブが、若者達をさらに煽った。
今日、マサキはこの部屋に引っ越してきた。金はなかったので業者は使わず、大学の友人達に手伝ってもらい、レンタカーでバンを借りて荷物を運んだ。
入居先は二階建ての木造で、全部で四部屋の小規模なアパートだった。彼が越して来たのは、二〇一号室である。
前の下宿先は、マサキのマナーの悪さが原因で隣人とトラブルになり、ほとんど追い出される形で立ち退いた。
両親からはこっぴどく説教され、それなりに反省していたが、仲間と集まると気が大きくなるのが彼の悪癖だった。そこに酒も絡むと、もはや自制は効かず、いつの間にか彼の新居は宴会場の様相を呈していた。
間もなく、日付が変わろうとしていた。
アルコールが注がれる度に騒々しさも増す中、ミノルが声を上げた。
「みんな、もうちょい抑えるか。さすがにうるせえと思うよ」
「そうか? 窓閉めてるし大丈夫じゃね?」カズタカが答えた。
「いや、開いてんだよ。てか、お前が開けたんだろ」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
「まあさ、引っ越し記念日だし、大目に見てくれんじゃね。ってか、隣は空き部屋だし」
マサキは煙草を吹かしながら、そう言った。
ミノルはうんざりした表情を浮かべながら「また追い出されるぞ」と呟いたが、誰も聞いていなかった。
「あっ、この曲ちょーいい。フゥー!」
アップビートなドラム音が、部屋の空気を振るわせている。その振動はアパート全体に伝わっているが、彼らは気にも留めていなかった。
「上がるわー」
「フゥー!!」
すっかりでき上がったカズタカとユウジが、合唱を始めた。
マサキもすぐに合流した。
だが、ミノルだけは違った。彼は壁の方に意識を向けていた。そこは隣室とこの部屋を隔てる壁だった。
何か聞こえる。
耳をすませても、マサキ達が発する騒音にかき消されてよくわからない。
「おい、何か聞こえるぞ。ちょっと静かにしろよ」
無視された。
「おい!」
思わずカッとなり、ミノルはスピーカーの電源を引き抜いた。
「何すんだよ!」
「ちょっと静かにしろ。何か聞こえんだよ」
「はっ?」
会話が途切れ、それはたしかに聞こえた。
チーン……チーン……チーン。
若者達は互いに見合った。
どこかで聞いたことのある金属音だった。そして──。
ポン、ポン、ポン、ポン、ポン。
何かを叩く音。そこに声が乗せられている。低く、喉の奥から絞り出したような声が。
これは……お経だ。
「何これ? 葬式?」
「こんな時間にそんなわけねえだろ」
「坊さんがお経の練習してるとか?」
「テレビの音じゃね?」
外から聞こえてくるのではと、マサキはベランダに出て確かめたが、そうではなかった。音はたしかに、壁から聞こえているのだ。
「きしょ……」
ユウジが壁を叩きながら叫んだ。
「すみませーん! 迷惑なんで止めてもらえますかー!」
しかし、木魚を叩く音とお経は、高まりもしなければ収まりもせず、単調に流れ続けている。
「おい」
「邪魔すんな!」
「いや、だって……」
ミノルが不安そうな顔で、ユウジを見つめた。
「隣、誰も住んでないんだろ?」
「あ……」
全員が動きを止めた。
「マサキの勘違いじゃねえの?」
「いや、不動産屋からは二階は誰も住んでないって聞いてたんだけど」
「下の部屋と間違えてるとかさ」
「そうなのかな……」
誰も二の句を継げなかった。
沈黙によって、読経がより明瞭になって耳に届く。
マサキは静寂に耐えかねて、スピーカーの電源を戻し、再び音楽を流した。音量をさらに上げて。
「もういいじゃん。こっちも騒ごうぜ。仕切り直し、仕切り直し!」
若者達は乾杯し、元の騒々しさを何とか取り戻そうとした。
だが、いくら激しいビートがお経をかき消しても、背筋が凍るような感覚を払拭することはできなかった。
みんなが盛り上がっているふりをしていた。
もう、元の空気に戻すことはできなかった。
突然、音楽がスロー再生になった。ポップな歌声は、地を這うような咆哮へと姿を変えた。
「あれ、壊れた……?」
若者達は黙って、スピーカーを見つめている。
そして──。
音楽は段々と元のテンポへと戻っていった。
だが、規則的な電子ドラムの音は、ポン、ポン、ポン、ポン、ポン……といつの間にか木魚のそれに変わっている。
女性のヴォーカルは、今や男の低くくぐもった声となり、木魚のリズムに乗って読経していた。
「何だよ、これ……」
ミノルはそう呟き、咄嗟にスピーカーの電源をグッと引き抜いた。
お経は止まらなかった。
「何でだよ! 何なんだよ!」
音楽を再生していたスマホを必死にいじりながら、マサキが叫ぶ。どうやっても、スピーカーから流れる声は止められなかった。
「俺、帰るわ」
しばらく固まっていたユウジが、そう言って玄関へ向かった。
「俺も」
カズタカもそれに続く。マサキは慌てて止めた。
「え、いや。ちょっと待てよ! この状況でそれはねえだろ!」
「わりぃ。でも、マジ無理」
玄関まで追いかけて留まるよう訴えたが、二人はそそくさと出て行った。
「何だよあいつら!」
悪態をつきながら、マサキは部屋に戻った。そこで思わず息が止まった。
ミノルがスピーカーに向かって、何かをぶつぶつと一心不乱に唱えている。
胸元で手を合わせ、お経を口にしていた。本物の僧侶のように、流暢だった。
「おい、お前……」
ゆっくりとミノルに歩み寄ると、マサキは戦慄した。
白目を剥いていたのだ。
「ミノル! おい! どうしたんだよ。大丈夫か? 何があったんだよ!?」
肩を揺すって問いかけるが、まるで反応はない。
「答えろよ! どうしたんだってば!」
マサキはミノルの顔を正面から見た。
そして気がついた。ミノルの唇は動いておらず、口はポカンと開いたままだった。舌も微動だにしていない。
ミノルの念仏は、喉の奥からただ流れているだけだった。彼はスピーカーに過ぎなかった。
グルグルとミノルの眼球が回転し始め、マサキは叫びながら後ずさった。
そのまま廊下の入り口に至ると、背中が何かにぶつかった。
振り返ると、ユウジとカズタカが並んで立っていた。
二人とも白目だった。
ダランと異常なまでに顎が垂れ、細長く開いた空虚な口からは、やはり念仏が流れてきた。
ポン、ポン、ポン、ポン、ポン……。
だらしなく開いた口から白い液体を垂れ流しながら、二人が迫ってくる。
「何だよ。やめて、やめてよ。やめてくれ!」
部屋の中央にマサキは追いつめられ、三人に囲まれた。
今や、マサキの部屋は巨大な音で張り裂けそうになっていた。
幾層もの声が重なり、念仏の大合唱がマサキを押し潰しそうなほどだった。
チーン……チーン……チーン。
スピーカーの前にマサキは跪いていた。
翌日。
授業を欠席し、連絡しても返信がないマサキを心配した友人のミノル達が、彼の部屋を訪れた。
玄関ドアは鍵が開いており、中にはスピーカーに向かってひたすら念仏を唱えるマサキの姿があった。
話しかけても応答がなく、ミノル達はただちに彼を病院へ連れていった。
身体に異常は見られないが、まともに意思疎通ができる状態ではなく、入院することとなった。
やがて読経が収まってからは、まるで時が止まったかのように何も発することがなかった。
その後、マサキがどうなったのか、ミノル達は何も知らない。
あの日、引っ越し祝いの宅飲み会を終え、自分達が帰宅してからマサキに何があったのか、ミノル達はやはり何も知らない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます