32-3 時をもどす魔法




 高校二年生の冬、

 階段の踊り場に移動した。

 雨音にまぎれて、

 硬く透明な音がした。

 チェンバロだ。

 4階の音楽室から旋律が聞こえてくる。


 階段の踊り場、

 壁際で、ぼくは今井とむかい合った。

 寒かったけど、

 そばに君がいたから温かかった。

 一歩、君に近づく。

 君の白い吐息、

 ぼくの前髪を撫でた。


 ぼくは、右手を、

 自分の心臓にあて、言った。


「夏休み、会議室で、君は、きいたよな」



 アリアがながれた。

 静謐で澄みきった音色、甘美な旋律。

 ぼくは続けた。



「だれが、

 わたしの、心臓を動かしているのか。って」



「……はい。ききました、

 思い出しました、記憶しています」


 今井が答えた。

 上部の大きな窓からあふれる光を浴びて、

 君は青白く光っていた。



「あの時、わからなくて、

 ぼくは、答えられなかった。

 けど、いまは確信している」

 

 床をながめた。

 窓枠の十字の影が映り、階段までつづいていた。

 ぼくは正面に立つ、今井の目を見た。



「今井。君だ。

 ぼくの心臓を動かしているのは、君だ」


「えっ……」


 ぴくりと唇がうごいた。

 ぼくは、君の腕をつかんだ。

 やわらかかった。

 ふるえている君を感じた。



「ぼくは、絶望していた。

 人間が創った、この愚かな世界に。

 絶望して……、

 ひとりぼっちで、動けずに、とまっていた」

 

 手に伝わる、今井の体温があたたかかった。

 アバターであり、仮想の体温。

 それでも君のぬくもりが、

 ぼくの中心にある、冷たい塊をとかしていく。



「だけど、こんな世界でも。

 ぼくを、ワクワクさせる存在がいた」


 顎をややそむけ、

 君は、乙女のはじらいをさらした。

 頬がうす赤く色づく、

 ぼくは、自分の心を解き放つ。


「ぼくを、ドキドキさせて、この心臓、

 ぼくの心臓を動かす存在がいたんだ」

 

 君をひきつけ、顔をつき合わせた。

 ぼくは瞳を求めた。

 加速していく、ふたつの心臓の鼓動。

 輝度が頂点に到達した君の瞳。

 やがてぼくたちは── ……

 高鳴りを超えた



 ぼくの心音と、君の心音

 やすらかに同期していた

 君の瞳、凛と輝いていた

 あの夏の日と同じだ

 魔法がかかった

 時間がもどった

 ずっと、ずっと、つたえたかった言葉を

 君の瞳を見ながら、

 ぼくはいった



「今井、ぼくは、君が好きだ。大好きだ」



「……上杉くん」


 ちいさな唇が奏でた。

 さらにひきよせた。



「今井、生きる理由。

 ……これだけじゃ、たりないか?」



 君の瞳から、透明な、

 水よりも透明な真実がうまれた。

 ──それをたとえるなら、初雪。

 校舎の前で、

 二人で肩をならべて見た初雪。

 君は両手を差しだし、

 手のひらでうけとめた、

 つめたい雪、体温にとけて、

 泪になったから──




  光が射せばきらめくように

  風が吹けばたなびくように

  雨がふれば濡れるように

  そっと、君は、まぶたをおとした

  摂理の一片をになうかのように

  君とぼくは、唇をかさねた



  感覚などあろうはずもない

  ──しかし、ふれた

  時間と空間を越えて、ふれた

  精神、こころ、たましい

  そんな不確かなものに

  確かにふれて

  君と、ぼくは、つながった──




 ぼくの中心、──氷塊がとけて砕け散った













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