少年愛菊老逾加
くろかわ
如何酈水岸頭花
1
墓前に菊の花を供えて、手を合わせる。数珠をじゃらりと鳴らしていると、線香の薫りが漂い始め花の僅かな匂いを上書きしていく。曇天の寒空を仰いでみれば、今にも雨が降り注がんばかりの顔色だ。相変わらずの雨女だな、と少し苦笑する。
七年も繰り返せば慣れたもので、読経してもらったあとに掃除をしてから、彼女の好きだった苺大福を置く。
今年は
「
そういって、手を合わせるポーズを見せる。きょとんとした顔で同じ手を象る娘。
「お母さん、お部屋にいるんじゃないの?」
確かにそうだ。狭い家の和室一室を仏間兼寝床にしている。普段はいつも、そこにいると話していたから、この疑問はもっともだろう。
「今日は特別な日だから、お母さんはここにいるんだよ」
「特別な日?」
命日だ。どう説明したものかと悩む。
「お母さんがお父さんとお別れした日」
「わたしのお誕生日じゃないの?」
「水澄のお誕生日は帰ってからお祝いしようね」
釈然としないまま頷く娘。初めて連れてきたのだ。どう言い訳しよう。困る。
いつも墓参りの日には実家に預けていた。
水澄にとって、誕生日といえばおじいちゃんとおばあちゃんに祝われる楽しい日。それをこんな辛気臭い場所に来て、良くわからない儀式をさせられるのだ。むずがらないだけ有り難い。
妻とは学生時代からの仲だった。
当時から仕事が落ち着いたら結婚しようかと話し合っていたほどで、恋愛という物に浮かれていたのだろうと今にしてみれば思う。
結果的に大学卒業からしばらくして妻の妊娠が判明し、半ばなし崩しに、半ば予定通りに結婚にまで至った。学生時代から同棲したいたこともあって、驚きこそしたが天地がひっくり返る騒ぎ、とまではいかなかった。
有り体に言えばデキ婚ではあったのだが、お互いの家族仲も良好だったし、恙無くとは言い切れないものの、一定のスムーズさを保って結婚に至った。
「ね、お父さん。お母さんと一緒にお誕生日お祝いするの?」
「そうだね、お母さんと一緒にお祝いしようか」
「お坊さんもお誕生日のお祝いしてくれたんだね」
読経のことだろう。
「そうだね、お坊さんにもお礼を言ってから、おじいちゃんの家でお祝いしようか」
「うん!」
そう言って墓前で手を合わせる。娘も一緒に同じように合掌を作った。
「おかあさん、わたしね、七歳になったよ!」
高らかに宣言したあと、線香立てに七本の煙が舞った。不謹慎かもしれないけれどこれが娘なりの理解であり、また亡き妻との誕生日の祝い方のようだ。
一瞬、咎めるかどうか迷う。
迷うが、
「帰ったらケーキにろうそくを立てようね」
これはケーキじゃないからね、と言うだけに留めた。
喪服のまま電車に乗り込み、二人で静かに揺れられるがまま外を眺める。父娘の間に会話が多いわけではない。そもそも私が驚くほど話し下手だ。この子には悪いことをしているな、と思ってもどうしようもない。
ハブ駅を通り過ぎると席が空く。水澄を座らせて、自分はその前に立つ。ぶらぶらと足を揺らす娘は楽しげに、今年のケーキがなんだろうかとにこにこしている。私は知らないふりをして、ケーキ屋さんが教えてくれるよと告げる。
予約したのは苺のショートケーキ。妻に似たのだろうか、娘は季節の果物をねだる癖がある。
自分の体に横から重圧がかかる。水澄が隣席の人に迷惑をかけないよう、片手で体を支える。電車がゆっくりと停止していく。
空気の抜けるような音がして扉が開く。入ってきたのは親子連れ。父、母、娘。
不思議そうな顔をする娘。
「そういえば、わたしのお母さんはどこにいるの?」
「それは、」
言葉が詰まる。どうしても、ここに居る、と言い切れない。どう納得してもらうかと迷いが浮かぶ。自分だけが停滞した空気を纏っていて、自分の娘がその先を歩いていることを受け入れられない。
「水澄のお母さんは──」
言い淀む。明かりの差さない水底に澱のように沈んだ言葉と気持ちは、
『次は、○○、○○駅に停車致します』
時間に合わせて自動的に発せられた電車のアナウンスに救われる。
2
「ねぇ、子供の名前どうしよっか!」
「な、名前?」
唐突に彼女が言い出した。連絡してもらったレシピ通りに料理の下準備をしていた
ところを、帰ってくるなり不意打ちされた。
寒椿の落ちる頃だ。
どんよりとした重苦しい雨を受けてアパートの庭に幾つも植わっている赤い花。雫が滴ってどことなく艶めかしい。濡れそぼった花弁と言えば毎晩の彼女の痴態を思い出してしまう。
頭を振って、
「何の話?」
真面目に聞き返す。子供?
「できちゃった!」
できちゃった、ではない。もうちょっとあるだろう。風情とか、前振りとか。
まぁ、話が早いのはいつものことだ。あまり気にしない。
「今、どれくらい?」
「今日病院行ったら四週だって」
「おおお」
思わず変なうめき声が出る。陳腐な表現だが愛の結晶だ。興奮しない方がおかしいだろう。びっくりして包丁を取り落とすところだった。危うく柄を掴んで堪える。
「あ、ごめんごめん。流石にタイミング悪かった」
「別に良いよ。嘘じゃないよね?」
ふふ、と彼女は小さく微笑んで、
「嬉しそうで良かった。まだ早いって言われたらどうしようかって」
「早すぎるってことは、あるか。あるな」
まだ結婚していない。
「高校の頃から全然変わらないねー。びっくりすると変な声出しちゃうの」
部屋着に着替えた彼女は、下ごしらえの終わった材料をてきぱきと調理していく。私のぎこちない動きとは大違いで、同棲を始めた時から料理担当は彼女だった。
「そんな昔から?」
「そだよ。修学旅行の肝試しのときもキャンプファイヤーのときも、「おおお」って言ってた」
そうだったろうか。よく覚えていない。
高校の頃に出会ってからなんとなく意気投合して、そのまま付き合い始めて、そのまま同棲までなんとなくで来てしまった。
愛していないと言えば嘘になるが、これが恋だと言い切れないわけでもない。
まぁ、でも、良い機会だ。きちんと形になったのだ。きちんと形式に則ろう。
「とりあえず親に話して来るよ。めっちゃくちゃ怒られそうだけど」
「大丈夫大丈夫、わたしが子供欲しいって言ったんですって伝えちゃうから」
それはそれで、その、良いのだろうか?
「とりあえず電話して来るよ」
頑張ってーとあっけらかんと言う
この話を両親は呆れ半分、体裁の為に怒ったような雰囲気で聞いてくれた。予想はしていたのだろう。向こうの家に一緒に行く予定を立てるため、色々と連絡やら報告やらが多くなると考えると気が重い。家族の仲は悪くはないが、良いわけでもない。
「あんま怒ってなかったね」
那津がまるで猫のように、ひょいと肩の上に首を乗せる。
「もうちょっと怒られると思ってた。あとはそっちの家だね」
「ん、もう送ったよー」
ひらひらと手を振る彼女。
「いや電話しようよ」
おいおい、と突っ込んでしまう。そこは会話にしようよ。
まぁ、そういう家族だから、彼女自身もかなり大らかな人格なのだろう。あちらの家族仲はとても良好のようだ。
自分が最初の人間関係で上手くいかず、かといって失敗したとも言い切れない微妙な感触だったので、少し羨ましい。
「そっかぁ、よかったぁ」
唐突に彼女が言う。あまりに突然過ぎて理解が追いつかなかった。
「何が?」
「子供を作る気はない! とか言われたらどうしようかと」
悩む人のスピード感ではなかったように思うが、まぁ良いのだ。彼女の速度はそういうもので、私には追い切れない部分があるのも事実だった。
「でさ、名前名前。どうしよっか」
「まだ早いんじゃない?」
「ホルモンバランスが崩れておかしいことを言い出す前に決めておきたいの!」
それは確かにそうかもしれない。
そういえば今は一ヶ月か。なら、産まれてくるのは冬の寒さが始まる頃だ。季節にちなんだ名前を付けるのはよくないと聞いたことがあるが、ではどんな名前なら良いのだろう。
「那津はどういう名前が良い?」
「花や季節は良くないって聞くし、捻りすぎると困るよね。どうしよ」
二人で小さな部屋を横切って、一つしか無いベッドに並んで腰を掛けた。
いつの間にか、窓越しの背中に雨が降っていた。電話に夢中で気付かなかった。
「雨だ。気付かなかった」
ぽつりと那津が漏らした。
「花、落ちてる」
ガラス越しに外を見れば、アパートの管理人が趣味でやっている園芸の庭。寒椿が一つ、水の上に浮いていた。
「体、冷やさないようにしないとね」
那津の肩にカーディガンを掛けて、
「白湯でも持ってこようか?」
問えば、
「苺もついでにお願いします、旦那様!」
少し面映ゆい。
3
灰色の空の下、コンクリートで出来た路面を歩きブロック塀を通り過ぎていく。
二人で手をつないではいるものの、気持ちが通じているとは言い難い。
『
返す言葉を見つけられず、機械アナウンスに助けられた私はそのまま黙っていた。
水澄は歳の割に落ち着きがあると言えば聞こえは良いが、自分の感情を泥のように沈殿させているだけなのではないか、と思うことがある。
普通の家庭にいるはずの母親がいない。それは幼い娘にも違和感として感じ取っているはずだ。
授業参観でもそれは見て取れた。
学校内で浮いているという風でこそ無かったが、どことなくクラスメイトから距離を取っていた、ように見える。
心配のし過ぎかもしれない。親の過保護かもしれない。それでも、普通いるはずの人が欠落していれば、漠然とした居心地の悪さに繋がるのではと思ってしまう。
暮らし向きが悪いわけではない。コミュニケーションが無いわけでもない。ただ、たった一つ欠けたピースがあまりにも大きすぎる。
「お父さん」
娘の声に、はっとなって振り返る。
「あ、あぁ、ごめんごめん」
実家を通り過ぎていた。考え過ぎだ。親馬鹿ならぬバカ親である。
「おじいちゃーん、おばあちゃーん、ただいまー!」
水澄は扉を開けて元気よく挨拶をしている。チャイムに手が届かないのだろうか。
「ただいま」
声を揃えていると、ばたばたと階段を降りる音が聞こえた。
4
「候補が、候補が多い!」
少し膨らみ始めたお腹をさすりながら、タッチパネル画面とにらみ合いを続ける妻を他所に夕食を作る。食事といっても簡単なものしか作れない。自分が人の親になるとは思ってすらいなかったし、一人暮らしの期間は極端に短かった。
キャベツと豚肉を重ねて蒸すだけの簡単なメインに、味噌汁とご飯というシンプルな夕餉。本当はもうちょっと手の凝ったものを作って上げたかったが、社会人に成り立てでなかなか思い通りの時間に帰れないのが実情だった。
「なんの候補?」
「名前ー!」
間髪入れずに返ってくる明朗な答え。
そういえばそうだ。名前。名前か。
「よく親の名前から一文字ずつ取るって言うけど、そういうのはどう?」
「那津と聡司だと、うーん」
自分で言っておいて何だが、改めて他人の口から聞いてみると、思った以上に駄目そうだ。
「まだ時間はあるし、ゆっくり悩もうよ」
「そだねー、でもマタニティハイになる前には決めたい。キラキラネームだっけ? ああいうのはちょっとこう、駄目かなー」
それは確かに悲惨だ。
「読めないとね。将来困る」
誰が困るって、親ではない。子供本人だ。それくらい解る。気持ちが昂ぶって妙な読みや難読文字を付ける家庭もあるにはあるらしいが、それは避けたかった。
「全然違う、私たちとは関係ない名前にしてみる?」
コンロから目を離して妻となった女性に向き直る。
「やっぱそうなるよねー。どうしよ」
そういって外を見る那津。今日も雨だ。以前、名前の話をしたときも雨だった気がした。
春雨、にしては少し早いか。夕時雨は少し横殴りに窓を叩いている。アパートの庭には少し水が溜まっていた。夜の灯りがゆらゆらと溜まり水に揺らめいて、幻想的な夜を彩っていた。
「名前、付けたら現実感が湧くかなと思ってたけど」
思わず言葉が溢れた。
「うん?」
「那津の両親と話したらなんか、しっかりしないとなって思っちゃって」
「うんうん。聡司は真面目だねー」
真面目って。
「なんだそれ」
変な顔をしていたのか、顔を見た那津がくすりとはにかんだ。
「旦那様ー、ちょっと焦げてますよ」
「あ、ごめん」
急いでコンロの火を切った。
青い炎の花は、ふっと消えて僅かにガスの香りだけを残した。
5
ろうそくに火が灯されるさまを爛々とした瞳でたっぷりと見つめてから、勢いよく息を吹きかける彼女。
一分ほど前に歌がひとしきり終わり、私は笑顔でケーキの蓋を開けて第一声、
「いちごだ!」
娘の顔が綻ぶ。とケーキ屋では内緒にされてしまった中身に喜んでいるみたいだ。
実家には那津の両親も来ていた。妻の死後は避けられていたが、初孫にして最後の孫の顔は見たいらしい。こちらには一度も連絡を寄越さないし、私から何かを伝えることもない。それでも正月に近いこの時期だけは顔を合わせる。
そういう関係が成り立っている。
これで良いのかどうかは判らない。誰も判断できない。
罪悪感が募る。恐らく嫌悪もされているだろう。けれどどちらも子供の前でそれらの感情を顕にすることはない。
綺麗に切り分けられたケーキの一切れを片手に、わいのわいのと孫を囲む老人たちからそっと離れ、窓の外に視線をやる。
曇りだった天蓋は崩れ落ち、真っ黒に濁った天の涙がぼとりぼとりとこぼれ出している。
傘を持って来て正解だった。
正しいのはそれだけだ。
「聡司くん」
「お義父さん」
いつの間にか結構な時間が経っていた。水澄は眠りこけてしまったらしく、帰りは背負うか、それともいっそ諦めて実家に泊まるか。悩む私に義理の父、那津の親が声を掛けてきた。
「みっちゃん、大きくなったなぁ」
「はい。もう小学校です」
「解ってるよ」
「ランドセル、」
ありがとうございました、と随分前に言った言葉を繰り返そうとし、
「もうその話は済んだろうがよ」
片手で制される。
男二人で黙りこくる。もともと無口な人なのだろう。私のように頑張って何か言葉を捻り出していく質でもないのか、そのまましんしんと雨の降るままに任せて無言を貫く。
「ちょいと外に出ねぇか。喫煙者には世間様が厳しくてよ」
くい、と顎で両親と義母を指す。永く住処を同じくする人を指したようだ。
「はい」
頷く。
軒下の庇に手ぶらで座り込み、再び降りる無言の薄膜。
暫し、雨。
「あいつも煙草が駄目でよ」
「はい」
よく知っている。
「法要は来週だからな」
「はい」
その話ももう済んでいる。
話題があって、切り出せない。そんな雰囲気を感じる。何か言いたいが、言い出しにくいのだろう。
普段は裏表の無い妻が、唯一同じことを──関係のない話題で埋め尽くしたあと、ようやく本題を言い出した時によく似ている。
「雨、止まねぇなぁ」
「はい」
はいはいばかりで他の言葉が無いのか私は。
義父は苦言も呈さない。
本当に会話のない組み合わせだ。
「那津のよ、ことなんだがよ」
「はい。水澄には私から伝えます。ですがもう少しだけ時間をください。生きている側の責任です。まだ水澄には早いと思っています」
「──そうかい。いや、そうじゃなくてだ」
違ったのか。
「お前さん、再婚は考えてないのか」
その時、私の象ったぽかんとした阿呆面は、義父にどんな感情を抱かせただろう。
「え、いや、再婚ですか?」
「考えたことなかったか」
「はい」
即答する。
「俺はそこそこ古い人間だからよ、子供には両親がいたほうが良いんじゃねぇかって思ってんだ」
それで、再婚。
「それは、」
「嫌なら別に良いよ。相手がいねぇならできねぇしよ」
嫌、というわけではない。その選択肢が私の中に無かった。
「考えたこともありませんでした」
「かあちゃんと一緒に考えたんだが、まぁお前さんがそう言うなら無理強いはしねぇけどよ。ほら、七年も経ってるだろ。お前さんもまだまだ若い。だから別にってよ」
我慢や義理立てはしなくても、と。義父は言葉尻だけ濁した。
6
「さんびゃくまん」
「くらい、なん、だけどぉ、その」
駄目とか嫌とかそういうレベルではない。
「無い」
振る袖がない。
「あくまでそれは平均値であってぇ、その、ほんとにそれくらいかかるわけじゃないから、なんとか、こう」
したい、と。
その日の妻はやけに口数が多かった。元々とても多い人なのだが、にしたってどうでもいい話が続いていた。夕食は何故か逐一解説しながら作っていた。食事中も実況中継よろしく、大河ドラマで井上真央がどんな気持ちなのか切々と語っていた。正直喋っている彼女も慌てふためている様子で、役の心情は理解できなかった。
おかげで夕食はすっかり冷めて、風呂の順番も普段と逆になった。
風呂上がりに意を決したように持ちかけられた話題が、三百万円だ。
それは、結婚式と披露宴の費用。その平均値。
本当はもっと低いのだという。本人ももっと安値で済ませると言っているが、
「どれだけ少なく見積もっても百五十万はかかるよね?」
私はともかく、交友関係のやたら広い那津の友人を集めようとすれば間違いなく、もっとかかる。これでもかなり控えめに言ったほうだ。ほぼ確実に、というか絶対にこの数字では収まらない。
それに、お腹はもう膨らみ始めている。養育費だってある。しかも二人とも社会人になってそれほど時間が経っているわけではない。つまり、
「元手がないよ」
「知ってますぅぅぅ」
頭を抱えて落ち込む那津。
「でもね聞いてこれはわたしの個人的な意見なんだけどね女にとってウェディングドレスってとても重要な存在なの解るいや判らなくていいですけどとにかく一生に一度くらいは着てみたいしもちろん産んでからで良いんだけどああでもこの子育てるためのお金も必要だしそんな無駄遣い無駄遣い無駄遣いじゃないよもううう」
「落ち着いて」
久しぶりに見た。本気で混乱するとものすごい早口になるやつ。
「ごめん」
落ち着くのも早い。地頭はとても良いのだ。たまに溢れるだけで。
「子供が少し育ってからのプランも存在するんだし、それまでお預けじゃ駄目?」
ファミリーウェディングプランと書かれた部分を指差す。お値段は子供の衣裳費が上乗せされているが、そこには一旦目を瞑る。
「産まれてから五年後くらいが現実的な線だよね」
少し肩を落として語る彼女。
うごご、と正体不明のうめき声を上げながら頭を抱える彼女は、
「それまでダイエット頑張るね」
と気合を入れていた。
正直、こちらとしては式や披露宴などしなくても、とは思った。
思ったが、黙っていることにした。
だって、
「あなたも一緒に祝ってね。三人一緒にお祝いしようね」
そう言いながら膨らんだお腹を撫でる那津がとても愛おしいから。
「ね、水澄ちゃん」
妻の手に手を重ねる。
少し冷たい彼女の手。
「ごめん、ちょっと薬取って」
はいはい、と言いながらいつものポーチを手渡した。
吸入器を取り出し、口に当てて薬を吸い込む姿を見つめた。
「興奮しすぎだよ」
「えへへ、面目ない。やっぱ世の中金だよー。もう少しお金できたらお祝いしてね」
その言葉は私と子供、どちらに向けられた言葉だったろうか。
どちらでも構わなかった。
7
水澄が、娘が取り上げられてからすぐに妻は他界した。
ほとんど同時だったと言っても良い。
約三パーセントの妊婦が経験する事態だ。
確率はゼロではない。
だからといって納得できる数字でもない。
ただゼロではないというだけだ。
葬儀は混乱のなか進んでいるようだった。
私の主観で私は、半ば自失状態だった。
別の人間が勝手に私の体を乗っ取って粛々と手続きを進めているような感覚ですらあった。
ぬかるんだ時空の中を溺れ流されるままに『私』は葬儀の手順を踏み、空いた時間で出生届を出し、そしてまた妻だったものの後処理を行っていった。
我を取り戻したのはすべてが終わってからだった。
気付けば、本当にすべて終わっていた。
遺灰を納めたあと、誰か(恐らく母)から「しばらく初孫の世話を見るのも良い」と言われた、気がする。
三人で暮らすために転居した部屋は、一人には少し広すぎた。
無限に等しいの大きさを広げるその部屋で、いつの間にか声を上げて泣いていた。
本当に、いつの間にか。
8
ただいま、と心の中だけで呟く。
背中の娘はタクシーから降車した時と変わらず健やかに寝息を立てている。
足音を立てぬよう慎重に歩を進め、娘の体を横たえる。
布団を敷いて、毛布で包んでやる。服はシワがつくだろうけれど、今は気にしないことにした。
仏壇の鈴をちんと鳴らし、手を合わせる。
──今年も一つ、私たちの娘は成長したよ──
何一つ変われない自分に目を背けているのか、それとも一途に亡くした人を想っているのか。自分でも解らない。
背中からもぞもぞと音が産まれる。
「お父さん」
「ごめんね、起こしちゃったかな」
ごしごしと目をこする娘。白黒の妻と一緒になって、愛の形を見つめる。
「お着替え、しないと」
「しようか。立てる?」
うん、と頷く娘の寝巻きを引き出しから用意し、畳まれた礼服と交換する。
「お父さん、何してたの?」
「あー、お母さんとお話してた。水澄が今年も成長しまたよって」
不思議そうな顔をする娘。きょとんと、大きく瞳が問う。
「お母さん、そこにいるの?」
それは、普段ならいとも簡単に頷いて片付けられる質問で。
「お母さん、どこにいるの?」
でも今日は、今だけは答えに窮する問いかけで。
でも。だからこそ。
「お母さんは、水澄とお父さんのいるところに居るよ」
小突けば崩れる砂上の楼閣を作り上げて見せる。
疑問を口にすれば消え去る儚い願望を口にする。
何があろうと一度とて違わぬ誓いを織りあげる。
「そっかぁ。よかったぁ」
そう言って、
寝顔はとても穏やかで、そこには朗らかに笑う妻の面影が色濃く映っている。
少年愛菊老逾加 くろかわ @krkw
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