『非公開』にしたはずなのに……! 3年書き続けたラブレターの"下書き"がいつの間にかネット小説でぶっちぎりの一位を獲得したかと思ったら、意中の彼女に逆に追いかけまわされる羽目に
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第1話
あなたのことが好きです。
その少し栗毛がかった髪が、朝の光に透ける瞬間も
花弁のように麗しい肌が、昼の微睡に淡く染まる時も
放課後の教室で、夕暮れ色に輝く切れ長の瞳も
もっと近くで、好きなあなたを感じていたい
でも、私とあなたの間には、宵闇と朝焼け程の距離がある
地球の自転のように当たり前で、そしてどうしようもなく遠いあなた
でもだからこそ、あなたのことが愛おしい
きっと届くことのない思いを、どうか受け取ってください
「だ……め……だ!ボツ!ボツ没ボツボツ没っっっっァ!」
恥ずかしさに耐え切れず、俺はPCの前で一人悶絶していた。
なんだよ、このポエムは!今時中学生でもこんな恥ずかしい文章書かねえよ!
ああ、背中どころか全身がむず痒い……!手が8本あっても掻きむしれないほどに、だ!
確かに昨晩は、たまには基本に返ってみるかと思って、甘酸っぱい雰囲気を醸し出そうとしたんだよな……。
それが、翌朝に読み直してみたらこのザマだよ。
やっぱり、夜中のテンションで書くとロクなことがないや。
「……はあ」
ため息をついて、通算
え?どうしてPCのハードディスクに保存しないのかって?
通学中や授業中に閃くこともあるから、いつでもまとめて文章を保存できるwebサイトが便利なんだよ。
なにしろ、学園のヒロインともいえる彼女に思いを伝えるんだ。生半可なラブレターじゃ通用するはずがない。
究極の……そう、"究極のラブレター"を書き上げるその日まで、俺はこうして毎日のように下書きをせっせと書き続けてるって訳さ。
なんだと?今時ラブレターで告白なんて古い?2000通も書いてる暇があったらさっさと直接会って告白しろって?
出会って3年間、一度も会話したことないのに、いきなり面と向かって告白なんかできるわけねえだろ!
本人を目の前で口をきこうとするだけで、きっと
あ、
「おっと、これだけは忘れないようにしないと……」
毎日の様に繰り返している作業だが、これだけは絶対に忘れちゃならない。だから、どんな時でも口に出して確認するようにしてる。
「設定は……『非公開』……っと」
タッチパッドを指でなぞりながら、確実にカーソルを『非公開』に当ててクリックする。
これだけは、何があっても、絶対の絶対に間違ってはならない。
こんな恥ずかしい文章を世界中に公開することを考えただけで……。背筋から蕁麻疹が全身に走る!
ああ、痒い痒い痒い痒いかゆ……うま……
「いけね、くだらねえギャグ言ってる場合じゃない!遅刻しちまう!」
PCの蓋を閉じて、リュックを背負って玄関に駆け出す。
──俺は、目立つのが嫌いだ──
っていうか、人の目線に晒されるのが嫌いなんだ。
人によっては、極端な恥ずかしがりやと言う奴もいる。
とにかく、ひっそりと静かに暮らしていくことこそが、俺の生きる目標である。
「おーっす」
「おはよー。なんだか眠そうだな」
見知ったクラスメイトと当たり障りのない会話をしながら、予定通りの時間に教室に到着する。
始業の5分前。通学の人数が一番多くなる時間帯だ。これだけの人ごみに紛れていれば、当然ながら目立つことはない。
まかり間違って遅刻なんぞしようもんなら、机までの長い道のりをクラス中の視線に耐えながら進み続けるという拷問を受けることになる。
そんな辱めを受けるくらいなら、むしろ欠席するよな。普通。
教室を見渡してみると、もはやすっかり慣れ切った異様な光景が広がる。
同時に、本当にこの学校を選んでよかったと、幸せをかみしめる。
この幸せに比べれば、自分の机まで3分かけて歩く面倒さなど、些細なものだ。
「あ、おはよー。今日もいつも通りの時間だね~」
「そうだっけ?金木さんはいつも来るの早いよね」
隣の席の女子に軽く声をかけて席に着く。
黒板などないこの教室だが、教壇が軽くかすんで見える。
なにしろ、この『私立
繰り返すが、本当にこの学校を選んでよかった。これだけ大勢の生徒の中では、普通に生活していてもまず目立つことなど不可能。
加えて、不断のたゆまぬ努力によってさらにステルスっぷりに工夫を重ねてきた。
服装は地味すぎず派手過ぎず。あまり地味すぎても、それはそれで周囲に浮いてしまう可能性があるからな。
成績も、ほとんど完璧。順位は狙い通り中心値をキープしている。
テストの難易度、クラスメイトがどの程度勉強しているかを考慮し、間違うべきところもきっちり間違うという徹底ぶりだ。
間違っても成績上位者として張り出されるような愚行も、赤点をとって少人数の補講を受けるような蛮行も回避する。
……できれば、きっちりと中心値を叩きだしたいところなんだが、4000って偶数だから中央値がないんだよなあ……
『よーし。それじゃあホームルームを始めるぞー』
スピーカーから教師の声が響く。今日も一日、いつもと同じくひっそりとした学校生活を始まろうとしていた。
と、その時──
「ごめんなさーい!ギリギリセーフっ!!」
景気の良い、少しハスキーな声がだだっ広い教室の中に響き渡る。
クラス中の注目を浴びながら、勢いよく扉を開け、彼女は教室の中に飛び込んできた。
『……青蓮院。またお前か……。それに、チャイムが鳴り終わってから入ってきてもギリギリセーフとは言わんぞ。加えて、先生はもう授業の開始を宣言した後だ』
「まあまあ、そう言わずに。朝練が長引いたのは私のせいじゃないですし、これ以上授業が始まるのを邪魔するのも悪いですから」
艶やかな髪の毛を放り投げるように
言葉に嘘がないのが誰にでもわかる。説得力、と言うよりも疑念すら浮かばせない問答無用の迫力が全身からにじみ出ていた。
事実、先生も「まったく……。さっさと席に着け」と呆れたように呟くだけで、おとがめなしだった。
これだけ大勢の生徒を抱える学院では、生徒を管理するため規則遵守が徹底されている。
しかし、彼女の前では規則も歪んで脇に逸れるらしい。何もなかったように席に向かって小走りでかけていく。
「……はあ」
誰にも聞こえないように、こっそりとため息をつく。
彼女は、この学院の特異点とも呼べる存在だった。
さっきも言ったけど、これだけ大勢の生徒を抱えるクラスで、あれだけ目立つ言動をすれば多くの注目を集める。もちろん、良い注目も、悪い注目も。
だから、ほとんどの生徒は俺のように目立たずにひっそりと過ごそうとするはずだ。
妙な噂を立てられないよう、本音を隠して周囲との摩擦を極力避ける。
でも彼女は違う。さっきのなんか序の口だ。どれだけ周囲の注目を浴びてもお構いなし。
遠慮も物おじもせずにずけずけとモノを言う。だが、彼女のことを悪く言う生徒など、聞いたことがない。
ともすれば、彼女に堂々と物申されたことを嬉しげに語る奴までいるくらいだ。
とにかく、この学院で最も稀有な存在。それが彼女だった。
そして、俺にとっての特異点でもある。
聡明な諸君ならお気づきだろう。俺が3年間書き続けてきた、ラブレターの相手だ。
俺自身、どうして彼女にここまで惹かれたのかよく分からない。
何よりも目立つのを嫌う俺が、スポットライトの塊のような彼女に思いを寄せるなんて、ほとんど自殺行為だ。
でも、好きになってしまったのだから仕方ない。
思いは募るが、近づいて声をかけることすらできない日々で、俺はいつの間にかその激情を文章にぶつける習慣が身についてしまっていた。
『それじゃ、授業を始めるぞー』
教師の声を完全にシャットアウトして、彼女のいるであろう方向に視線を向ける。
授業なんて聞くだけ無駄だ。今日の数学の教師が誰を当てるかは完全に把握している。
理系人間の規則に凝り固まった思考パターンを推測するなんて簡単すぎて欠伸が出る。文字通り寝ていても問題ないくらいだが、そんな目立つことはしない。
授業を聞いているふりをしながら、その他大勢の生徒の向こうにいるであろう彼女に秘かに思いを馳せる。
彼女と同じ空間にいられる幸せを噛み締め、今日も穏やかで地味な学校生活が始まろうとしていた。
昼休みになった教室で、一際人の集まっている区画に目線を送る。
そこには、いつものように彼女を中心とした人だかりができていた。
いったいどこに隠していたのか、親戚全員を賄えるほどにドデカイ弁当箱を机の上に置き──
「いやあ、作りすぎちゃったからさ~。よかったらみんなで食べてよ」
「って、琴音っち。こんな大きなお弁当箱、普通家に置いてないって!」
「よくみたら、中身もマジヤベえぞ、これ。豪華ってレベルじゃねえから」
照れ笑いを浮かべる彼女の周りで、ケラケラと笑う女子や、そのあまりのおいしさに目を剥く男子。
彼女の周りには、いつも必ず人がいる。それも、男女問わず、いろんな人間が集う。
しかし、彼女を特異点と称するのにはもう一つ理由がある。
彼女は、いわゆる”人気者”と呼ばれる存在とは異なる振る舞いをする。
普通ならば、自然と出来上がるカーストの上位ランカー達とつるんでは、クラス中に華やかで押し付けがましい陽のオーラを放出するところだろう。
しかし、彼女はそうではない。特定のグループと交流を持つことはなく、まるで回遊魚のようにクラス中の生徒たちと分け隔てなく接するのだ。
昼食だってそうだ。
この前は体育部の奴らと弁当早食いで勝負したかと思えば、弁当を作り損ねたと泣いては金持ち連中からおすそ分けを貰っていたこともあったし、超立体的な3Dキャラ弁を自慢げにオタク層に見せびらかしながら食べていたこともあった。
そのせいか、あれだけ目立つ存在でありながら、クラスで彼女の悪いうわさを聞いたことがない。
俺とは対極の存在。対人関係バリアフリーなのだ。
なに?それだけ付き合いが広ければ、俺とも接点があったんじゃないのかって?
いくら彼女の交友関係が広いとはいえ、このクラスの規模はさらに広い。
ましてや、俺のように極力目立たないように生活していればなおのことだ。
「ま、万が一直接話すことなんかあっても、きっと満足に口すら聞けないんだろうな……」
誰にも聞こえないような小声で愚痴をこぼすと、周囲の生徒が食べ終わる時間にぴったり合わせて弁当の蓋を閉じる。
あとは、周囲に溶け込むように読書をしながら午後の授業を待つだけ。
そして今日も、彼女を見つめるだけの一日が過ぎていく……
「……ふう」
いつも通り、予定通り、完璧なまでに無難な一日を終え帰宅する。
通学も、狙い通り最も混んでいる満員電車に乗ることができた。
体育の時間はサッカーだったが、周囲の生徒の行動を巧みに操り、俺に一切パスが回ってこないように立ち回れた。
それなりに走って、声を出して"参加している雰囲気"を醸し出しながらも、一回もボールに触れないようになるまでにはそれなりに苦労があったんだぞ?
昼休みだって、飯を食う相手を定期的にローテーションさせることで特定のグループに取り込まれずに済むように工夫している。
俺のテクニックをもってすれば、会話が盛り上がって、こっちに飛び火しそうになる瞬間を見計らって話題をすり替えるなど造作もない。
「まったく、目立たずに生きるってのも大変だぜ」
一人ごちながら椅子に座る。やっぱり、世界中でここが一番落ち着く。
部屋に戻って最初にするのが、今まで書き溜めてきたラブレターのチェックだ。
「やっぱり、去年の夏に書き始めた『煉獄編』はちょっとばかり表現がくどいな。だからといって、秋口に着手した『氷の帝王編』はあまりにもキザ過ぎる。決め台詞のつもりで書いた"俺様の美字に、酔いな"は、もはや完全に浮いてしまってる」
適当にチョイスして読み返してみるが、やはりどれもしっくりこない。
だからこそ没にしたのだから、当然と言えば当然だけど。
「今日は、こっちの方から先に書き始めるか……」
ひとり呟き、webサイトを立ち上げる。
ラブレターの下書きを保存している、小説投稿サイトだ。
実は、俺がこのサイトにラブレターの下書きを保存しているのにはもう一つ訳がある。
何を隠そう、この俺。このサイトに小説を投稿していたのだ!その名も『雪の残り香』!
とまあ、息まいたのはいいが、現実は残酷だ。
「やっぱり、今日もPV1か……」
毎日せっせと投稿しているのだが、一向に伸びる気配もない。ていうか、ランキングサイトの癖にランキングに乗ったこともない、超ド底辺作品だったりする。
このご時世、人の心の機微を描くような純文学じゃ、流行らないのかなあ。
それでも、めげずに俺は書き続ける。
匿名での投稿ができるこのサイトは、目立つことが嫌いな俺にとっては数少ない自己表現の場所なんだし。
そしてなにより、こんな俺でも応援してくれるファンがいるんだ。
「お、やっぱり今日も感想くれてる。ありがたやありがたや……」
画面に拝みながらページを開き、投稿された感想に目を通す。
相変わらず、痒い所に手が届く完璧な考察だ。最後の一文に込めた俺の意図をばっちりと汲んでくれているのが分かる。
きっと、俺に似て繊細な心の持ち主なんだろう。
「どこの誰かは、さっぱりわかんないけどさ」
苦笑しながら、感想の主に目を落とす。
そこには、『エドワード=ノイズ』というペンネームが記されていた。ひょっとしたら、日本人ですらないのかもしれない。
このエドワードさん、通称エドは、連載開始当初から俺の作品を追いかけてくれている。
最新話をアップロードするたびに感想をくれ、最後に必ず”続きを楽しみに待っています!“と書き添えてくれるのだ。
正直言って、ここまで話数が進んでこの低評価では、このサイトにおけるこの作品は”詰み”に等しい。
これだけ連載しているのに読まれていない、評価されていない、という時点で新規読者もページを開く気を失うだろう。
でも、俺はこの作品を書き続ける。
だって、世界中のどこかで俺の作品を待ってくれている人が、少なくても一人はいるんだから。
自分の作品が誰かを楽しませているなんて、こんなに嬉しいことはないよな。
……実生活じゃ、感謝されることだって目立つ行為に該当するから滅多にやらないし……
「さて、今日もいつも通り、連載とラブレターの下書きの二本立てと行きますか」
宿題なんてあっという間に終わらせた。残った時間の全てを、会話すらしたこともない彼女と、名前すら知らない読者に捧げるのだった。
今日は金曜日。
いつもと変わらない一週間が終わろうとしていた。
しかし、この日。ちょっとした事件と、俺の人生を根底からひっくり返しかねない大事件の二つが起こった。
一つ目の事件は2時間目の現文の時間。
俺が唯一苦手とする教師の授業だった。
何が苦手かって?見てれば分かるよ。
『よし、それじゃあ次のページを誰かに呼んでもらうとするか。ついでに、この時の登場人物の心情も答えてもらおうかね』
いいながら、教師はスマホをいじりだした。
何かのアプリを起動すると、軽く表面をタッチする。
『それじゃあ、いつも通り
間違いない、あの悪魔の兵器を使ったのだ。
悪魔の兵器を眺めながら、その教師はアプリが表示したランダムな番号を読み上げる。
『出席番号1452番。立ちなさい』
「……!」
嫌な予感は見事に的中した。
1452番。俺の出席番号である。
いかに万全を期そうとも、このようにランダム要素を織り込まれてしまっては回避しようがない。いくらなんでも、他人のスマホアプリをハッキングするなんてできないし……。
そして、俺は生まれつきクジ運が悪いのである。
『どうした?出席番号1452番。聞こえんのか?』
「……はい」
これ以上黙っていては余計に目立ってしまう。
仕方なくその場で立ち上がる。
全身から汗が噴き出すのが分かる。
視線を教科書に落とし込んで、そこにだけ意識を集中させる。
だけど、やっぱりだめだ。視線を感じる。
そう考えただけで、全身が硬直し、頭の中が真っ白になる。呼吸の仕方も忘れてしまうほどだった。
膝が震え、指が壊れたおもちゃのようにビクビクと小刻みに揺れている。
『どうしたー?先生の話を聞いとらんかったのか?どこのページを読めばいいのか分からんのだろ』
「……」
先生が何を言っているのかもわからない。教科書の文字が俺を嘲笑うかのように揺らめきだす。
教科書に俺の汗が滴り落ちていたのだ。
『もういい!やる気がないならそう言いなさい。さっさと座れ』
「……はい」
それだけの声を絞り出し、椅子に座るだけで精いっぱいだった。
肺の奥に
椅子に座って、足の震えは少し収まったけど、小刻みな腕の痙攣はそのままだった。
先生が次の発表者を指名していたが、周囲の生徒たちの注目は、依然俺に向けられたまま。
(頼む、お願いだから俺のことは気にしないでくれ……!)
そんな本心を口にすれば、余計に注目をひいてしまうのは分かっていたし、何よりそんな度胸があるわけもない。
目を閉じて、教科書に視線を落とすふりをして、ひたすらに周囲の視線が去っていくのを耐える。
結局、授業の残り時間のほとんどは、震える身体を周囲に悟られないようにするだけで費やしてしまった……。
「さっきの時間、先生にあてられた時どうしたの?」なんていう問いかけを受ける前に、休み時間に入るや否や急用ができたふりをして教室を後にする。
これ以上目立つのは御免だ。どのみち、この程度のことなら一時間程度で風化する。
休み時間を目立たずに過ごす方法なら、いくつも用意している。
人気のない自販機の隅っこで時間をつぶすような愚行を、俺は冒さない。万が一見つかった暁には、余計に目立ってしまうからだ。
一番目立たない方法は、人通りの多い場所を歩き続けることだ。用事があるような顔して歩いている奴に、わざわざ注目する生徒もいないだろう。
名付けて、”ステルス・スニーク”。意味が重複してるのは重々承知しているので、いちいちツッコまないで結構。
それはさておき、先ほどの体たらくを見て、よくわかったと思う。
俺が、どうしてここまで目立つことを嫌うのか。
とにかく、人の視線を感じると、頭と体の両方がフリーズしてしまうのだ。
昔からこうだったわけじゃない。こうなってしまった原因はあるにはあるのだが、話すと長くなるから今はやめておこう。
「……はあ」
我ながら厄介な体質なったものだとこっそりとため息をつく。
気が付けば、周囲から人気が薄れつつある。別の人通りの多い場所を目指して方向転換した刹那、背後から声をかけられた。
「やっほ、佐藤くん」
「!?」
まさか、”ステルス・スニーク”中に声をかけられるなんて思ってもいなかったから驚いた。
そして、振り返った先にあった顔を見て、さらに驚く羽目に。
「……青蓮院さん。ど、ど、ど、どうしたの?」
さすがに声が上ずる。人目にさらされているわけではないが、こんな唐突に声をかけられたらパニックに陥るのも無理はないだろう。
だって、俺が彼女と会話するなんて初めてのことなんだぜ!?
そんな俺の心中をよそに、彼女は快活に笑う。
「どうって程でもないけど、さっきの授業中、とても調子が悪そうだったから心配になって。ゴメン、迷惑だったかな?」
意志の強そうな濃い眉毛が、すまなそうに垂れ下がる。俺は慌てて声を上げた。
「そ、そんなことないよ。心配してくれて、ありがとう」
「そっか、よかった。ああいうことは誰にでもあるから、気にしないで良いと思うよ」
それじゃと軽く手を上げて、はにかむ様に柔らかい笑みを残し、彼女はせわしなくどこかに小走りに駆けて行った。
……俺の名前、憶えてくれてるんだ……
4000人もいる生徒の顔と名前を一致させるなんて、普通の人間ではまず不可能だ。
ましてや1年ごとにクラス替えがあるのだから、覚えたころには別の教室なんてこともある。
それなのに、彼女は何の苦労もなくあっさりと俺の名前を言い当てたんだ。
「本当、大した女性だ。君の全てを、心から尊敬するよ」
誰にも聞こえないように、こっそりと本音を漏らすのだった。
さて、金曜日に起こった2つの事件のうち、二つ目についてこれから語ろうと思う。
なに?さっき彼女に声をかけられたのが二つ目だったんじゃないかって?
俺もそう思ってたさ。でも、そうじゃなかった。
二つ目の大事件は、その日の午後に起こったんだ。
『さて、諸君も3年生。そして、今年もそろそろ我が校伝統行事の季節がやってきたわけだ』
担当教師が楽し気に声を弾ませる。
一方、声を受け取った生徒たちのリアクションは様々だった。
不平に頬を膨らませる者、ギラギラした目で周囲を見渡す者、手作りのメモ帳に何やら必死でペンを走らせる者。
高校3年に訪れる、我が校独自の少々風変わりなイベント。
『”多部ログ”の始まりだ!』
普段は生真面目な様子の教師が、この時ばかりは少しタガが外れたようにテンションが高い。
活動期間中は部活動も禁止になるため、教員も早々に帰宅できるという、非常にありがたいイベントでもあるのだ。
多部川商店街活性化イベント、通称”多部ログ”
生徒数約3万人という、とんでもない学院のお膝元である多部川商店街。
当然のことながら商店街の利害と、生徒の立ち振る舞いには密接な関係がある。
素行の悪い生徒のたまり場にされるのは御免だが、かといって3万人もいる生徒すべての来店を断るのはあまりにも惜しい。
それは学院側も同じで、地元との関係を良好に保つため、生徒には商店街と健全なお付き合いをしてほしいというのが本音だろう。
そこで考案されたのが件のイベント、というわけだ。
早い話が、社会科見学の一環と称して地元商店街のレビュー記事を書かせるという主旨の”課外授業”なのだ。
学校の公式行事であるため、生徒側も迂闊な行動はできない。なにしろこの期間中に店側からクレームが来れば単位を落とす仕組みになっているのだから。
商店街にしても、年に一回、一か月間に集中して集客できるのだから願ったりかなったりである。
完全なwin-winの関係を生み出しているように見えるイベントだが、一点だけ問題があった。
それは、俺にとっても致命的な問題だ。
それは、"二人一組のペアで実施する"というルールだ。
人数が多すぎると活動に身が入らなくなる生徒もいるし、集団で店に入ること自体が迷惑になる場合もある。
一人で行動させるのも、採点が面倒だったり、要らぬトラブルのもとになることもある。もちろん商店街は他校の生徒も利用するし、その中には不良の巣窟として名高い朱久高校も名を連ねている。1人で下校しているときに、カツアゲにあったという話を幾度となくホームルームで聞かされたものだ。
と言った理由で、この学院きっての珍妙なイベントは、勤勉な受験生にとっては貴重な学習時間を奪われるだけの億劫なものであり、恋人のいない男女にとっては貴重な出会いのチャンスでもある。
もっとも、必ずしも意中の相手とペアになれるわけもなく、同姓のペアが乱立することも多々ある。
なにしろ、ペアを決定するのはお決まりの
「どうせ誰と一緒にやっても同じなんだ。さっさと終わらせてくれ……」
ざわつく教室の中、俺は半眼になって呆然と張り切る教師を見つめるだけ。
生まれつきクジ運の悪い俺にとっては、ただ単に見知らぬ相手と当たり障りのない時間を過ごすだけの退屈なイベントに過ぎない。
それでも、誰かと二人きりで行動するのは耐え難いストレスだ。1人とは言え、他人から常に注目され続けるわけだからな……。
『それじゃあ、お楽しみのペア決めタイムと行くか。各自、自分の端末に注目するように。それじゃあ、始めるぞー!』
完全に死んだ目で自分の携帯を眺める。
何度も繰り返して悪いが、俺のクジ運は本当に悪い。生まれてこの方、クジで『当たり』と名のつくものを引き当てたことがないレベルだ。
ここまで偏ると、もはや何ものかの見えざる手が俺の運命に介入しているのでは?と疑ったこともあるが、考えても結論の出るものではなかった。
そしてなにより、このクジ運の無さは、目立ちたくないという俺の理念に結構マッチしているのだ。
だから、今回もきっと当たり障りのない、地味なパートナーを無事に引き当てて、無難に終わるのだろうと思っていた。
そう、携帯端末に記された、その四桁の番号を見るまでは……
「……嘘だろ?」
何かの間違いかと思ったが、そうではない。
俺が彼女の出席番号を忘れるわけがないし、このタイミングで端末が故障することなどさらにあり得ない。
つまり……
「やっほ、佐藤くん。今日は、これで二度目だね。一か月間、よろしくね」
つい数時間前と同じく、彼女にしては珍しい、はにかんだあやふやな笑みを浮かべて、青蓮院琴音──俺の鷹ログパートナーがそこに立っていた。
どうやら、今までの俺のクジ運の悪さは、全てこの一瞬のために集約されていたらしい。
「神様、ありがとう」
誰にも聞こえないように、小声で神への感謝の言葉を口にしたのだった。
それから、放課後までの間の辛いことと言ったらなかった。
だってそうだろ?あの瞬間、クラス中の注目は俺に集中していたんだから。
現文の時間の注目度も、これに比べれば可愛いものだった。
っていうか、シンプルに記憶がない。気がついたら放課後になっていた。気を失っていたのかもしれん。
「佐藤くん、大丈夫?午後の授業中、ずっと顔色悪かったよ?」
どうやら、ぱっと見で分かるほど明確に気絶していた訳ではないらしい。
って、この声は、もしかして……?
「しょ、青蓮院さん!?どうしたの?」
「どうって、一緒に帰ろうと思って誘いに来たの。どうせだから、途中にどこかに寄っていこうよ」
彼女のその一言に、確かに教室中がザワついた。
再び、俺に視線が集中するのが分かった。話しかけてくれるのは嬉しいけど、頼むから教室の中では止めてくれ……!
「一か月もある、なんて考えてたらあっという間に終わっちゃうじゃない。それに、せっかくだからいろんなお店を回って、一番のおすすめ記事を書きたいんだ!」
「さあ、行こう」と言って、俺の手を引いて教室を出て行く。
「手を……つないだ……!」
誰かの悲壮な声が聞こえてきたが、生憎とフリーズした俺の思考では、せっかくの彼女の手の柔らかさも暖かさも感じ取ることができないでいた。
「せっかくだから、今日は佐藤くんのおすすめの店に連れてってもらおうかな」
辛うじて聞き取れたその声と、一刻も早く人目を避けたいという俺の切迫した願いとが相まって、こんな状況でも辛うじて行き先を指し示すことができたのだった。
「……はっ!?」
気がついたら、俺は行きつけの喫茶店の隅の席に座っていた。
商店街のメインストリートから一本外れた側道の、さらに脇道の突き当りにあるという、ある意味この世の果てのような立地。
正直言って経営が成り立っているとは思えないほどの客足だが、人目を避けたい俺にとっては絶好の場所だった。
座り慣れたソファに深く腰を沈める。
ああ、やっぱり自分の部屋以外の場所だと、ここが一番落ち着く……。
人目を気にすることなく、静かな時間を過ごせる俺の
今だって、目の前に座る彼女以外誰もいない……。
「って!どうして青蓮院さんまでここにいるの!」
「どうしてって、キミが連れてきたんじゃないか。変なこと聞く人だね」
くすくすと、口元に手を当てて笑う彼女。
そうか、彼女が俺のパートナーになったのは、どうやら夢でも幻でもなかったらしい。
「佐藤くんって、こう言う場所が好きなんだ」
「……うん。なんていうか、落ち着くからかな」
「ふうん」と、店内に流れるジャズに溶け込むような静かな相槌を打ち、運ばれてきた珈琲に口をつける。
あれ……。
青蓮院さんって、結構華奢なんだな……。
スポーツをやってる人にしては腕も細いし、肩幅だってそんなにない。
普段の奔放なイメージの彼女も、この店みたいにくすんで寂れた空気にも不思議と馴染んで見えた。
「そういえば、さ」
「な、なんだい?」
「午前中話しかけた時、随分驚かせちゃったみたいだけど、大丈夫だった?」
「そりゃあ驚くよ。だって、俺みたいな奴の名前を憶えてくれてたなんて、思わなかったから」
「実は、こうやって話すのだって今日が初めてなんだよ?」と添え、本心を打ち明ける。
「あれ?でも、佐藤くんだって私の名前覚えてたじゃない?」
「そりゃあ、キミはその……色々と有名だから」
「ま、そっか。アハハ」
一瞬心臓が飛び跳ねそうになったが、とっさに用意した言い訳で納得させられたらしい。
目立つことが嫌いな俺は、自分の感情を完璧に抑え込むことができる。自己主張は他者との軋轢を生み、その摩擦は周囲の注目を引く。
だから、きっと今だって好きな女の子を目の前にしてドキドキしているなんて、微塵も悟られていない……はずだ。
「……」
「……」
それからしばらくの間、二人の間に沈黙の時間が続いた。
暇を持て余したマスターが3本目のタバコに火をつける。店内に漂う珈琲の香ばしい匂いに、タバコの煙がしっとりと纏わりつく。
静かな空間で、ゆっくりと珈琲を味わうだけの時間が続いた。
……って、ダメだろ、コレ!
彼女みたいな快活な女性が、こんな物静かな場所を気に入るわけがないじゃないか!
さっきから一向に会話も弾まないし。こんなんじゃ退屈で飽きられちゃうよ。
せっかく二人きりになれたのに。
何か、少しでも彼女を楽しませるようなことを……。
って、ダメだあああ!
何の引き出しもありゃしねえよ。よく考えれば、彼女がどんな趣味を持ってるかも知らないし、俺にいたっては目立つことが嫌いだから何の趣味もないし!
やっぱり、俺みたいな奴が彼女に好意を抱くこと自体が無謀だったんだ……。
俺が必死に会話の糸口を探っていると、彼女は軽く手を上げ、マスターに珈琲のお代わりを注文する。
「ここの珈琲。とっても美味しいです。私、濃いめで苦みが少ないのが好きだったんです」
普段見せないような、落ち着いた笑顔。マスターは何も言わずに口元を少し緩める程度の笑みでそれに応える。
どうやら、そこまで退屈しているわけではないらしい。
ほっと胸をなでおろす。そして、改めて彼女の様子に意識を向ける。
あれ?
気のせいか、教室にいる時の彼女と比べてリラックスしている、と言うか、安心しきっているような表情に見えた。
彼女のことなんか何も知らない俺だから、きっと勘違いなんだろうけどさ……。
それから、1時間近くが過ぎた。
簡単に言えば、良い所は一つもなかった。
特に当たり障りのない会話を少しだけはさんだ以外は、沈黙と珈琲をすする音が交互に店内に響くだけだった。
せっかく、神様が一生分の運を凝縮して俺にプレゼントしてくれったってのに、これじゃあ運の無駄遣いだよ……。
俺が肩を落として落ち込んでいると、彼女がおもむろに携帯を取り出してこう言った。
「ねえ、佐藤くん。明日って時間あるかな?」
「明日?土曜日だから特に大丈夫だけど……」
俺がそう答えると、彼女の表情がパッと綻んだ。
うわあ……。やっぱり可愛いなあ……。
俺が訳もわからず、彼女の笑顔に見惚れていると、
「じゃあ、明日もこの商店街を散策しない?今度は、私のお勧めを紹介するから」
「……」
彼女が何を言ってるのかが理解しきれず、俺はしばらくの間絶句していた。
落ち着け、状況を整理するんだ。
人目に晒されているわけでもないのに、勝手にパニックを起こしかけている頭を強引に静めようとする。
だが、彼女はしばらくの沈黙の後、こう続けてきた。
「嫌……かな……?」
「い、い、行きます!」
伏し目がちにそう言われては、理性よりも先に本能が口を動かしていた。
嬉しそうに微笑むと、連絡先を交換し、明日の待ち合わせ場所と時間をざっと決め合った。
「それじゃ、また明日ね!」
いつも通り、元気の塊のような別れの挨拶と共に、彼女は家路についたのだった。
「お、お、お、お、お、落ち着くんだ……!」
その日の夜、俺は自室で机に向かってひたすら同じことを繰り返し呟いていた。
それくらい、今日一日の出来事は強烈すぎた。
地味に、目立たないように生きてきた今までの人生の数万倍の刺激に満ち溢れた、とてつもない一日だった。
「そ、それが、明日も続くって言うのか?」
それって、つまり、デートってことか?
「いや、あり得ない!あんなつまらないスポットにいきなり連れて行くような甲斐性ナシ、加えて会話も満足にできないコミュ障にそんな誘いをするわけがない!」
そうだ。あの喫茶店があまりにも退屈だったから、彼女は俺に"お手本"を見せてくれようとしているに違いない。
彼女はどんなことにも全力投球だ。さっきも言っていたように、この多部ログにも全身全霊で挑もうとしているのだろう。
そんな時にあんな面白みのない店を紹介されたから怒ってるんだ。こんな店のレビューを書いて、満足に単位がもらえると思うなよ、と。
時間も限られているから、土日も惜しんでレビューにふさわしい店を探そうとしているんだ。きっとそうだ!
「理由はどうあれ、まさか土曜日も彼女と会えるなんて……」
ぼうっとしながら、書き終えたラブレターの下書きを保存する。
今日のも中々の出来だったが、正直言って今の俺では冷静なジャッジができない。また後日、しっかりと校正をし直せばいい。
「ああ、早く明日にならないかなあ」
気もそぞろに、俺はタッチパッドを操作してちゃっちゃと下書きを保存し、PCを立ち下げる。
その時、いつもなら入念にチェックしていた『非公開』のチェックボックスは、浮かれきったオレの目には霞んで見えていたのだった……。
翌日──
狙い通りの時間に、待ち合わせの場所に到着。完璧なタイミングだった。
ところで、待ち合わせの時、最も目立たないタイミングって何時だか分かる?
オーソドックスに5分前?社会人としては正しいのかもしれないが、俺的にはNGだな。
正解は、『相手がやってきた1分後』だ。
これなら、無駄に相手を待たせることもなく、逆に自分を長いこと待たせてしまったのでは?という罪悪感も生じない。
どうだ、完璧だろ?
なに?どうやって相手が到着するタイミングが分かるのかって?
そんなの、待ち合わせ場所の近くで目立たないように見張ってりゃいいだけじゃないか。もともと目立たないように景色に溶け込むのは得意中の得意だしな!
それはさておき、今は彼女のことを忘れちゃいけない。
俺に気づくと、元気よく手を振って迎えてくれる。
「おっはよー。佐藤くん、今日もよろしく!」
「おはよう。なんだか、いつもにも増して元気だね」
初めて見る彼女の私服。
ノースリーブの、丈の長いワンピース。いつもの活発なイメージとは違って、落ち着きのある清楚なお嬢様って感じだ。
正直言って、めちゃくちゃ可愛いし、似合っている。
その証拠に、さっきから周囲の視線が思いっきり彼女に集中していた。特徴的なのは、視線の主は男女を問わないってところ。
改めて思うが、彼女はやはり特別な存在なのだ……。
「約束通り、今日は私のお勧めスポットを紹介するよー!」
清楚な見た目にそぐわず、袖まくりをして(ノースリーブなのであくまで仕草だけね)ブンブンと腕を回す。
見た目とのギャップの激しさに、周囲の視線がさらに密度を増す。もちろん、そんなことは彼女は一向に気にしない。
「ああ、よろしくね」
口から心臓が飛び出そうなほどドキドキしているのだが、そんなのはおくびにも出さずに軽く微笑む。
しかし、一体どんな一日が始まるのか……。俺には想像もつかなかった。
「よっしゃー!またもホームラーン!」
「わー、凄いね(パチパチ)」
甲高い金属音と共に、吸い込まれるように場外のネットを揺らす打球。
聞いて驚くな。なんと、ここ多部商店街にはバッティングセンターまであるのだ!
そしてなんと、彼女が選んだおすすめスポットがここだったのだ!
「部活がお休みだから、こうやって体も動かさないと鈍っちゃうもんね」
とは彼女の談。きっと、普段は休日も部活で汗を流しているんだろう。そのルーティンを崩さないように、今日、ここを選んだってわけだ。
切れの良い、腰の入ったフォームで豪快にホームランを量産する彼女を見つめながら、俺の心中は複雑な思いでいっぱいだった。
これは、間違ってもデートで来るような場所じゃない。
万が一、いや、
それと同時に、不思議な闘志が湧いてくるのも感じていた。
そう簡単にいくはずがない。それでこそ、青蓮院琴音だ。
そんな彼女だからこそ、俺は毎日のように"究極のラブレター"を書き続けているんだから。
「さ、次は佐藤くんの番だよ!」
額の汗を指で弾きながら、自分のバットを俺に渡してくる。
「佐藤くんも豪快にかっ飛ばしてよね!」
いくら彼女の頼みでも、絶対にそんなことをするわけにはいかない。
彼女の選んだコースは『プロ仕様、初心者お断り』なのだ。こんな剛速球のマシーンでホームランなど打とうものなら、どれだけ周囲から注目されるか分かったもんじゃない。
事実、さっきまでの彼女の注目の集めっぷりたるや、よそ見してデッドボールを喰らってた男子もいたほどだ。
いつものように無難にやり過ごそう。
というわけで、俺は狙いすましたように内野安打とゴロを繰り返した。少しだけ惜しい当たりを混ぜるため、特大のファールも交えつつ。
平均的な高校生なら、こんなもんだろ。
「佐藤くん、本気出してないでしょ?」
「ぎくっ!?」
無事にやり過ごせたと思ったら、何故か彼女に咎められてしまった。
まさか、わざとやってるって見抜かれたのか?
「もっと思いっきり振ってごらんよ!フォームは悪くないんだからきっと飛距離も伸びるって──」
そう言いながら、彼女が俺の立つ打席に近づいてくる。
その時だった。
「……っ!」
使い古されたピッチングマシーンが投球動作に入るのが見えた。
そんな!さっきのが最後だったはずなのに!まさか、老朽化で故障したのか?
しかも、このコース……まずい!
そう思った刹那、俺はバットを放り投げ、彼女をすり抜けるように前に出た。
「どうしたの?佐藤く──」
振り返った彼女の顔めがけ、狂ったマシーンから放たれた、時速150㎞近い速度のボールが飛んでくる。
このままいけば、間違いなく彼女の美しい顔に衝突するだろう。
しかし、間一髪間に合った。
すんでのところで伸ばした
「──え?」
何が起こったのか分からなかっただろう。おそらく彼女の目には、いきなり目の前にボールが現れたようにしか見えなかったはずだ。
事情が呑み込めず、茫然と俺に尋ねる。
「そのボール、どうしたの?」
「……落ちてたのを拾っただけだけど?」
どうしようもなく苦しい言い訳だったが、押し通すしかない。
それに、おそらくこの流れだと……
「あれ?どうやらマシーンが壊れたみたいだよ?青蓮院さん、ひょっとしてマシーンにライナー直撃させたんじゃない?」
「そんなわけないでしょ!でも、確かに調子悪いみたいだね。エラー音が鳴ってるもん」
よし、うまくごまかせた。
あとは、パンパンに腫れた左掌をさり気なくポケットに隠してここを去るだけだ。
「俺はいいから、他のところに行こうか」
そういって、少し強引に彼女をセンターの外に押し出したのだった。
「ねえ、佐藤くん。さっきのアレ、本当に落ちてたボールを拾っただけ?」
「え?そんなこと言ったっけ?」
「ついさっきのことなの忘れちゃったの?ひょっとして……」
「そういえば、あれだけホームランを打ったんだから何か景品でももらえたんじゃないかな。ちょっと惜しいことをしたね」
強引に話を逸らして、会話を軌道修正する。
もともと口下手なもんで、かなり無茶苦茶な転換になってしまったが、変に気を遣わせるわけにもいかない。
なに?ボールが飛んでくるのが分かってたんなら、彼女をボールの軌道からどかせばよかったんじゃないかって?
女性の身体に、しかも彼女に触れるなんて恥ずかしくてできるわけがないだろ!?
それに、そんな派手なアクションしたら、余計に目立っちゃうじゃないか。
あの状況なら、素手で受け止めるのが最も静かで、目立たない方法だったんだよ。
「なんだか、佐藤くんって不思議。さっきも、全然本気出してないように見えたし」
「冗談でしょ。俺なんかが、あんな剛速球を打てるわけがないって。それよりも、次はどこに行くのかな?」
肩を竦めて追及をかわす。こういう時は、真っ向から否定するよりもやんわりと話題を逸らす方が摩擦が少なくて済むのだ。
「でも、でも!」
しかし、彼女は食い下がる。人目もはばからず、大声で唸りを上げている。
まあ、そのしぐさの目立つったらありゃしない。
こんなところでそんなに騒いだら……。
「お?この通りでこんなに大声出しちゃって、どうしたんだよ?」
ほら、やっぱり現れた。ていうか、タイミング良すぎだろ。
えんじ色の派手な学ランは、近所でも有名な不良校──
前時代的なヤンキースタイルのファッションで、奇妙なバランスで体を左右に揺らしながらこちらに近づいてくる。
ヤバイヤバイヤバイやばいやばい……!
心の中で警鐘が鳴りやまない。
この状況は非常にマズイ!
「おい、まさかこの女。多部川の青蓮院じゃねえか!」
「うっお!マジだ。まさかこんなところで一人でいるとは思わなかったぜ。どうよ、俺らと遊ぼうぜ!」
完全に予想通りの展開だ。いつもの登下校は大勢の生徒に囲まれてるから手が出せなかったが、隙あればこうやって強引に誘いを賭けようとする輩は大勢いる。
二人組の不良に絡まれて、普通の女の子なら狼狽えるところだが、彼女は違った。
「お生憎様。今はお二人様よ」
ベーっと舌を出して、グイっと俺を引き寄せる。
って!俺の腕に貴女のいろんなところが密着してしまうんですけど!?
別の意味でヤバいことになりそうだが、問題はそっちではない。
案の定、周囲から軽いざわめきが聞こえ始める。
「なに?喧嘩か?」
「いいや、ナンパらしいよ」
「一人の女性を巡って、男と男の真剣勝負か」
やじ馬が周囲に人だかりを作る。
みんな、
「そんな地味な男なんて放って、どっか行こうぜ」
「可哀そうに、オレ達に怯えてガッチガチに固まってんじゃんよ」
お前らが怖いんじゃない!他の人達の視線が怖いんだよ。
ああ、胃が痛い。汗が止まらない。膝が震える。目の前が真っ暗だ。
「私達、これから行くところがあるの。邪魔しないで頂戴」
「んだとお?」
強気を崩さない彼女に、不良共が声を荒げる。お前らも、沸点低すぎだろ。
でも、このままじゃ彼女が危ない。
動け……動け……!
硬直した思考の中で、ただそれだけを必死に願い続ける。
朱久の奴らは、とにかくタチが悪い。カツアゲだけじゃない、傷害事件にまで発展するような派手な喧嘩を繰り返している。
そんなやつらに、彼女を渡していいわけがない。そんなこと、絶対にダメだ。
だから、少しでいい。
頼む……何でもいいから動いてくれ……!
胃の奥底から絞り出すように、俺はたった一言だけ喋ることができた。
「やめ……ろ……」
「佐藤くん!?」
「んだよ?ビビりの兄ちゃんは引っ込んでろや」
「……」
不良共の注意がこっちに向く。さらに注目度が増して、プレッシャーも倍増する。
それでも、目線だけは奴らから逸らさない。
緊張で指一つ動かせない俺に、今できるのはこれだけだった。
とにかく、今は
無言で睨みつけられ続け、やつらの歪んだ人相がより一層不機嫌に染まっていく。
なんだ……やればできるじゃないか、俺。その気になれば、こんな簡単に目立つことができるのか。
あとは、どうか俺だけをターゲットにしてくれることを祈るだけだ。
「おもしれえ。ひたすら黙ってガンとばすなんざ、良い度胸じゃねえか。気が変わったぜ、まずはお前と遊んでやる」
──狙い通り!偉いぞお前ら!──
もう一人が俺の胸ぐらをつかみ上げる。
「マジで気に入っちゃったぜ。このまま
──え?今、なんて言った?──
人気のない所に、連れていってくるってのか?
そいつは、マジで願ったりかなったりだ。
もう一人の不良が、胸ぐらをさらにグイグイと締めあげながら言葉を続ける。
「あっちに俺たちがよく使う空き地──処刑場があんだよ。ついてきな」
身体が満足に動かないんで、できればこのまま胸ぐら掴んでつれってくれませんかね?
そんな俺たちの後ろで、意を決したように彼女が叫ぶ。
「佐藤くん!私も一緒に戦う!」
嫁入り前の女性が、そんな雄々しい発言は控えていただけませんか?
それに、彼女を巻き込むことになったら、ぞろぞろと野次馬を引き連れていくことになりかねない。そうなってしまえば、俺もいつも通りに動くことができない。
チラリと視線を彼女に向け、限界ギリギリのところでもう一言だけ絞り出す。
「……ここで待ってて」
「……!」
必死の形相──野次馬視線の集中砲火で憔悴しただけだけど──に有無を言わさぬ説得力を勝手に感じ取ったのか、彼女はその場に立ち止まってくれた。
同時に、野次馬の誰かがぼそりと呟くのが聞こえる。
「……渋い」
「オラ!いまさら後悔しても遅えからな!」
分かったから、早くこの注目地獄から俺を解放してくれ。
「お前らもさっさと散れ!見せもんじゃねえぞ!」
珍しく意見が合いますね。早く人気のないところに行きましょう。
と言うわけで、俺たち三人は誰の目にもつかない小さな空き地で"決着"を付けることになったのだった。
──数分後
「ゴメン、待った?」
「え、早っ!?」
すっかり野次馬が立ち去ったメインストリートで、約束通り彼女は俺を待ってくれていた。
怪我一つしていない俺の顔を見て、驚いたように目を見開いている。
「大丈夫?ケガ、してない?」
「うん、大丈夫。さ、行こう」
「ていうか、その……ええと……」
彼女にしては珍しく言葉を選んでいるようだ。
無理もないか、あの状況で、まさか数分で何事もなく戻ってくるとは思わないだろうからね。
何度も言うが、俺は目立つのが嫌いだ。
だから、目立たないよう、毎日絶え間ない鍛錬を積んでいるのだ。
ここで一つ質問だ。
目立たないようにするために自分にできることはたくさんある。周囲に溶け込むように振る舞い、突飛な行動をとらない。
一方、俺に注意を向けようとしてくる他人に対してできることって、なんだと思う?
聡明な諸君ならすぐに分かっただろう。
答えは簡単、相手の
相手の意識の外側を動き、首筋に手刀を落とすだけ。今頃二人は処刑場の地面に仲良く転がっているだろう。
「偶然お巡りさんが通って、あいつら慌てて逃げて行ったんだよ。今日の俺は、運がいいみたいだ」
「そっか、よかったね」
適当な嘘でも、こんな俺が不良を瞬殺したという真実の方が信じがたい。納得してくれたらしい。
まったく、やつらが前時代的なヤンキーで本当に良かったよ。
バッティングセンターの次は一体どこに連れていかれるのかとドキドキしていたが、彼女の次の提案は意外なものだった。
「実は、さっきの所でネタが尽きちゃったんだ。アハハ……」
すまなそうに頭を掻く。
毎日のようにクラスメイトと商店街を巡っているのだが、彼らと行く場所はメジャーなところばかりで、他のレビュアーたちとの競合が起こるのは嫌らしい。
「せっかくだから、他の誰もが気付かないような掘り出し物のスポットを紹介する記事が書きたいんだ!」
彼女の言うことは、ある意味理にかなっている。
多部ログの成り立ちを考えれば当然と言えば当然で、商店街の健全な活性化が狙いなのだ。
みんなが普段通っているメジャーな店にばかり注目が集中するのは互いに避けたいところだし、その学院側の意図は、そのまま多部ログの採点基準にも反映される。
おそらく、彼女はこのイベントでトップのレビュー記事をかき上げるつもりなのだろう。
そうであれば、紹介する店がメジャーなものばかりでは絶対に届かない。
「だから、午後は商店街を散策してみない?できれば、メインストリートじゃなくて、昨日の喫茶店みたいにひっそりとした場所を」
彼女の提案を断る理由はない。
ただ、一言だけ断っておきたかった。
「いいけど、さっきみたいな連中に絡まれないように気を付けようね」
いくつかの店を巡り、夕方に差し掛かった頃。彼女はまたも恐るべき提案を持ち掛けてきた。
「ねえ、よかったら明日もどうかな?」
おいおい、どうしてこんなに積極的なんだ。
いや、彼女の多部ログにかける情熱は本物なのだ。決して、俺と過ごす時間が気に入ったとか、そんなことはないのだ……残念ながら……。
「試しに、レビュー記事を書いてみようよ。お店の探索も大事だけど、肝心の紹介文がお粗末だったら話にならないじゃない?」
確かにその通り。
俺は黙って頷き、明日の待ち合わせの段取りを交わして、その日は家路についた。
「約束では、いくつか下書きを持って行って互いに校正しあうことになっていったからな。気合を入れて書かないと!」
だてに毎日のように物書きやってないからな。
彼女を唸らせるような、最高の記事を書いていくとしよう。
というわけで、今日は珍しく小説とラブレターの下書きはお休みだ。
今日一日の記憶を掘り起こし、俺は全身全霊でレビュー記事を書き始めるのだった。
そして、この日、web小説の更新を初めてやらなかった。
もしも少しでもwebサイトにアクセスしていたら、きっとあんなことにはならなかったに違いない……
──翌日、
「どう、かな?」
「……」
待ち合わせの場所は、金曜日と同じ喫茶店。どうやら、彼女はここが気に入ったらしい。
そして彼女は今、レビュー記事を覗き込んだまま、しばらくの間じっとしていた。
よくよく考えてみれば、自分の文章を誰かに直接読んでもらうのって初めてだ。
やべえ、この三日間の展開が怒涛すぎて何も考えてなかったけど、急に緊張してきた。
そもそも、俺の小説ってネットじゃ全くと言っていいほどウケてない訳だよな。ひょっとして、俺って文才ないのかもしれない。
ああ、なんだか一斉にいろんな不安が押し寄せてきた。
降って湧いた恐怖に独り耐えていると、彼女がおもむろに顔を上げた。
「佐藤くん……」
「は、はいっ」
小動物のように背中をピクリと震わせる、俺の手を彼女がギュッと握りしめた。
「凄いよ!こんなに文章が上手な人、初めて見た!」
「え、そ……そうかな
予想外のリアクションに、戸惑ってしまう。
幸い、この喫茶店には他に客がいないため、どれだけ騒いでも目立つことはないのだが。
とにかく、こんなに褒められるなんて思わなかったから、マジで嬉しい。
俺の文章を世界で最初に褒めてくれたのはエドさんだが、リアルの世界で初めて感想をくれたのが彼女だなんて、感無量だ。生きててよかった。
「あとはやっぱり店選びだね。超穴場スポットを見つけ出して、最高の記事を書こう!」
一人盛り上がる彼女を見つめた後、俺はそっと手元の記事に目を落とした。
レビュー記事は二本ある。もちろん、もう一本は彼女が書いたものだ。
「そういう青蓮院さんも、とてもきれいな文章を書くよね」
「え?あ、そうかな……なんか照れちゃう」
「うん、凄いよ。この店の珈琲の味、香り、そして少しくすんだ店内の空気まで浮かんでくるようだ。細かくて正確な描写は、まるで……」
そこまで口にして、ふと口が強張る。理由は簡単だった、次に何を喋ろうとしたのか忘れてしまったのだ。
あれ?なんだろう、この既視感は。彼女の文章を読んでいると、何かを思い出そうとするんだ。
でも、何を?
一人で頭を抱えていると、彼女は強引に俺の手元から原稿用紙を奪い去ってしまった。
「佐藤くんに比べたら全然だし。そんなにじろじろ見られたら恥ずかしいよ」
珍しく顔を赤らめている。
うん、こんな恥じらいのある表情も超可愛い。
この顔の前じゃ、ちょっとした疑問もすぐに吹き飛んでしまうってもんだ。
それから少しだけ商店街を散策して、今日は解散になった。
事前に言われていたが、午後は用事があったらしい。
まさか三日連続で彼女と二人きりで過ごせるなんて、夢のような週末だった……。
これから一か月、ずっとこんな日々が続くのかと思うと幸せで脳が溶けてしまいそうだ。
恍惚とした表情で自室の椅子に座る。
いつもの流れでPCを立ち上げ、二日ぶりにwebサイトを覗いてみた。
するとそこには、俺が想像もしていなかった光景が広がっていた。
「……PV……100万!?」
マイページに表示されていた、自作小説のPV数を読み上げ、唖然とする。
何かのバグか?タチの悪いいたずらか?
「嘘……だろ……?」
動揺が隠し切れないまま、通知の欄をクリックする。
「ええと……"あなたの小説が日刊ランキング一位を獲得しました"……だと?」
PV数だけなら何かのバグもあり得る。だが、ランキングの誤表記まで同時に起こることなんてありえるのか?
ひょっとして、本当の本当に……?
震える手で、小説のページをクリックする。詳細なPVの履歴がそこに表示されるのだ。
何故かはわからないが、金曜日の夜から急にPV数が爆増してる。
この二日間で、とんでもない人数が読んで、そして評価してくれていったってことだ。
「マジかよ……。ていうか、マジなんだ……」
少しずつだが、実感がわいてきた。
正直言って、この小説『雪の残り香』はこのサイトで伸びることなんか絶対にないだろうと、諦めていたんだ。
でも、ほとんどの人に見向きもされないまま、それでもクオリティを落とすことなく毎日書き続けた成果が、実を結んだんだ。
ひょっとしたら、偶然有名なレビュアーさんの目にとまって、その人が広めてくれたのかもしれない。
つくづく、金曜日の夜に何があったのか、気になる。
うっすらと浮かぶ涙をぬぐい、俺はどこにいるかもしれない、たった一人のかけがえのないファンに感謝の声を上げた。
「エドさん、ありがとう。エドさんがいてくれたから、俺、今日までやってこれたよ……!」
そう、言ってしまえば、この作品は俺とエドさんの二人で書き上げたようなものだ。
きっとエドさんも今頃草葉の陰で泣いているに違いない。
この俺たちの作品……そう、タイトルは──
作品ページのトップにある、その名を見上げ……
ピシッ
その瞬間、俺の視界が粉々に砕け散ったような錯覚に襲われた。
嘘……だろ……?
凍り付いたような喉で、日刊ランキングぶっちぎりの1位を取った、その作品の名を読み上げる。
──拝啓、
「そっちかーーーーーーーーーーーーい!!!っていうか、なんでアップロードされてんだよおおおおおおおおおおおおお!」
頭を抱えて絶叫する。
隣の部屋から弟の抗議の声が聞こえるが、今はそんなこと気にしてらんねえ!
どうしてこうなった!?
非公開にしてたはずなのに……!非公開にしてたのに!
世界中の人達に、俺の妄想全開の恥ずかしいラブレターを読まれちまってるってことか!?
こんな、こんなに俺が目立つなんて……あり得ない……
不意に、世界中の人間が俺に注目しているような幻覚に襲われる。
頭の中が真っ白になり、その場で俺は卒倒したのだった。
「……とにかく、状況はよく分かった」
目が覚めて、冷静さをとりもどし、ようやく事態の全貌を把握した。
事件が起こったのは、やはり金曜日の夜だ。
あの日、翌日に迫った彼女との予定に完全に浮かれ切っていた。だから、いつも欠かさずにチェックしていた非公開設定を押し忘れていたんだ。
そして、突如としてサイトに出現した一挙2000話掲載のラブレターの数々は、その物珍しさから一気にランキングサイトを駆け上っていった。
『謎の超新星連載、爆誕。たった1人の女性に向けて書き連ねられた、狂気すら超える恋文の数々』と言ったタイトルで、ネットニュースが上がっているのを見てしまった。
たった二日間で、こんなとんでもないことになっていようとは……。
ここまで有名になってしまっては、おそらく明日には学校中の噂になっているだろう。
何しろ、彼女は名前まで個性的だ。同じような容姿、名前の女性はそうそういるものではない。おそらく彼女本人に知られるのも時間の問題だろう。
まさか、ラブレターを完成させる前の下書きの方が先に本人に届くなんて、思っても見なかった。
最大の懸念点は、まさにそこだった。
読んでくれた人たちは結構面白がってくれているが、当の本人は一体どう受け取るだろうか?正直言って、全く分からない……。
「しかし、本当に首の皮一枚でつながったな」
ため息をつきながら、アップロードされていたラブレターの最後のページを閉じる。最初から最後まで読みなおすのに、随分時間がかかったが……。
最後のやつは二日前に書いた、全身がむず痒くなるほどの恥ずかしい文章だが、何とか我慢して読み切れた。そして、確信する。
「この文章からでは、誰が書いたのかを推測することは不可能だ」
俺の無意識下の行動だったのだろう。普通なら手紙の最後に記すであろう差出人が空欄だったのだ。
文面には、俺個人を特定するような表現が見られなかった。投稿者名もペンネームなので、身バレの可能性は限りなく低い。
最初は、あまりの恥ずかしさですぐに削除してしまおうと考えもした。
でも、ここまで拡散した後では無駄だろうし、どんな形であれ俺の書いた作品が夢のランキング入りを果たしたのだから、もったいないとも思った。
万が一、これを書いたのが俺だと知られることがあれば、俺はおそらく二度と外を歩くことはできず、再起不能になるだろう。
しかし、本当に首の皮一枚で生きながらえることができたようだ。
新作を投稿することはしないだろうが、このままランキングをどう推移していくのか、楽しみに見守ろうと思う。
でも、やっぱり問題は……。
「青蓮院さん、これを見てどう思ったかな……」
翌朝。
さすがに気になったので、ほんの少しだけ早く登校したのだが、案の定クラス中であのラブレターの話題で持ちきりのようだった。
文面を読めば、あのラブレターを書いたのがこのクラスの中の誰かであることは自明だ。
「アイツが怪しい」だとか、「実はお前なんだろ」と言うように犯人探しをする者もいれば、「『宇宙世紀編』のこのくだりが良かった」などと、ラブレターの感想を言い合う者もいた。
幸い、と言うか予想通り、アレを書いたのが俺だと疑うような声は一ミリも聞こえてこなかった。
4000人もいるクラスメイトの中で、たった一人の作者をあぶりだすのは至難の業だろう。
改めて、俺は心の中で静かに安堵のため息をつくのだった。
「ねえねえ佐藤くん、読んだ?あれ……」
「まあ、少しだけね。よくもまあ、あれだけの枚数の手紙を書き続けられたもんだと、驚いたよ」
隣の金木さんが恐る恐る尋ねてくるが、軽く笑いながらいなしてやる。
いくら自分のことだとばれていなくても、露骨に悪し様に言われるのはさすがに気分が悪い。いつもの戦術で、話題を巧妙にすり替えてねじ伏せてしまおう。
そう思って俺が口を開きかけた、その次の瞬間──
ガラッ
勢い良くドアを開けて入ってきたのは、この学校の特異点。いや、今やweb小説界の特異点となった彼女だった。
いつもとは違い、始業前に教室に入ってきた彼女の表情は、遠目に見ても硬く強張っていた。
何か思いつめたような気配に、いつもは気さくな挨拶をかける友人たちも尻込みして近づこうともしない。
……やっぱり、怒ってるのかな?
背中にびっしりと汗をかきながら、彼女の一挙手一投足に意識を集中させる。
そして多分、他の3998人のクラスメイトもそれは同じはずだった。
そんな7998本の視線を、いつものようにものともせずに受け止めて、彼女は教壇に立ってこう切り出した。
「あの手紙、読みました」
開口一番のそのセリフに、教室中が確かに騒めき、そしてその波はすぐに静まる。
彼女がこの後にどう続けるか、気になるからだ。
「あんなに多くの手紙を一度に、しかもあんな風に受け取ったのは初めてだから、少し驚いたけど、好きだという気持ちは嬉しいよ」
そういう彼女の目線は、教室の中のいたるところに同時に向けられていた。
今更でなんだが、今、彼女は手紙の主に向けて発言している。つまり、この俺に。
「でも、どうしても直接会って言いたいことがあるんだ。だから、どうか名乗り出てほしい」
「どうすんだ?やっぱ、直接胸ぐら掴んでぶん殴ってやらなきゃ気が済まねえか」
茶化すような男子の台詞を、少し表情を崩して軽くいなす。
無視もせず、変に同調もしない。ここまで張りつめた雰囲気で、彼女の空気の読み方とそのあしらい方の旨さは、やはり天性のものがある。
「それも、直接会った時に話すよ。だから、どうか今ここで名乗り出てほしい」
どこまでも真っすぐな彼女の申し出に、答えるものは一人もいなかった。
それは当然だ。当人であるこの俺が、そんな大注目を浴びるような無謀な真似を絶対にするはずがないからだ。
だが、そんな事情を知る由もない彼女は、しばらく返事を待った後にこう切り出した。
「わかった。名乗り出ないのならそれでもいい。でも、ここで私は宣言させてもらうよ」
少し間を空けて、彼女が大きく息を吸い込む。凛として透き通った彼女の声が、馬鹿デカい教室中に響き渡る。
「手紙の主さん。あなたは、私が絶対に探し出して見せる!どれだけ隠れても無駄だからね。どんなことをしても、どれだけ時間がかかっても、必ずあなたを探し出して見せる!」
それは、彼女からの宣戦布告だった。
彼女がどうしてそんなことを言い出したのか、正直俺には分からない。
誰かが言うように、あんな手紙をばらまいたことに対する怒りをぶつけたいのか、それとも手紙に心打たれて直接会って交際を申し出るつもりなのか。
彼女の表情からは読み取ることができなかった。
だが唯一、これ以上ないほどに明確なことがある。
彼女は本気だ。本気で、この俺を探し当てるつもりなのだ。
「……いいだろう」
誰にも聞こえないように、小声で俺はその宣戦布告を受けて立つ。
不思議と、今までにない程に強烈な創作意欲が沸き立つのを感じていた。沸騰するマグマの様に、熱く、迸る様なヤツだ。
「青蓮院琴音。君の挑戦を受けとった」
新作の投稿をしないと言ったが、それは取りやめだ。
この三日間、君と直接知り合うようになって、君への想いはさらに強くなった。
そのうえ、そんな挑戦状まで叩きつけられたのなら、黙ってはいられない。
毎日、書き続けてやるよ。君へのラブレターを。いくらでもね。
突き止められるものなら、突き止めてみるがいい。
自分を隠すのが誰よりも得意なこの俺を、4000人のクラスメイトの中から。
もしも見つけられたのならば、君の勝ちだ。俺はおそらく学校中、いや日本中の注目に晒されて、原子レベルで崩壊することになるだろう。
だが、見つけられなければどうなる?
投稿を重ねるうちにサイトのランキングも駆け上り、いつか年間一位の栄光に届くかもしれない。
そして、いつかきっと"究極のラブレター"を完成させるだろう。そうなった時は、俺の勝ちだ。
「二人だけの、真剣勝負の始まりだ……!」
教室の隅っこで、俺は一人で不敵に微笑むのだった。
──その日の夕方──
「また明日ねー琴音っち!」
「うん、バイバーイ!」
家の前でクラスメイトに元気よく手を振ると、
するとどうだ、つい先ほどまでハツラツとしていた彼女の気配が一転する。
「……ただいま~」
蚊の鳴くような細い声で、頼りなくそう呟くと、のろのろとリビングに歩いていく。
まるで覇気がない。幽霊に取りつかれている、あるいは幽霊そのもののような頼りない足取りでソファに座り込む。
「……疲れた~」
「おかえりなさい、琴音」
ぐったりとして動かない琴音に、母が淹れたての珈琲を差し出す。
ノロノロとそれを受け取り、ゆっくりと喉に流し込んでいく。
「あなた、いい加減にその性格何とかした方が良いんじゃない?いつか限界が来ると思うけどね」
「……私だって、好きでやってるわけじゃないもん。人目に晒されると、ついついその人たちの期待通りに体が動いちゃうだけなんだから……」
深々とため息をつき、今日一日の疲れを吐き出そうとする。
呆れたように、母。
「まったく、あなたは小さい頃からそうだったわね。極端なアガリ症で、人前に立つと無理して張り切り過ぎるのよ。もっと自然体でいればいいのに」
「……仕方ないでしょ。本当に人前が苦手なんだから。見られてる、と思うと頭の中が真っ白になって、自分でもどうしようもないんだもん」
頬を膨らませ、母親を睨む。普段の彼女ならばまずやらないような仕草だった。だが、これこそが琴音の偽りのない本性だった。
「ここ数日は、それでも元気にして帰ってきたから少しはましになったと思ったのに、また逆戻り?」
「……ていうか、あれは……よく分からないんだけど……」
肩を落として、手元の珈琲を一心に見つめる。
あの時飲んだマスターの珈琲の味と、誰もいない非常に心地よい喫茶店の空気を思い出していた。
「クラスメイトの佐藤くんだったかしら?彼と過ごしてた三日間は、随分とリラックスしてたみたいじゃないの。ひょっとして……」
何かを勘繰る様な母の視線に、冷たい目線を返しながら反論する。
「……そんなんじゃないわよ、多分。よく分からないけど、彼って自己主張が弱すぎるのよ。だから、なにも要求されてないってのが分かって、無理に張り切らなくても良いって気分になるのよ」
琴音はそういうが、事実は全く異なる。
彼ほど琴音に対して強烈な思いを抱いている男はいないだろう。しかし、それを上回るほどに目立つのが嫌いな彼は、隠すのがうまいだけなのだ。
結果として、琴音は彼の前では本当の自分を少しさらけ出すことができた。
他の人間の目がある間は無理だったが、金曜日の喫茶店での一時は、琴音にとって奇跡のような時間だったのだ。
「それにしても、今日はまた一段と疲れてるわね。とにかく、さっさと着替えていらっしゃい」
「……うん」
促されるままに、自室に戻る。
母には何でもお見通しだった。確かに、この24時間は琴音にとっても強烈なインパクトを残していったのだ。
「……はあ」
部屋に戻り、再び深いため息をつく。
朝の宣言。少しやり過ぎたのか、と反省する。人前に出るとついついやり過ぎてしまう琴音にとって、一日の終わりにあまりの恥ずかしさに頭を抱えるのは日常茶飯事だった。
だが、今日ばかりは違った。自分を見ている他人の願望を無意識に反映しているのではない。あれは、まごうことなき彼女の本心だった。
「……でも、やっぱり驚いたわ。本当の本当に……驚いたんだから……」
椅子に腰かけて、PCを立ち上げる。世界で一番落ち着く場所がここだった。
昨日寝る前に確認していたwebサイトがそのまま残っていた。無論、彼の残したラブレターのページだった。
「……まさか、
投稿された2103通の手紙にはすべて目を通していた。本数こそ多いが、一通自体の分量はそれほどでもないため、読み切ることは不可能ではない。
なにより、文章があまりに多彩で読みやすいため、あっという間に読み切ってしまうのだ。
最新話にカーソルを当て、しばし躊躇う。
『感想』を送るか、逡巡しているのだ。
「……やっぱりだめ!」
タッチパッドを軽くこすり、枠外へポインタを追いやる。
名前も知らないラブレターの作者だが、感想やDMを送ることでコンタクトをとることができる。
朝に宣言したように、わざわざ現実世界で作者を特定する必要はないのだ。
だが、それがどうしてもできない理由が琴音にはあった。
「……まったく、不親切なwebサイトだわ。一度登録したハンドルネームは絶対に変えられないし、別名での新規登録もできないなんて……!」
先ほどと同じように、不満げに頬を膨らませ、モニターの一点を憎々しげにグリグリと指でねじる。
そこには、webサイトに登録してある彼女のハンドルネームが記されていた。
エドワード=ノイズ
「……まさか、あの『雪の残り香』の作者が私のクラスメイトだなんて思いもしなかったわ。もっと成熟した、大人の男性だと思ってたから……」
毎日のように人目に晒されるストレスに耐えていた琴音にとって、『雪の残り香』を読んでいる時間だけが唯一自分を取り戻せる大事な時間だった。
繊細で他者の心の機微まで理解できるような美しい文章に肩まで浸り、心身ともに癒される日々だった。
この小説がなければ、琴音の心はとうの昔に壊れていたかもしれない。
自分の支えとなる、素晴らしい作品を生み出してくれた作者に、琴音はいつの間にか心を寄せるようになっていた。
顔も、名前すらも知らない相手に、恋をしていたのだ。
「……同い年だったなんてね……」
だから、あのラブレターが公開された時、世界中で誰よりも驚いたのは琴音だった。
無理もないだろう。恋をしていた見知らぬ作者が、実は自分のクラスメイトで、しかも彼も自分に好意を寄せてくれていたのだから……。
喜びと衝撃で、その場で卒倒したほどだった。
気を取り戻してから、彼女はすぐに作者にDMを送ろうとした。
今まであなたの小説のファンでいたエドワード=ノイズこそが、青蓮院琴音であると。
「……でも、それはできない……だって……怖いもん」
webサイトの特性上、琴音が作者にコンタクトを取ろうとすれば、それは琴音がエドであることを明かすことと同義だ。
しかし、琴音にはどうしてもそうする勇気が持てなかった。両思いが確定しているのだから躊躇う必要はないはずだった。しかし……
「……学校での私と、本当の私。あなたが好きなのはどっちなの?」
琴音の悩みの根源はそこだった。
エドワード=ノイズとして感想を送っている間は、学校とは違う、奥手で引っ込み思案な"本当の琴音"だった。
もしも、手紙の主が恋しているのが学校での明るく誰とでも接する琴音だった場合、それは彼を幻滅させることになる。
つまり、告白にYESと答えた瞬間に、振られることになるのだ。
「……そんなの、絶対に嫌!」
かぶりを振って両肩を抱き、ブルブルと震える。
手紙の主が好きなのが"学校での琴音"だと思うのならば、朝の時間での宣戦布告は全くの無駄である。
なぜなら、あの場所で大声で"YES"と答えるだけで意思は伝わるからだ。
手紙の主が名乗り出ないのは、琴音がラブレターにどんな感情を抱いているのか測りかねているからだろう。つまり、琴音も相手が好きだということを伝えれば、向こうから名乗り出てくれるはずだった。
「……でも、ひょっとして彼が好きなのが"本当の私"だとしたら……?」
大勢の前で告白するような大胆な女だと思われ、やはり幻滅されるに違いない。
普通に考えれば、人前では常に"学校での琴音"として振舞っているのだから、"本当の琴音"を知られているはずがない。
しかし、琴音はそうは考えない。本性の彼女は、徹底的に疑り深く、ネクラなのだ。
「……あれだけ人の心を上手に描写する作者なのよ?きっと普段の言動に潜む、私の本性を見抜いているかもしれない」
でも、見抜いていないのかもしれない。彼が好きなのは、どっちの琴音なのか?
再びラブレターのページに戻る。
2103通もの恋文。実に多彩な表現で、一つとして重複がない。作者の底知れぬ文章力が伺える。
そして、何よりも琴音を含む読者が驚愕のしたは、2103通のラブレターのどこを探しても、{
外見に言及していることはあるが、内面に踏み込んだ描写は一文も見つけられなかった。
それでこれだけの文章を成立させているのだから、底抜けに飛び出た才能である。
「……もう、わざとやってるのかしら!?」
ぶーっと頬を膨らませ、モニターを小突く。
昨晩ひたすら考えたが、やはり結論は変わらなかった。
現実世界にいる作者を見つけだし、本人に悟られないように"どっちの琴音が好きなのか"を聞き出すしかない。
「……必ず、見つけ出すんだから。そして、あなたの理想の私を、貫いて見せるわ」
そう言って、PCの蓋を閉じる。
こうして、2103通の間違いラブレターから始まった恋物語は、
この後に学院や商店街、果ては出版業界を騒がす大事件へと発展していくのだが
それはまた別のお話
『非公開』にしたはずなのに……! 3年書き続けたラブレターの"下書き"がいつの間にかネット小説でぶっちぎりの一位を獲得したかと思ったら、意中の彼女に逆に追いかけまわされる羽目に rkp @rkp_rkp
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